三心通信 2022年11

 

今月3日から7日までの眼蔵会が円成してしばらくは暖かい日が続いたのですが、12日に急に寒くなり、2、3cm程度ですが雪が降りました。翌13日、ロスアンゼルスに出発する日には晴れましたが、温度は回復しなかったので、どのような服装で行けばいいのか迷いました。とりあえず、長袖の下着と、ジャケットを来ていきました。ロスアンゼルスでは、最低気温が10℃前後、午後には25℃ほどになりました。通りの日陰になっている側を歩くのが、やや涼しくて気持ちよく感じました。18日夕方にブルーミングトンに帰って来た時には、氷点以下になっていました。ロスアンゼルスとの温度差に驚きました。そ後、3日ほど寒い日が続きましたが、現在はやや回復し、最低気温は氷点下5℃ほどまで下がりますが、日中には10℃以上になります。地面を覆っていた落ち葉もあらかた掃き集められて、例年通りの冬の景色になりました。秋に晴天が続いて乾燥していたいたあいだ、苔の緑も色あせていましたが、雪が降ってから少し回復したようです。



三心寺のコロナ対策として、飛行機での旅行から帰って来た時は、5日間自己隔離をし、その後テストをして陰性であることを確認してから、人々と会ったり、公共の場所に出たりできることになっています。23日が5日目でした。テストの結果が陰性でしたのでことなきを得ました。

 

月はじめにあった眼蔵会は、数名の人たちだけが三心寺の禅堂で、坐禅を含んだ通常の差定通り修行しました。市外からの人たちにはオンラインで参加していただきました。パンデミックが始まってからこの方式が定着しました。それ以前は、20名ほどが受け入れられる限界でしたが、一緒に7炷の坐禅をし、講義を聞いてもらっていました。オンラインでの眼蔵会が始まってからは、アメリカ各地のみならず、ヨーロッパ、オーストラリア、日本から参加していただく人たちもあって、眼蔵参究の輪が広がったことは確かです。話をする方としては、聞いてくれている人たちの顔をみながら、話す方が手応えがあるのですが、おそらくパンデミックが収束してからもこのやり方は定着していくのだろうと思います。もっとも、私の眼蔵会は来年の5月で最終回ですが。

 

正法眼蔵佛性」パート2のメインになるのは、龍樹尊者の「身現佛性」の部分でした。「この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸佛體なり。以表するがゆゑに諸佛體を透脱す。しかあるがゆゑに、佛邊にかかはれず。」

 

私たちが坐る坐禅は、誰でもない私たち自身の身体と心(五蘊)を結跏して坐るのですが、「先須除我慢」、まず私たち自身の「我」に基づいた思いを手放して坐っているのですから、私(正博)の意欲と、目的意識に基づいた個人的な営為ではありえません。坐禅は佛性を表しているのですが、事実として、私の身心で坐っているわけですから、佛性そのものでもありません。佛性は表現されてあるだけです。ですから、衆生の世界と相対する仏の領域にかかずらっているわけでもありません。これは、道元禅師独自の非有非無中道、不一不二を表す論理なのだと思います。龍樹だけれども、龍樹ではない。佛性だけれども、佛性と呼ばれるなにものかが存在しているわけではない。ある意味では、一種の仮構の存在と空間が描き出されているように思えます。(「思う」だけが余計ですが。)

 

ロスアンゼルス禅宗寺での、北アメリカ国際布教100周年の記念行事として行われた授戒会に説戒師として参加させていただきました。委嘱を受けたときには、もう坐禅も正座もできないので、お役に立たないからと辞退しようとしたのですが、聞き入れられませんでした。授戒会に随喜したのは、日本では1回だけ、アメリカでは20年前の80周年記念の時の1度だけでした。どちらも、表舞台には立つことのない役目でしたので、今回が初めてのようなものでした。

 

三心寺創立以来、毎年7月に禅戒会を行い、その最終日に授戒をしてきました。戒師の責任として、「教授戒文」、「梵網経」の十重禁戒の部分について、説明して来ましたので、話の内容はある程度身についたものでした。しかし、今回聴いていただくのは三心寺の参禅者ではなく、既にご自分で授戒をしていられるアメリカ人の宗侶もあり、若い僧侶の方々もおられました。また日本人の僧侶でお手伝いに来ておられた方々もありました。100人の戒弟の中には、禅センターのメンバーの人たちもあり、日系アメリカ人の方々もおられましたので、話の内容として、どのあたりに焦点を当てればいいのか難しい点がありました。また、このような大きな法会に慣れていないので、場違いな空間に迷い込んでいるような感じもしました。

 

アメリカ開教100周年ということですが、私がマサチューセッツ州のパイオニア・バレー禅堂で修行するためにはじめてアメリカに来たのは、1975年でしたので、数えてみると47年前になります。1981年から1993年まで日本にいた間も、主にアメリカやヨーロッパから来た人々と坐禅修行とテキストの英訳をしていましたので、100年の中の半分近くの年月、私も隅っこでですが、関わって来たことになります。信じがたいことですが、27歳だったのが現在74歳ですので、驚きです。

 

70年代は、禅ブームの最中で、鈴木老師が創立されたサンフランシスコ禅センター、前角老師のロスアンゼルス禅センター、片桐老師のミネソタ禅センター、ケネット老師のシャスタ・アベイなど、少数の禅センターが成長し、繁栄しておりましたが、法系間の交流というものはほとんどなかったように思います。また曹洞禅のテキストについても、「随聞記」の英語訳と鈴木老師のZen Mind Beginner’s Mind、内山老師のApproach to Zen (「生命の実物」の最初の訳、日貿出版刊)などごく少数のものしかありませんでした。また、禅センターと日系の曹洞宗寺院との関係も、指導者の出身母体というだけで、積極的な交流はなかったように思います。

 

1993年にミネソタ禅センターに移転した頃、禅宗寺で開かれた開教師の会議に参加しましたが、私の記憶が正しければ、殆どが日本人開教師で、アメリカ人は大圓ベナージュ師だけだったのではないでしょうか。日系寺院以外で、アメリカ人を主な対象として活動していたのは、ベナージュ師以外には、秋葉老師とバレー禅堂の藤田一照師と私だけだったような気がします。

 

1997年に秋葉老師が総監に就任され、私が北アメリカ開教センターの所長を務めることになりました。その頃に現在のASZB (Association of Soto Zen Buddhists)が創立され、ほぼ同時にSZBA (Soto Zen Buddhist Association)が創立されて、アメリカ国内の曹洞禅の横のつながりができ始めました。開教センターの初期の目標は、日本曹洞宗アメリカの曹洞宗系の禅センター、日系寺院と禅センターとの交流を深め、北アメリカの曹洞禅の共同体意識を促進することでした。最初は禅宗寺にオフィスをおき、2年後にサンフランシスコの桑港寺に移転しましたが、開教センターの所長としての私の仕事の一つは、各地の禅センターを訪問して、坐禅修行や道元禅師の教えの参究を通じて交流を深めることでした。

 

その頃からすでに30年がたち、秋葉総監老師の継続的なご努力、ご指導とその他の人々の協力によって、今回の授戒会が日本人僧侶のご指導とお手伝いを得て、アメリカ人の宗侶が主な配役を担って行われ、日系寺院のメンバーと禅センターのメンバーが戒弟として参加しての授戒会は、曹洞宗の国際布教活動の歴史の中で、画期的な集会であったと思います。

 

私の英語の著書、Living by Vow が、南米コロンビアの嗣法の弟子伝照・キンテロによってスペイン語に翻訳され、この度出版されました。伝照はまた、来年2月にコロンビアでは最初の晋山式を行います。私も随喜させていただく予定でおります。



目の前に、すでに臘八接心がせまっています。私は、2020年の臘八接心の最終日12月8日で、身体的に坐禅がつらくなっていましたので、得度してから50年が経ったのを期に、摂心への参加をやめました。しばらくは、日曜参禅会には坐っていたのですが、それもできなくなりました。ですので、坐禅に関していえば、私はすでに現役ではありません。来年6月には、三心寺住職から引退する予定です。ほぼすべての活動は現在副住職の法光を中心にして何人かが協力して進めてくれています。

 

12月7日の深夜まで坐禅があり、8日の朝食後、禅堂その他の掃除をして解散というのが例年の差定でしたが、今年はその日の午後に得度式があります。沢木老師の得度式も内山老師のも、私が得度を受けたのも12月8日でした。今回はアメリカ在住の日本人の女性2人が得度します。私にとってはこれが最後の得度式になります。

 

2022年11月25日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2022年10

 

 

この1週間ほど、こちらで言うインディアン・サマーで暖かい日が続いています。それ以前には、霜が降った朝もありましたので、外に出る時にはジャケットを来ていましたが、今はティーシャツだけでも大丈夫なほどです。一昨日、曇天で、風が強く、時おり雨が降りましたので、また気温が下がるのだろうと思いましたが、昨日、今日とまたよく晴れて、暖かく爽やかな、清秋というにふさわしい天候になりました。紅葉の盛りは中旬に過ぎ、落葉が進んでいます。先月、小さな草原に君臨していたsnakeroot(丸葉藤袴)も色があせてしまいました。goldenrod(金の竿)も、日本名であるセイタカアワダチソウ(背高泡立草)と呼ぶ方が相応しくなりました。

 

セイタカアワダチソウという長い日本名はどういう人がつけたのでしょう。英語の名前のイメージと違い過ぎています。この植物に対するレスペクトが感じられません。花が枯れて綿毛になってからの、決して美しくはない形状を表現しているのだと思いますが、老衰の姿を名前にされては、ご本人としては不本意だろうなと思います。日本や中国では、侵略的な外来種としていまでも警戒されているそうです。50年ほど前、この花がのさばり始めていた日本では、同じく北アメリカ原産のブタクサ(hogweed)と混同されて、アレルゲンだと疑われていました。決して好意的に見られていなかったことは確かだと思います。しかし、若くてきれいに咲いている時の花のイメージが表現されている英語の名前との差が大きすぎるように思います。それに、この辺りに咲いているgoldenrodは、それほど背高ではありません。かなり高くなるものも中にはありますが、多くは、私の腰のあたりくらいですから、1mほどだと思います。日本では土壌が肥えていたせいか、私の身長よりも高く、2m以上もありそうなのが川原や休耕田や空き地を占領していたような記憶があります。また、goldenrodは薬効もあり、花はハーブ・ティになり、この花から取れる蜂蜜はゴールデンロッド・ハニーと呼ばれて人気があるそうです。

 

こちらでは、goldenrodについて、ネガテイブなイメージは全くありません。日本でセイタカアワダチソウがススキの天敵としてきらわれているのと同じで、こちらではススキがgoldenrodの競争者として嫌われています。どちらにしても、それらの植物が悪意を持って他所の土地を侵略したのではなく、人間が人間の都合で運び込んだものなのに、植物たちに、良い、悪いの差別的判断をつけるのは、あまりに人間中心主義的なように思います。



9月中旬のChapel Hill Zen Center主催の眼蔵会が終わってから、少し休んで11月の三心寺の眼蔵会の準備に入りました。今回は「正法眼蔵佛性」の巻のパート2です。私の区分では、第5章の「嶺南人無佛性」、第6章「六祖無常佛性」、第7章「龍樹身現佛性」が含まれます。これまで、3回か4回、講義してきましたが、まだ、本当に理解できているのか、我ながら自信がもてません。これまでは、もともとEastern Buddhistという、京都で発行されていた英文の仏教誌に発表され、2002年にState University of New York PressからThe Heart of Dogen’s Shobogenzoというタイトルで出版された、Norman Waddel and Masao Abeの翻訳を使いました。自分で「佛性」の巻を翻訳できるとは思えなかったからです。今回、来年の三心寺住職から引退する前の最後の3回の眼蔵会に、「佛性」を3つのパートに分けて自分の訳を作り、それをもとに講義することにしました。パート1は、今年の5月の眼蔵会で読みました。今回はその2回目ということになります。

 

私の兄弟子の唐子正定さんの御著書「正法眼蔵佛性参究」(春秋社発行、2015年)を参考に読ませていただいております。十数年にわたる、滝見観音堂における参禅会での提唱の記録をもとにまとめられたものです。460ページの大冊です。

 

正定さんに初めてお会いしたのは、京都玄啄にあった安泰寺の接心に初めて参加させていただいた1969年の正月でした。私は二十歳で、駒澤大学の1回生でした。そのおり、4名おられた安泰寺の雲水さんのお一人が正定さんでした。無言の摂心でしたので、もちろんお話をさせていただく機会もありませんでした。その年の夏の夏季日課に参加させていただいた時、正定さんは、大阪の英語学校に通って英語の勉強をしておられました。次の年、アメリカのマサチューセッツ州に行かれるとのことでした。

 

1970年の12月8日に私は得度をさせていただいたのですが、その時にはすでにアメリカに行かれておりました。次にお会いしたのは、1973年の冬だったと思います。1972年に駒澤大学を卒業し、安泰寺に安居しておりましたが、その年の11月、臘八接心の前から半年の間、埼玉県新座市滝見観音堂におりました。その時は、内山老師は安泰寺から引退された後、滝見観音堂に移転される予定でしたので、それまで雲水が3人ほど留守番として、托鉢をしながら坐禅修行をしておりました。私が観音堂にいる間に3年間アメリカに滞在されておられた正定さんが帰国されて滝見観音堂においでになられ、しばらく滞在されたのでした。その間に、もう一人の方と一緒に高尾山にハイキングに行ったことを覚えております。その後、正定さんは永平寺に1年間安居され、内山老師の隠居場所の予定が変わったので、正定さんが滝見観音堂に住職されることになりました。そのころ一度、ご一緒に東京で托鉢をさせていただいたのを覚えております。

 

その後、1975年、内山老師が安泰寺から引退された年の12月に、今度は、前年に行かれていた市田高之さんと合流するために、池田永晋さんと私がマサチューセッツ州に行き、正定さんが始められたアメリカ人のグループが結成したパイオニア・バレー禅堂に参りました。それ以降はアメリカから日本に帰る折に何回か滝見観音堂にお訪ねしましたが、ご一緒に坐禅したり、講義を聞かせていただく機会はありませんでした。

 

駒澤大学以来の友人で、この三心通信や、三心禅コミュニティ日本事務局のお世話をしていただいている鈴木龍太郎さんは、駒沢在学中、1年間休学して、正定さんと滝見観音堂で参禅されました。後年、春秋社で編集の仕事をされましたが、正定さんの「正法眼蔵佛性参究」の編集をされたのは鈴木さんでした。それで出版されてすぐにご恵送いただいたのですが、様々の仕事が忙しく、ざっと目を通しただけでした。今回、「佛性」の巻を自分で英語に訳し、3回に分けて眼蔵会で講義をするにあたって、大切なところは書写させていただいて、精読させていただいております。なによりも、参究の緻密さに圧倒されております。時折出てくる、京都学派や滝沢克巳さんの哲学用語は、私には馴染みがなくて、深く理解できているとは思えませんが、現在、曹洞宗の中で、これ以上の「佛性」の巻の解説を書ける人はいないだろうということはできます。十歳以上若輩でもあり、親しくお付き合いさせていただいたわけではありませんが、半世紀以上にわたる長年のご法縁に感謝しております。

 

11月の眼蔵会が終わると、13日からロスアンゼルスに参ります。北アメリカ最初の曹洞宗の寺院として禅宗寺がロスアンゼルスに創立されたのが1922年で今年が100周年になります。それは同時にアメリカ開教100周年でもあります。その記念行事として行われる、授戒会に説戒師として参加するためです。2020年の3月にパンデミックの影響で、ヨーロッパでの滞在を急遽きりあげて、三心寺に帰ってから、2年半以上、飛行機に乗って旅行したことはありません。年齢のせいか、田舎町で静かに暮らしているのが心地よく、遠くに行きたいとも思わなくなりました。

 

 

2022年10月27日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

三心通信 2022年

 

今日は23日、秋分の日とのこと、だいぶ秋めいてきました。YMCAに行き、往復の時間を加えて、1時間以上歩き、ストレッチをしましたが、ほとんど汗をかきませんでした。空気は澄んで、そよ風が吹き、空には薄い秋雲が流れていました。木の早い木々はすでに紅葉を始めています。貸し農園の夏の花々は既にほとんど姿を消し、コスモスの花が風に揺れています。

 

境内の小さい草原は、snakeroot(丸葉藤袴)が席巻しています。あちらこちらにgolden rod(背高泡立草)の群れがありますが、多勢に無勢です。こんなに沢山、綺麗な白い花を咲かせていますが、以前にも紹介したように、この植物には毒があって、19世紀ごろまで、この花を食べた牛のミルクを飲んだ人たちが何百人も亡くなったそうです。原因がわかるまで、ミルク病という名前で恐れられたようです。500年ほど前にヨーロッパから連れてこられた牛たちは毒があることを知らなかったので食べていたけれども、何万年もこの土地に住んでいる鹿たちは全く食べないのだそうです。鹿たちにとって、この小さな草原は要注意の場所なのでしょう。すぐ近くまで近づいて他の草は食べてますが、snakerootには全く興味を示しません。



三心寺からオリーブ・ストリートを挟んだ向かいのお家に、高齢のご夫婦が住んでおられましたが、何年か前にご夫婦ともに亡くなられ、相続された人が土地を開発業者に売られたようで、かなり広い土地に一軒だけが立っていたのを更地にして、3軒の建売住宅が現在建築中です。この界隈の雰囲気も変わりつつあるようです。

 

10日から14日までノースカロライナ州のChapel Hill Zen Center主催の眼蔵会がありました。拙訳の「見仏」の巻が講本でした。今月の前半はこの眼蔵会とその準備のために使いました。大乗仏教の菩薩道としては、「見仏」と「受記」とは大切な言葉です。パーリ仏典のジャータカのイントロダクションに釈尊が過去世にSumedhaという名前の青年であった話があります。Sumedhaはサンサーラの生活にみきりをつけ、先祖代々の財産を全て捨てて、ニルヴァーナを求めてヒマラヤの山中で修行を始めました。かなり修行が進んで神通力が使えるようになってから、燃燈仏に出会います。燃燈仏を見て、これまでの志を変えて、自分一人だけが涅槃に入るのではなく、燃燈仏のように衆生済度ができる仏になりたいと誓願を立てました。その時に、燃燈仏から将来、成仏して釈迦牟尼佛となるであろうという予言を受けます。それが受記です。現実の仏を見て、誓願を起こし、記別をうけて、Sumedhaは始めて、将来の成仏を約束された菩薩になり、それ以後、500生の間、菩薩の修行を続けて、最終的に釈迦牟尼佛になるのです。仏伝文学では、菩薩は成仏以前の釈尊ただ一人です。

 

大乗仏教では、だれでも菩提心を起し、菩薩戒を受ければ菩薩と呼ばれますが、誰でもなれる凡夫の菩薩である我々は、釈尊がなくなったあと、弥勒菩薩が出現されるまでの無仏の時代に生きています。仏伝のなかの釈迦菩薩のように「見仏」し、誓願を起こし、「授記」を受けて、将来の成仏を確約されることはありえません。そのような、凡夫の菩薩にとって、「見仏」や「受記」はどのような意味があるのかということが、「正法眼蔵授記」、「見仏」のテーマです。これらの巻で、道元禅師は、我々にも「見仏」や「受記」は可能だと言われています。今ここの坐禅を基本とした修行がそのまま「見仏」であり「受記」だというのがその答えだと私は理解しています。

 

道元禅師が遷化が近いことを自覚して、最後の著作としてかかれたのが「八大人覚」だということは有名です。「八大人覚」の本文の大部分は「佛遺教経」からの引用です。釈尊入滅前の最後の教えだと伝えられています。入滅の直前に、「今より已後、我が諸の弟子、展轉して之を行ぜば、則ち是れ如來の法身、常に在して滅せざるなり」。仏弟子釈尊の教えの通りに行じていれば、如来法身はいつでもそこにある、というのは面白い論理だと思います。如来法身が常在不滅であるかどうかは、仏弟子が無常の世界の中、無常の身心を使って、仏道修行を続けるかどうかにかかっているというのです。無常のものが永遠なものに支えられているというのではなく、無常なものが無常の中で修行を続けることが、永遠なものを永遠たらしめるということだと思います。今、11月の眼蔵会のために「眼蔵佛性」のパート2の準備を始めていますが、この部分のメインテーマである、龍樹菩薩の「身現円月相」がまさにそのような論理なのだと考えています。

 

14日に眼蔵会が終わってから、半分ほど残っていた宗務庁の翻訳事業の正法眼蔵の解説とグロサリーが入る第八巻の日本語の部分の校正を完了しました。眼蔵会が終わってからは、疲労で何日間かアタマが働かなくなるのですが、校正はそのような状態のときにはいい仕事だと思いました。意味を考えずに、字面を追うだけのほうが間違いなくできる仕事ですので。

 

毎月、20日を過ぎると、Dogen Instituteのウエブ・サイトに連載しているDogen’s Chinese Poems (道元漢詩)の原稿を書いています。今回は、1252年の7月17日の第515、天童忌上堂の際の漢詩でした。「永平広録」には、天童忌の上堂は1246年以降、1252年まで毎年の上堂の記録がありますが、興聖寺時代のものは全く記録がありません。興聖寺で天童忌が行われなかったとは考えにくいのですが、どうしたことなのでしょうか。今回は、道元禅師と如浄禅師の関係を時系列として改めて理解しようと、在宋中の動きを手元にあるいくつかの書物で勉強しましたので、かなり時間がかかりました。如浄禅師の生没年や、天童景徳寺への入寺、退任の日付け、道元禅師との初めての出会いなどについて、かなり新しい学説があって、どれを取ればいいのか、迷いました。

 

「天童忌」

先師今日忽行脚、 (先師今日忽ちに行脚し、)

趯倒從來生死關。 (從來生死の關を趯倒す。)

雲惨風悲溪水溌、 (雲惨み風悲しみ溪水溌ぎ、)

稚兒戀慕覓尊顔。 (稚兒戀慕して尊顔を覓む。)

 

今回の詩で興味深かったのは、生死の関所を踏み倒して行脚に出られた師の忌日に、この次の年、渾身無覓、生陥黄泉 (渾身覓めることなく、生きながら黄泉に陥つ)と辞世の頌にかかれた道元禅師が、雲も、風も、渓声も、世界中が悲しみを表現し、ご自身も幼子のように25年前に遷化された師を悼み、尊顔を覓めて、涙を流していると書かれていることです。同じ年の2月の釈尊の涅槃会に、「戀慕何爲顛誑子 欲遮紅涙結良因 (戀慕、何爲せん顛誑の子、紅涙を遮めて良因を結ばんと欲す)」と気絶するほどに嘆き悲しんでいる阿難など、まだ悟っていない人たちの側に自分の身を置いておられることも思い出しました。「正法眼蔵」を読んでいる時にはそのようなイメージは全く出てこないのですが。晩年、あるいはすでに自分の死を予感しておられたからなのでしょうか? あるいは、自受用三昧、身心脱落の世界は、本来、悲しみや喜びの感情を超越した世界ではなく、一時の坐禅中に、尽界の万法が悟りとなるだけではなく、悲しい時には万法がこぞって悲しみを表現する世界なのでしょう。

 

 

 

2022年9月23日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2022年8月

 

今月中旬までは、30度を超える暑い日が続いていましたが、下旬に入って朝夕はかなり涼しくなりました。午後3時過ぎにYMCAまで歩く時も、立っているだけで汗が出てくるようなことはなくなりました。曇って風のある日には涼しさを感じるようにもなりました。ついこの間まで、太陽に向かって咲き誇っていた貸し農園のひまわりたちも、大きなものはすでに黄色い花弁の部分はなくなり、真ん中の黒くなった種の部分が重そうに頭を下げて、しょんぼりとしてしまったように見えます。何年か前までは老醜だとしか見えませんでした。しかしひまわりさんたちご本人にすれば、しょんぼり頭を下げているというよりも、稔るほどに頭が低くなる稲のように、今年の責任を果たしたという充実感をあじわっているのでしょうね。人間も晩年はそうありたいものだと思います。小さめのひまわりたちはまだ元気に咲いています。

 

境内の小さい草原の植物たちも、夏の花はほとんど終わってしまいました。秋に花をつけるgolden rod (日本名は背高泡立草)が背丈を伸ばし、snakeroot(丸葉藤袴)も、もう直ぐ花をつけそうです。日が暮れてから外に出ると、蝉の声と、秋の虫の音が混じり合って聞こえます。ごくわずかですが、まだ蛍が飛び交っているのも見ることができます。季節が動いているのを感じます。

 

6月の三心通信でお知らせした苔庭の石庭の部分、砂利を敷いた後に、これまでのものと比較するとかなり大きな庭石が入りました。野外に長く放置されていたものらしくすでに苔むしている石もあります。ショベル・カーをつかって、発心さんが一人で動かし、設置してくれたものです。写真にあるように竹垣を修理しているところです。先日、家族なのか、5頭の鹿が一緒に草を食べに来ました。めずらしく角をはやした牡の鹿も一緒でした。



今月4日から7日まで、ノースカロライナ州の Great Tree Zen Women’s temple の4日間のリトリートのためにこの数年Dogen Instituteのウエブ・サイトのために連載している「句中玄」に収められている道元禅師の漢詩の解説と感想をもとにして、講義をしました。あちらに行くように依頼されていたのですが、また、カリフォルニアからブルーミングトンに移ってから数年間、毎年walking retreatに行っていた場所だったので、知り合いもいて、私も行ければ良いなと思っていたのですが、まだ飛行機の旅行が完全に安心だとは言えないので、Zoomを通して、三心寺からリモートでの講義になりました。今回は「句中玄」の順序では、第10首から第17首までの8首をテキストにしました。最初の4首は「雪」と題したもの、そのあとは「禅人に与う」と題したものでした。

 

第13首

三界十方何一色       (三界十方何ぞ一色なる)

誰論天上及人間       (誰か論ぜん天上及び人間)

莫傳寒苦鳥言語       (傳うることなかれ寒苦鳥の言語)

無熱惱池在雪山       (無熱惱池は雪山に在り)

 

この詩は、見渡す限り雪に覆われた永平寺の冬の景色のなかで、それぞれの生きる態度によって苦しみとも、よろこびともなる修行生活のなかでの、仏教的表現では、輪廻即涅槃、娑婆即寂光土、十界互具などを表現されたものですが、「寒苦鳥」という言葉が、仏典には見つからないのが興味深いと思いました。たしかに、大正新脩大蔵経のサイトで検索してみても見つかりません。「平家物語」にもでるそうです。日本で作られたものなのでしょうか? 鎌倉時代にはよく使われた表現なのでしょうか?

 

3日にベルギー人の黙祥さんが伝法の7日間の加行をするために三心寺に来ました。もともとヨーロッパの禅センターで出家得度をしたのですが、師匠の人が日本に帰国されて、首座法戦式も嗣法もできなくなって、転師をして私の弟子になりました。三心寺の夏期安居で首座法戦式をし、岡山県の洞松寺に安居させていただきました。一昨年に嗣法する予定だったのですが、パンデミックのためアメリカ入国ができず、2年間延期していたものです。今回は入国できたのですが、空港か飛行機の中でコロナに感染してしまいました。こちらに到着した翌日には私の「句中玄」の講義も聞いていたのですが、2日目から具合が悪くなりました。最初はみんな時差ぼけと旅行の疲れが出たのだろうと思っていましたが、テストをするとコロナに感染していることがわかりました。それで、伝法の式を延期して、1週間、自分の部屋で自己隔離をしてもらいました。同じアパートにいる人たちも、禅堂に一緒にいた私たちも、なるべく他の人たちとの接触を控え、5日経ってからテストを受けて陰性であることを確認しました。三心寺の禅堂も、数日間閉鎖しました。1週間の自己隔離のあと、黙祥さんも陰性になり、12日からようやく7日間の加行をはじめ、18日にようやく完了しました。幸に軽症ですみましたが、まだまだ、国際旅行は安全だとは言えないようです。

 

9月に同じくノースカロライナ州のChapel Hill Zen Center主催の眼蔵会があります。説訳の「見仏」の巻が講本です。1243年7月に越前に移転されてから、「三界唯心」から書き始めて、半年のうちに二十巻ほどの「正法眼蔵」を書いておられますが、「見仏」の奥書では11月19日付になっています。その年の最後に禅師峰で書かれたものです。Chapel Hill Zen Centerはサンフランシスコ・禅センターとつながりのあるサンガですが、20年以上前に訪問して「眼蔵坐禅箴」の磨塼の部分の講義をしました。その時の経験があって、「正法眼蔵」をある程度集中して講義することも不可能ではないと感じ、2002年にサンフランシスコ・禅センターにおいて、宗務庁の宗典翻訳事業の存在を知ってもらおうと、最初の眼蔵会を行ったのでした。その後も、Chapel Hillでは数回眼蔵会を行なっています。三心寺以外での眼蔵会の最後がこのセンターになったのにも何か因縁を感じています。

 

宗務庁の翻訳事業の正法眼蔵の解説とグロサリーが入る第八巻の日本語の部分の校正を曹洞宗国際センターから頼まれて、時間のある範囲ですすめております。400頁もあるので、2つの眼蔵会の準備に追われている今は、無理だと思ったのですが、英語や中国語の部分はしなくても良いということなので、できるだけ努力しております。

 

そんなこんなで、時間がなく、「菩薩戒の参究」の十重禁戒の部分の原稿作成は全く進んでおりません。

 

来年の年間スケジュールを考えなければならない時期にきました。特に、例年通りの接心と、首座法戦式に加えて、三心寺創立20周年と、私の退任および法光の就任の式、などがあって、忙しい夏期安居になりそうです。

 

 

2022年8月25日

 

 

奥村正博 九拝

 

三心通信 2022年7月

 

 

7月は例年のように暑い日が続いております。雨もあまり降らず、苔庭には、茶色い部分が目立ってきました。モグラの活動も活発で、今年もまたトンネルを掘っております。YMCAの近くにある貸し農園では、いろんな野菜などと一緒に、3メートルほどもある巨大なひまわりが辺りを睥睨するように咲き誇っております。いかにも夏の盛りという風景です。当地は緯度が高く、内陸ですので、この暑さはそれほど長くは続かず、8月の中旬には温度が下がり始めます。

 

4月4日から始まった3ヶ月の夏期安居は7月4日の在家得度式をもって円成いたしました。過去2年間、コロナ禍のために接心やリトリートを取り止めておりましたので、3年ぶりの安居で、始まる前は無事に円成できるかどうか心配しておりましたが、週5日の毎日朝夕の行持と、5月の眼蔵会、6月の坐禅だけに専注する接心、小山一山さんの首座法戦式、7月の禅戒会などを滞りなく終えることができました。私は、椅子坐禅も難しくなって、眼蔵会と禅戒会の講義、授戒の戒師だけを担当しました。その他のすべての行持は副住職の法光が、何人かの長く参禅している人たちと共に担当してくれました。なるべく、人々の修行の目障りにならないように心がけております。

私が戒師を勤める授戒会は今年が最後になりました。今回は8人の人たちが受戒して仏弟子になりました。私が初めて戒師を務めたのは、1995年のミネアポリスの禅センターでした。創立者の片桐大忍老師が1990年に遷化されてはじめての授戒でしたので、希望者が多く40名近くの人たちが同時に受戒しました。なるべく同じ法名を避けたいので、最初の時から、受戒した人の法名を記録しております。それによると、これまでに182人の人たちが私から受戒しました。

 

今回の禅戒会での「菩薩戒」についての講義は、「教授戒文」の前半、序分で説かれる「諸仏大戒」ということ、律蔵で説かれる具足戒などとは違って、仏仏祖祖が伝えてきた法の内容が戒なのだということ。それから、懺悔、三帰戒、そして三聚浄戒までの話をしました。これは、11月に予定されている北アメリカ開教100周年記念の授戒会で、私が話すように依頼されている部分でもあります。十重禁戒については今回は話す時間がありませんでした。5日間の禅戒会では最終日に受戒の式があり、4回しか講義がありませんので、これは毎年のように起こることです。それで、ある時期4、5年をかけて、第十不痴謗三宝戒から始めて、毎年、概説と十重禁戒の3つの戒に集中して話しました。その時の講義のトランスクリプションを使って、「菩薩戒の参究」と題した本を作りたいと願い、十重禁戒の部分の加筆訂正を行なっています。6月と7月で、第十不痴謗三宝戒と第九不瞋恚戒の部分ができました。

 

三帰依戒」について書き直しているときに、12巻品正法眼蔵の「帰依仏法僧宝」の巻を読んでいて、12巻品正法眼蔵の第11「一百八法明門」と第12巻「八大人覚」を除いて、最初の10巻は「出家受戒」についての説示なのだと思い当たりました。

 

第1「出家功徳」、第2「受戒」は文字通り「出家受戒」が眼目です。

第3「袈裟功徳」も出家者が着用すべき正伝のお袈裟についての説示であり、在家者もお袈裟をつけるように説かれています。

第4「発菩提心」は出家受戒の前提条件である菩提心についての説示で、「感応道交」、内からほとばしり出るものと外からそれに対応する仏の慈悲の重要性が説かれています。

第5「供養諸仏」は、「出家受戒」は到達点ではなくて諸仏を供養する修行の出発点なのだということです。

第6「帰依仏法僧宝」は、いうまでもなく十六条戒の最初の帰依三宝についてです。

第7「深信因果」、第8「三時業」は、菩薩の誓願に基づき、「菩薩戒」に従って修行を続ける上で必要な因果についての「信」を確定しなければならないことを説かれています。因果を撥無せず、しかし「悪しき業論」の落とし穴に落ち込まない「深信因果」についての説示です。

第9「四馬」は、再び菩提心について、発心の仕方には各人によって、遅い、早い、様々あるけれども、生死を明めることが基本だと説示されます。

第10「四禅比丘」は、仏法について間違った理解をしているときにはそのことに気づき、懺悔し、その都度新しく菩提心を起こすべきことが説かれています。

 

12巻本はこれから永平寺で出家受戒する次世代の人々に、出発点で理解しておくべき基本的に重要な点を確認するために書かれたのではないかと考えております。道元禅師自身や、そのもとに集まってきた人々はすでに仏教の基本を天台宗やその他のお寺で学び、それに疑問を持って新しいものを求めてこられたのだと思います。これから、永平寺仏道修行の第一歩を始める人たちに自分達が乗り越えなければならなかった困難を避けて、真っ直ぐに進めるようにと、入門書として書かれたのではないかと考え始めております。その正見、正信に基づいて、75巻本で説かれたような自由で創造的な思索、修行を展開しなければならないというのが、道元禅師が「正法眼蔵」全体で説き、後世に残しておきたかったことのような気がしております。

 

今からは、8月のGreat Tree Woman’s temple の4日間のリトリートで道元禅師の漢詩について話し、9月のChapel Hill ZCの眼蔵会の「見仏」の巻についての講義の準備を始めなければなりません。そのあと、11月の三心寺の眼蔵会、そしてロスアンゼルス禅宗寺での授戒会と続きますので、年末まで忙しくなります。

 

日本ではコロナ禍がまだ収束しないのに、火山の噴火などの自然災害、人間によって起こされている様々な社会不安が報じられています。アメリカでも様々な深刻な問題があり、多くの人々が将来への不安を抱えているようです。このような中で、仏法を学び、坐禅を行じていくことの意味を考えております。

 

先週の、金曜日、土曜日、日曜日の午前中と、2日半にわたって、年に一度の三心禅コミュニティのボード(理事会)のリトリートがありました。毎月の理事会のミーティングはZoomを使ってリモートで行なっていますので、顔を合わせての理事会は年に一度だけです。州外に居住しているボード・メンバーの人たちが2泊3日の朝9時から午後5時頃までのミーティングに参加するために来てくれました。来年、私が退任することによって、将来の、短期、中期、長期の展望を共有しなければなりませんので、なかなか大変でした。今回、私たち家族は、来年三心寺境内から離れて、近くに住みたいという希望を伝えました。今私たち家族が住んでいる建物全体をお寺として使ってもらうようにお願いしました。2003年から20年近く住んでいるこの建物や境内を離れるのにはそれなりの感慨がありますが、お寺の将来を考えると、その方がいいと思います。



 

 

6月24日

 

 

奥村正博 九拝

三心通信 2022年6月

 

 

6月に入って後半は暑い日が続いています。外に出ると、立っているだけで汗が出てきそうです。YMCAまで歩き、ジムの中を45分間歩行禅、15分ほどストレッチをしてまた歩いて帰ってきます。片道15分ほどですので、毎日1時間15分ほど歩いています。YMCAの屋内は冷房がよく効いていて、歩いていても暑さは全く感じません。屋外を往復30分ほど歩くだけでTシャツはびっしょりになるほどに汗が出るようになりました。

 

数年前に死んだスズという猫を埋葬した場所に植えたネムノキがかなり大きくなって、今たくさん花をつけています。成長が早く、20年近く前に植えた桜の木の高さに迫っています。英語ではmimosa, Persian silk tree, pink sirisなどと呼ばれています。中国では漢方薬として古くから使われているようですが、もともと新大陸にはなかった植物で、アメリカでは、invasive(侵略的)だといわれて、あまり歓迎されていないようです。

 

この安居中の作務の計画の一部として、ワーク・リーダー(直歳)の発心さんを中心にして苔庭の一部、石を敷いてある部分のやり直しをしてくれています。小型のショベルカーで、石を全部取り除き、その下に敷いてあったシートを取り除き、整地をして、シートを取り替えて、新しい石を入れているところです。日本で石庭に敷くのは花崗岩(グラナイト)を砕いたものですが、この辺りでは手に入らないので普通の砂利を入れています。ちなみに、この辺りには石灰岩が多く、かつて採石場だった場所がいくつももあります。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングなどに使われた石はこの辺りから運ばれたものだとのことです。苔庭を作り始めてから20年近くが経って、苔は全体を覆うほどに生えたのですが、石の部分が、特にこの2、3年手入れができなくて、見苦しくなっていました。

発心さんはもともとインディアナ大学で美術を専攻した芸術家ですが、仕事としてはコンストラクターをしてきました。建築の仕事ならなんでもできる人です。三心寺の建物のことは、この20年間ずっと世話をしてもらっています。マサチューセッツ屯田兵まがいの生活をしていた頃、このような機械を使える知識と技術と資金があれば、あの頃の生活も随分と身体への負担が少なく、あるいは今でも坐禅ができていたかもしれないなと思います。40年以上前のことを思ってみてもなんの意味もありませんが。

 

4月4日から始まった夏期安居はすでに最終段階に入っています。6月12日には小山一山さんの首座法戦式がありました。本則は「従容録」第51則、「法眼舡陸」でした。万松行秀の示衆によるとこの則のテーマは世法と仏法を分けずに、打成一片にすると、そこにも迷悟は有るか無いかと言うことですが、宏智正覚の頌では、釈尊が出現される前、達磨の西来以前、つまり迷悟が分かれる以前だから迷悟は無いということのようです。このことについては、道元禅師の言い分は宏智禅師とは違うのではないかと思います。「現成公按」の最初の2文で、「あり、あり」、「なし、なし」といわれて、第3文で「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。」と言われているのですから。本則行茶の時にそのように話しました。

首座法戦式の助化師として秋葉玄吾総監老師においでいただきました。サンフランシスコから深夜便に乗り、早朝にインディアナポリスに到着し、午前8時頃に三心寺に到着、10時からの法戦式に臨席していただいたあと、昼食をとって、あまり休むまもなく、インディアナポリス空港に出発という強行スケジュールでした。しかも、帰りのフライトでは天候により、デンバーで3時間待たされされ、サンフランシスコに到着されたのは、深夜になったとのこと。誠に申し訳なく存じました。しかし、首座法戦式をしないと、せっかく出家得度をして宗門に僧籍を登録しても、首座法戦式をしないと何年か後に僧籍を抹消されてしまいますので、弟子を育てるためには法戦式をせざるを得ません。私も国際センターの仕事をしていた頃は結構強行スケジュールであちこちの禅センターを訪問しましたが、今ではどうしてあんなことができていたのか不思議です。

 

夏期安居の行持で最後に残っているのは6月30日から7月4日までの禅戒会、その最終日にある授戒です。私が戒師を勤める授戒会は今年が最後になります。5月にsewing retreatがあって、7人が絡子の把針をしました。あと一人はカナダ在住の人で、居住地の禅センターで縫いました。把針をしている間に戒弟の人たちと個人的に面談し、法名を作成しました。現在、血脈の包みと絡子の裏書きをしているところです。

血脈は、ミネアポリスで最初に授戒会をしたときに、アルファベットで書いたものを日本で和紙に200枚印刷してもらったものを使っていました。こんなに沢山作って使い切ることができるのかと思っていました。しかし、数年前に使い切ってしまいました。それで、最近は戒弟の人たちに、禅戒会の作務の時間に自分で書いてもらうことにしています。そのために、私の法系の祖師方の名前と、誕生と遷化の年代がわかる人についてはその生没年、住職地などを書いたリストのプリントを作りました。戒弟の人たちにとっても、血脈には何が書かれているのかが分かって好評です。それまでは、何が書かれているのか好奇心で開けてみて、元通りに折りたたむのが難しくて困ったというような人がいましたが、自分で血脈を書いてもらえればそのようなことはおこりませんので。

 

とりあえず、私が戒師を勤めるのはこれが最後です。来年の今頃は住職を辞任していますので、筆を取って墨で字を書く苦行から解放されると思うと、それだけで嬉しくなります。私の字は、時には自分でも読めないほど下手くそなのです。字で人格を判定されれば、私は最低の人間になるでしょう。小学校の低学年のころには書道を習ったこともあって、まあまあ普通の字を書いていたような記憶があるのですが、高学年になった頃から、どう言うわけか思い出せませんが、何しろ早く書くことに興味をもって、速記のように自分さえ読めればいいような書き方をするようになりました。書取りのテストでは字が汚いので、その分減点され、全部正解でも満点はもらえませんでした。中学生の頃には学校新聞を作っていて、5分くらいの話ならば、聴いたその場で筆記することができました。その代わり書道の成績は5段階の2でした。それでも平気でした。瑞応寺に半年安居していた間、毎週だったと思いますが、夕方に書道の時間があったので閉口しました。いくら練習しても上手になるわけはないと思って、安居の間中、「独坐大雄峰」ばかりを書いておりました。確か次の日の朝参の時に楢崎一光老師が点検され、私がいつも同じ文字だけを書いていたので、納得できるまで練習するのはいいことだと、少し見当違いのお言葉をいただいて恐縮したことを覚えております。

 

一昨日、22日で74歳になりました。体力、脳力、その他の退化の進み方は早くはなっても、遅くなることはありません。最近、特に英語で話しているときに、ある言葉が頭の中に浮かんでこないで立ち往生する頻度が増えてきました。何を言いたいかは分かっているのに、それに対応する言葉が出てこないのです。必ずしも難しい言葉ではありません。普段普通に使っているような言葉が、忘れたというよりもそこにあるのに姿を見せないと言う感じです。英語で講義をする時、今までは、言うべきことは、調べてメモに書いておりましたが、自分のボキャブラリーを使って、聴いている人たちの顔をみながら話したくて、講義の原稿は書かないことにしておりました。これからは、言葉が出ない時には原稿を見られるようにしたほうがいいかなと考え始めております。

 

先週、YMCAから帰るときに、コンクリートの歩道で、転倒しました。坂道でもなく、段差があるところでもなく、どうして転倒したのか今でも分かりません。脳みそと眼と足指の連絡がうまくいってなかったのでしょう。今までこんなことが起こった経験はありません。普通なら、無意識にでも膝をつくか、体をねじるかして顔が地面にぶつかるのを防ぐと思うのですが、全く棒が倒れるように倒れて、顔だけを打ちました。両手をついて衝撃を緩めたのが唯一の防御でした。鼻の頭と、唇の上とアゴとの三箇所を打って、血を流しながら家に帰りました。幸いにそれほど深い傷ではなくて、今朝、最後のカサブタが取れました。傷跡も大して残らないようで安心しました。頭を打ったり、骨を折ったりしなかったのは幸運だったと思います。自分でも老齢化が一段と進んだのを自覚せざるを得ません。あまりめでたくも無い誕生日でした。

 

 

6月24日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

三心通信 2022年5月

 

ここ1週間ほど、雨が降ったりやんだりしています。日本の梅雨のように湿気が多く、ジメジメとしています。暖房はすでに不要ですが、まだ冷房が入るほど暑くはないので、屋内では寒く感じることもあります。三心寺境内の小さな草原もふたたび緑に覆われています。木々の濃い緑とともに、圧倒的な生命力を感じます。生まれたばかりらしい、小さな野ウサギが、危険な動物がいないか用心しながら、とことこ走り回っては、芽を出したばかりの小さくて柔らかい草を食べています。毎日のように、リスの兄弟(オスなのかメスなのかは分かりません)が、餌を食べる合間に追いかけっこをしています。バード・フィーダーには、いく種類もの野鳥が食事にきます。不思議なのは、そのなかにキツツキも混じっていることです。樹木をつついて中の虫を食べるよりも、与えられた餌を食べる方が楽だからなのでしょうか。人間が餌をやることで、彼らの食生活を変えているのかもしれません。境内の整備や植物の世話をしている人たちの方針で、5月中は人間が歩く通路になるところ以外は、芝刈りはしないことにしています。ミツバチが蜜を集めに来る時期だからとのことです。


パンデミックの間、誰もお寺にきませんでしたので、苔庭の草取りは、できるだけ私がしておりました。膝や腰を曲げてする仕事はせいぜい十五分くらいしかできませんでしたが、毎日のように、YMCAから帰ってから、地面にあぐらで座りこんで草取りをしておりました。今年は、首座の一山さんに苔庭の世話をしていただいています。最近雨が多いので苔の緑もきれいです。

 

4月4日から始まった3年ぶりの夏期安居は順調に進んでおります。5日から9日までは、眼蔵会がありました。先月書きましたように講本は「正法眼蔵佛性」のパート1でした。禅堂では、十人ほどの人たちが聴講し、Zoomを通じて参加する人たちを合わせて、100名近くの参加者がありました。ヨーロッパや日本から参加してくれる人たちもありました。私の英語での「眼蔵」の話を聞いてくれる人がこんなに多くいることに驚いています。

 

正法眼蔵佛性」のパート1というのは、私が適度の分量で、キリのいいところで区切っただけのものです。四祖と五祖の無佛性の問答のところまでで一区切りとしました。この問答は、公案ストーリーとしてはかなり長いものです。五祖の前身であった、栽松道者と四祖との出会いから話は始まります。四祖は栽松道者がすでに嗣法するには歳をとりすぎているので、生まれ変わって来るのならばそれまでまっていてやろうと言います。栽松道者はその申し出を受け入れて、水辺で洗濯していた周氏の娘に頼んで託殆して生まれてきます。「林間録」というテキストでは、父無し子を生んだというので、母親は家から追い出され、住むところもなく、昼間は村人に雇われて仕事をし、夜は集会所で眠ったと書かれています。生まれてすぐに川に捨てられたけれども、翌日、あるいは7日後、問題なく生きていたので、拾い上げて育てました。子供になってからは、母親について乞食をしていて、村人たちからは、無姓児と呼ばれていたということです。

そのような生活をしていた一日、四祖に出会って、「佛性」によれば、以下のような問答がありました。

祖見て問うて曰く、「汝、何なる姓ぞ」。

師、答へて曰く、「姓は即ち有り、是れ常姓にあらず」。

祖曰く、「是れいかなる姓ぞ。」

師答へて曰く、「是れ佛性」。

祖曰く、「汝、無佛性」。

師答へて曰く、「佛性空なるが故、所以に無と言う」。

 

この問答の結果、四祖はその子を仏法の器であることを知り、自分の侍者にして、後に正法眼蔵を付嘱しました。五祖は黄梅の東山に住んで、大いに仏法の玄風を振るったとのことです。

道元禅師は、この長々とした五祖の前生を含んだ尾びれには全く興味がなく、ご自分のコメントでは、上に引いた二人の問答だけに注意されています。このバージョンを引用されたのは、他のテキストでは「無佛性」という表現が使われていないからだと思われます。そもそも、952年にできた「祖堂集」にも、1004年に出来た「景徳伝灯録」にも、五祖が、父無し子で栽松道者の生まれ変わりだったなどという話はありません。むしろ「景徳伝灯録」には、この子供との問答の後、四祖は侍者をこの子供の家につかわして、「父母」を説得して自分の弟子としたと書かれています。

 

五祖が栽松道者の生まれ変わりで、父無し子として生まれ、生後すぐに川に流されたけれども、7日間無事に生きていたなどいう荒唐無稽な話は宋朝になって作られたものであることは明らかです。この話が最初にでる「林間録」は1106年に序文が書かれて刊行されていますので、「伝灯録」よりも100年ほども後にできたものです。同じ話が複数のテキストに出る場合、年代の順に辿ってみると時々面白い変化を見ることができます。宋代に入ってから、話を公案として面白くするために試みられたのだと思います。この場合は、話としては面白いけれども、余り深い意味をつけ加えることはなかったので、無視されて、ご自分のコメントには、二人の会話についてだけに絞られたのだと思います。

 

9日に眼蔵会が終わった後は、数日間何をする気力もありませんでした。数年前までは、3時間の講義の他に、参加者と一緒に、7炷の坐禅を坐って、ヘタヘタになっていたのですが、最近は、坐禅無しで講義だけなのに、同じくらいに疲れます。かえって、何故あんなことができていたのかと、不思議に思うくらいです。60歳代と70歳代の体力、脳力の違いは恐るべきものだと感じています。眼蔵会のあと、しばらく休養して、「菩薩戒の参究」の原稿の書き直しを始めています。

 

19日から25日までの1週間、Sewing Retreatがありました。家内の優子が指導して、7月始め、夏期安居の最後の行持であるPrecepts Retreatにおいて、受戒を希望する人たちに絡子を縫ってもらう期間でした。私が戒師として行う授戒会は今年が最後になります。受戒希望者は8人あります。私が最初に授戒をおこなったのは、1995年ミネソタ禅センターでの授戒会でした。片桐老師が亡くなられてから初めての授戒でしたので、戒弟が40名近くありました。その後、同じ法名が重なるのを避けるために、授戒会の度ごとに、授与した法名を記録してあります。それによると、今回の8人を含めると、182人になります。

 

来年の6月には私は三心寺の住職から退き、現在副住職の法光に引継ぎます。始めた頃のことを思い出すと、よく20年も存続できたものだというのが実感です。数年前には土地と建物のローンの支払いも完了しました。来年は三心寺創立20周年になります。

 

「長円寺本随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary 、がようやくWisdom社から出版されることになり、見本が数冊届きました。今年初めに出る予定だったのですが、紙の供給が滞っていて、印刷が遅れていました。6月の中旬から市場に出るとのことです。ハードカバーで、500ページ近い、大きな本になりました。「随聞記」の部分は見開きに、日本語原文と英語訳とが対照になっています。日本語の原文を読めるアメリカ人読者がどれほどいるかは疑問ですが。

5月28日

奥村正博 九拝