三心通信 2020年10月

 

9月以来、雨が少なく乾燥した天気が続きました。その分、紅葉は綺麗でしたが、苔庭の苔は色あせていました。もぐらがトンネルを掘る作業でできた、「もぐら塚」の土の盛り上がりだけが目立ちました。この1週間ほど、曇天が多く2、3日おきに静かな秋雨が降っています。気温もまだ氷点下にはなりませんが、最低気温は一桁、最高気温が10度代半ばというところです。紅葉もすでに盛りは過ぎ、木の葉が落ちた分、空が広く明るくなっています。18日の日曜日にワーク・デイがあり、7、8人の人たちが来て、落ち葉掃きなど境内の整備をしてくれました。それでも、11月の半ばくらいに全ての木々が完全に裸になるまでは、地面は枯れ葉におおわれます。

 

11月19日から23日まで三心寺の眼蔵会があります。今回もオンラインです。それで先週から、朝の坐禅を免除してもらっております。若い頃は、時差ぼけの時以外は眠れないということは全くなかったのですが、70歳を過ぎてから、夜の睡眠が短く、かつ浅くなってきました。昨年くらいから、それがいよいよひどくなってきました。夜の睡眠が十分でないので、昼間、時差ぼけの時のように眠くなります。そういうときには、いくらコーヒーを飲んでも、頭がボヤーとして通常に働きません。通常に働かないというか、そういう状態が通常になってきたと言ったほうがいいかもしれません。世界中、気候の温暖化で毎年が異常気象、「異常」なのが「通常」になってきたのと似ているのかもしれません。眼蔵会の間は、5日間、毎日90分の講義を午前9時からと、午後2時からと2回しなければなりません。どうしてもこの時間に頭が働くように生活のサイクルを1ヶ月ほど前から整えなければならなくなりました。2、3年前までは、眼蔵会の直前2日ほど朝の坐禅を休むだけで、眼蔵会中、参加しているみんなと同じく4時半に起きて、6炷の坐禅も一緒にしていていました。眼蔵会が終わると、完全にエネルギーがなくなって、数日間何もできなかったのですが、それでもなんとか続いていました。今はもう、とても無理という感じです。今年はオンラインの眼蔵会ですので、私は坐禅をしないようにしています。それでなんとか1日、3時間英語で「正法眼蔵」の話ができているという感じです。60歳になったときに、50代とのあまりの違いに驚き、あわてましたが、60代と70代の差もかなりのものです。いまはすでに、抵抗する気力もなく、加齢による衰えを受け入れるより他にありません。無理をしないよう、かといって自分を甘やかさないように気をつけてはいますが、どこまで行っても下り坂だけなのはしょうがありません。しかし、この年まで、興味を持ってできる仕事があり、私の下手な英語での講義を聞いてくれる人たちがいることだけでも有り難いと感謝しています。

 

今回の眼蔵会の講本は「仏経」の巻です。2019年5月の眼蔵会で「三界唯心」の巻を講本にしてから、「説心説性」、「諸法実相」、「無情説法」と1243年に深草から越前に移転された直後に書かれた巻を参究してきました。これらの巻を読んで気がつくのは宋朝の禅に対する批判が多いということです。再出発に際して、御自分の仏法の理解、それに基づいた修行のあり方をはっきりさせるために、その頃に盛んだった禅についての考えや修行の仕方を批判して、これから新しい場所で学び、教え、修行すべき方向を会下の人たちのために明確にしようとされていたのだと思います。「仏経」の巻にも、宋朝の教外別伝、機関禅、三教一致、などへの批判が出てきます。

 

一昨年から、月に一度「句中玄」に収録されている道元禅師の漢詩について、「永平広録」の英語訳Dogen’s Extensive Recordで太源レイトン師と作成した英訳を使って、解説というか、私がどう理解しているのかを書いています。先日書き終えた11月分では、「句中玄」では34番目、永平広録第10巻では52番目の「野山忍禪人に與う」と題した漢詩について書きました。

 

「野山」は高野山の略です。忍禪人の忍は、この人の名前の最後の一文字ですが、どういう人なのかは全く不明です。高野山はいうまでもなく真言宗の本山、金剛峰寺がある山です。道元禅師に真言宗と縁があったという記録は私の知る限りありません。瑩山禅師の「伝光録」には、お母さんの葬儀が洛北にある高尾寺(神護寺)で行われ、その時、香煙を見て無常を観じて発心したと書いてありますが、葬儀が神護寺で行われた可能性は少ないそうです。

 

ただ一つ高野山道元禅師と縁があるのは金剛三昧院というお寺です。もとは1211年に栄西を開山として、北条政子の発願で源頼朝の菩提のために禅定院として創立されたものが、1219年に源実朝が暗殺されたあと、その菩提のために金剛三昧院と改称されました。実質的には弟子の退耕行勇(1163―1241)によって創立されたようです。行勇は真言宗の僧侶で、栄西が鎌倉に進出したときにはすでに鎌倉で活躍していました。栄西の弟子になってからも真言宗とのつながりは切れてなかったようです。これは栄西も同じでしょう。建仁寺延暦寺の末寺として、天台、密教、禅の兼修道場として創立されたということですから。天台宗真言宗から独立した禅宗を新しく確立するという意図はなかったようです。この漢詩にでる、忍禅人はおそらく行勇の弟子で、金剛三昧院で禅を修行していて、建仁寺を訪ねたのだろうと思います。行勇は、栄西の死後建仁寺の住職でもありました。

 

道元禅師が中国から帰国された直後に、紀州由良の西方寺を訊ねたという記事が「法灯円明國師行実年譜」にあるそうですが、その寺も金剛三昧院と同じく、源実朝の菩提のために、葛山景倫(出家名、願性)という人が開基になっています。行勇の弟子に、後に東福寺の開山となる円爾弁円や、後に由良の西方寺を興国寺と改称して住職となった心地覚心があります。覚心は道元禅師から菩薩戒を受けています。法灯円明國師というのは覚心の諡号です。「宝慶記」、「随聞記」、「眼蔵嗣書」の巻に出る隆禅という人も金剛三昧院と関係がったという説もどこかで読んだ記憶があります。

 

今までほとんど考えたこともなかったのですが、道元禅師が帰国されてからも、栄西の系統の人たちとの関係は続いていたようです。深草興聖寺の法堂の建立を援助した正覚尼は、源実朝正室だったという説もあるそうです。とすると、行勇と道元禅師がつかれた明全和尚との関係は建仁寺の中でどのようなものだったのか、また、栄西から批判されていた日本達磨宗の懐奘、その他の人々が道元禅師の会下に集まったことが、道元禅師と栄西の法系の人たちとの関係にどのような影響を及ぼしたのか、そのことが、円爾弁円が新しく創建された東福寺に入るのと同じ頃に深草から越前に移られたことと関係があるのかどうか、考えて見なければと思いました。

 

2023年に、三心寺の住職をやめてから、体力と脳力が許せば、道元禅師の伝記を書きたいと願っていますので、そういうことも気になってきました。いまだに、信頼できる道元禅師の伝記が、英語では書かれていないのです。

 

「野山忍禪人に與う」という漢詩の結句「噴噴地上觜盧都(噴噴地上に觜盧都す)」の意味にもう一つ確信が持てなかったので、鳥取県天徳寺の宮川敬之さんにお訊ねしたところ、大変丁寧に調べていただきました。敬之さんは、一昨年、昨年と11月の三心寺眼蔵会に三人のご法友とともに参加していただきました。拙著Realizing Genjokoanを日本語に訳していただいております。

 

2020年10月29日

 

奥村正博 九拝