三心通信 2022年

 

今日は23日、秋分の日とのこと、だいぶ秋めいてきました。YMCAに行き、往復の時間を加えて、1時間以上歩き、ストレッチをしましたが、ほとんど汗をかきませんでした。空気は澄んで、そよ風が吹き、空には薄い秋雲が流れていました。木の早い木々はすでに紅葉を始めています。貸し農園の夏の花々は既にほとんど姿を消し、コスモスの花が風に揺れています。

 

境内の小さい草原は、snakeroot(丸葉藤袴)が席巻しています。あちらこちらにgolden rod(背高泡立草)の群れがありますが、多勢に無勢です。こんなに沢山、綺麗な白い花を咲かせていますが、以前にも紹介したように、この植物には毒があって、19世紀ごろまで、この花を食べた牛のミルクを飲んだ人たちが何百人も亡くなったそうです。原因がわかるまで、ミルク病という名前で恐れられたようです。500年ほど前にヨーロッパから連れてこられた牛たちは毒があることを知らなかったので食べていたけれども、何万年もこの土地に住んでいる鹿たちは全く食べないのだそうです。鹿たちにとって、この小さな草原は要注意の場所なのでしょう。すぐ近くまで近づいて他の草は食べてますが、snakerootには全く興味を示しません。



三心寺からオリーブ・ストリートを挟んだ向かいのお家に、高齢のご夫婦が住んでおられましたが、何年か前にご夫婦ともに亡くなられ、相続された人が土地を開発業者に売られたようで、かなり広い土地に一軒だけが立っていたのを更地にして、3軒の建売住宅が現在建築中です。この界隈の雰囲気も変わりつつあるようです。

 

10日から14日までノースカロライナ州のChapel Hill Zen Center主催の眼蔵会がありました。拙訳の「見仏」の巻が講本でした。今月の前半はこの眼蔵会とその準備のために使いました。大乗仏教の菩薩道としては、「見仏」と「受記」とは大切な言葉です。パーリ仏典のジャータカのイントロダクションに釈尊が過去世にSumedhaという名前の青年であった話があります。Sumedhaはサンサーラの生活にみきりをつけ、先祖代々の財産を全て捨てて、ニルヴァーナを求めてヒマラヤの山中で修行を始めました。かなり修行が進んで神通力が使えるようになってから、燃燈仏に出会います。燃燈仏を見て、これまでの志を変えて、自分一人だけが涅槃に入るのではなく、燃燈仏のように衆生済度ができる仏になりたいと誓願を立てました。その時に、燃燈仏から将来、成仏して釈迦牟尼佛となるであろうという予言を受けます。それが受記です。現実の仏を見て、誓願を起こし、記別をうけて、Sumedhaは始めて、将来の成仏を約束された菩薩になり、それ以後、500生の間、菩薩の修行を続けて、最終的に釈迦牟尼佛になるのです。仏伝文学では、菩薩は成仏以前の釈尊ただ一人です。

 

大乗仏教では、だれでも菩提心を起し、菩薩戒を受ければ菩薩と呼ばれますが、誰でもなれる凡夫の菩薩である我々は、釈尊がなくなったあと、弥勒菩薩が出現されるまでの無仏の時代に生きています。仏伝のなかの釈迦菩薩のように「見仏」し、誓願を起こし、「授記」を受けて、将来の成仏を確約されることはありえません。そのような、凡夫の菩薩にとって、「見仏」や「受記」はどのような意味があるのかということが、「正法眼蔵授記」、「見仏」のテーマです。これらの巻で、道元禅師は、我々にも「見仏」や「受記」は可能だと言われています。今ここの坐禅を基本とした修行がそのまま「見仏」であり「受記」だというのがその答えだと私は理解しています。

 

道元禅師が遷化が近いことを自覚して、最後の著作としてかかれたのが「八大人覚」だということは有名です。「八大人覚」の本文の大部分は「佛遺教経」からの引用です。釈尊入滅前の最後の教えだと伝えられています。入滅の直前に、「今より已後、我が諸の弟子、展轉して之を行ぜば、則ち是れ如來の法身、常に在して滅せざるなり」。仏弟子釈尊の教えの通りに行じていれば、如来法身はいつでもそこにある、というのは面白い論理だと思います。如来法身が常在不滅であるかどうかは、仏弟子が無常の世界の中、無常の身心を使って、仏道修行を続けるかどうかにかかっているというのです。無常のものが永遠なものに支えられているというのではなく、無常なものが無常の中で修行を続けることが、永遠なものを永遠たらしめるということだと思います。今、11月の眼蔵会のために「眼蔵佛性」のパート2の準備を始めていますが、この部分のメインテーマである、龍樹菩薩の「身現円月相」がまさにそのような論理なのだと考えています。

 

14日に眼蔵会が終わってから、半分ほど残っていた宗務庁の翻訳事業の正法眼蔵の解説とグロサリーが入る第八巻の日本語の部分の校正を完了しました。眼蔵会が終わってからは、疲労で何日間かアタマが働かなくなるのですが、校正はそのような状態のときにはいい仕事だと思いました。意味を考えずに、字面を追うだけのほうが間違いなくできる仕事ですので。

 

毎月、20日を過ぎると、Dogen Instituteのウエブ・サイトに連載しているDogen’s Chinese Poems (道元漢詩)の原稿を書いています。今回は、1252年の7月17日の第515、天童忌上堂の際の漢詩でした。「永平広録」には、天童忌の上堂は1246年以降、1252年まで毎年の上堂の記録がありますが、興聖寺時代のものは全く記録がありません。興聖寺で天童忌が行われなかったとは考えにくいのですが、どうしたことなのでしょうか。今回は、道元禅師と如浄禅師の関係を時系列として改めて理解しようと、在宋中の動きを手元にあるいくつかの書物で勉強しましたので、かなり時間がかかりました。如浄禅師の生没年や、天童景徳寺への入寺、退任の日付け、道元禅師との初めての出会いなどについて、かなり新しい学説があって、どれを取ればいいのか、迷いました。

 

「天童忌」

先師今日忽行脚、 (先師今日忽ちに行脚し、)

趯倒從來生死關。 (從來生死の關を趯倒す。)

雲惨風悲溪水溌、 (雲惨み風悲しみ溪水溌ぎ、)

稚兒戀慕覓尊顔。 (稚兒戀慕して尊顔を覓む。)

 

今回の詩で興味深かったのは、生死の関所を踏み倒して行脚に出られた師の忌日に、この次の年、渾身無覓、生陥黄泉 (渾身覓めることなく、生きながら黄泉に陥つ)と辞世の頌にかかれた道元禅師が、雲も、風も、渓声も、世界中が悲しみを表現し、ご自身も幼子のように25年前に遷化された師を悼み、尊顔を覓めて、涙を流していると書かれていることです。同じ年の2月の釈尊の涅槃会に、「戀慕何爲顛誑子 欲遮紅涙結良因 (戀慕、何爲せん顛誑の子、紅涙を遮めて良因を結ばんと欲す)」と気絶するほどに嘆き悲しんでいる阿難など、まだ悟っていない人たちの側に自分の身を置いておられることも思い出しました。「正法眼蔵」を読んでいる時にはそのようなイメージは全く出てこないのですが。晩年、あるいはすでに自分の死を予感しておられたからなのでしょうか? あるいは、自受用三昧、身心脱落の世界は、本来、悲しみや喜びの感情を超越した世界ではなく、一時の坐禅中に、尽界の万法が悟りとなるだけではなく、悲しい時には万法がこぞって悲しみを表現する世界なのでしょう。

 

 

 

2022年9月23日

 

 

奥村正博 九拝