三心通信 2022年

 

今日は23日、秋分の日とのこと、だいぶ秋めいてきました。YMCAに行き、往復の時間を加えて、1時間以上歩き、ストレッチをしましたが、ほとんど汗をかきませんでした。空気は澄んで、そよ風が吹き、空には薄い秋雲が流れていました。木の早い木々はすでに紅葉を始めています。貸し農園の夏の花々は既にほとんど姿を消し、コスモスの花が風に揺れています。

 

境内の小さい草原は、snakeroot(丸葉藤袴)が席巻しています。あちらこちらにgolden rod(背高泡立草)の群れがありますが、多勢に無勢です。こんなに沢山、綺麗な白い花を咲かせていますが、以前にも紹介したように、この植物には毒があって、19世紀ごろまで、この花を食べた牛のミルクを飲んだ人たちが何百人も亡くなったそうです。原因がわかるまで、ミルク病という名前で恐れられたようです。500年ほど前にヨーロッパから連れてこられた牛たちは毒があることを知らなかったので食べていたけれども、何万年もこの土地に住んでいる鹿たちは全く食べないのだそうです。鹿たちにとって、この小さな草原は要注意の場所なのでしょう。すぐ近くまで近づいて他の草は食べてますが、snakerootには全く興味を示しません。



三心寺からオリーブ・ストリートを挟んだ向かいのお家に、高齢のご夫婦が住んでおられましたが、何年か前にご夫婦ともに亡くなられ、相続された人が土地を開発業者に売られたようで、かなり広い土地に一軒だけが立っていたのを更地にして、3軒の建売住宅が現在建築中です。この界隈の雰囲気も変わりつつあるようです。

 

10日から14日までノースカロライナ州のChapel Hill Zen Center主催の眼蔵会がありました。拙訳の「見仏」の巻が講本でした。今月の前半はこの眼蔵会とその準備のために使いました。大乗仏教の菩薩道としては、「見仏」と「受記」とは大切な言葉です。パーリ仏典のジャータカのイントロダクションに釈尊が過去世にSumedhaという名前の青年であった話があります。Sumedhaはサンサーラの生活にみきりをつけ、先祖代々の財産を全て捨てて、ニルヴァーナを求めてヒマラヤの山中で修行を始めました。かなり修行が進んで神通力が使えるようになってから、燃燈仏に出会います。燃燈仏を見て、これまでの志を変えて、自分一人だけが涅槃に入るのではなく、燃燈仏のように衆生済度ができる仏になりたいと誓願を立てました。その時に、燃燈仏から将来、成仏して釈迦牟尼佛となるであろうという予言を受けます。それが受記です。現実の仏を見て、誓願を起こし、記別をうけて、Sumedhaは始めて、将来の成仏を約束された菩薩になり、それ以後、500生の間、菩薩の修行を続けて、最終的に釈迦牟尼佛になるのです。仏伝文学では、菩薩は成仏以前の釈尊ただ一人です。

 

大乗仏教では、だれでも菩提心を起し、菩薩戒を受ければ菩薩と呼ばれますが、誰でもなれる凡夫の菩薩である我々は、釈尊がなくなったあと、弥勒菩薩が出現されるまでの無仏の時代に生きています。仏伝のなかの釈迦菩薩のように「見仏」し、誓願を起こし、「授記」を受けて、将来の成仏を確約されることはありえません。そのような、凡夫の菩薩にとって、「見仏」や「受記」はどのような意味があるのかということが、「正法眼蔵授記」、「見仏」のテーマです。これらの巻で、道元禅師は、我々にも「見仏」や「受記」は可能だと言われています。今ここの坐禅を基本とした修行がそのまま「見仏」であり「受記」だというのがその答えだと私は理解しています。

 

道元禅師が遷化が近いことを自覚して、最後の著作としてかかれたのが「八大人覚」だということは有名です。「八大人覚」の本文の大部分は「佛遺教経」からの引用です。釈尊入滅前の最後の教えだと伝えられています。入滅の直前に、「今より已後、我が諸の弟子、展轉して之を行ぜば、則ち是れ如來の法身、常に在して滅せざるなり」。仏弟子釈尊の教えの通りに行じていれば、如来法身はいつでもそこにある、というのは面白い論理だと思います。如来法身が常在不滅であるかどうかは、仏弟子が無常の世界の中、無常の身心を使って、仏道修行を続けるかどうかにかかっているというのです。無常のものが永遠なものに支えられているというのではなく、無常なものが無常の中で修行を続けることが、永遠なものを永遠たらしめるということだと思います。今、11月の眼蔵会のために「眼蔵佛性」のパート2の準備を始めていますが、この部分のメインテーマである、龍樹菩薩の「身現円月相」がまさにそのような論理なのだと考えています。

 

14日に眼蔵会が終わってから、半分ほど残っていた宗務庁の翻訳事業の正法眼蔵の解説とグロサリーが入る第八巻の日本語の部分の校正を完了しました。眼蔵会が終わってからは、疲労で何日間かアタマが働かなくなるのですが、校正はそのような状態のときにはいい仕事だと思いました。意味を考えずに、字面を追うだけのほうが間違いなくできる仕事ですので。

 

毎月、20日を過ぎると、Dogen Instituteのウエブ・サイトに連載しているDogen’s Chinese Poems (道元漢詩)の原稿を書いています。今回は、1252年の7月17日の第515、天童忌上堂の際の漢詩でした。「永平広録」には、天童忌の上堂は1246年以降、1252年まで毎年の上堂の記録がありますが、興聖寺時代のものは全く記録がありません。興聖寺で天童忌が行われなかったとは考えにくいのですが、どうしたことなのでしょうか。今回は、道元禅師と如浄禅師の関係を時系列として改めて理解しようと、在宋中の動きを手元にあるいくつかの書物で勉強しましたので、かなり時間がかかりました。如浄禅師の生没年や、天童景徳寺への入寺、退任の日付け、道元禅師との初めての出会いなどについて、かなり新しい学説があって、どれを取ればいいのか、迷いました。

 

「天童忌」

先師今日忽行脚、 (先師今日忽ちに行脚し、)

趯倒從來生死關。 (從來生死の關を趯倒す。)

雲惨風悲溪水溌、 (雲惨み風悲しみ溪水溌ぎ、)

稚兒戀慕覓尊顔。 (稚兒戀慕して尊顔を覓む。)

 

今回の詩で興味深かったのは、生死の関所を踏み倒して行脚に出られた師の忌日に、この次の年、渾身無覓、生陥黄泉 (渾身覓めることなく、生きながら黄泉に陥つ)と辞世の頌にかかれた道元禅師が、雲も、風も、渓声も、世界中が悲しみを表現し、ご自身も幼子のように25年前に遷化された師を悼み、尊顔を覓めて、涙を流していると書かれていることです。同じ年の2月の釈尊の涅槃会に、「戀慕何爲顛誑子 欲遮紅涙結良因 (戀慕、何爲せん顛誑の子、紅涙を遮めて良因を結ばんと欲す)」と気絶するほどに嘆き悲しんでいる阿難など、まだ悟っていない人たちの側に自分の身を置いておられることも思い出しました。「正法眼蔵」を読んでいる時にはそのようなイメージは全く出てこないのですが。晩年、あるいはすでに自分の死を予感しておられたからなのでしょうか? あるいは、自受用三昧、身心脱落の世界は、本来、悲しみや喜びの感情を超越した世界ではなく、一時の坐禅中に、尽界の万法が悟りとなるだけではなく、悲しい時には万法がこぞって悲しみを表現する世界なのでしょう。

 

 

 

2022年9月23日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2022年8月

 

今月中旬までは、30度を超える暑い日が続いていましたが、下旬に入って朝夕はかなり涼しくなりました。午後3時過ぎにYMCAまで歩く時も、立っているだけで汗が出てくるようなことはなくなりました。曇って風のある日には涼しさを感じるようにもなりました。ついこの間まで、太陽に向かって咲き誇っていた貸し農園のひまわりたちも、大きなものはすでに黄色い花弁の部分はなくなり、真ん中の黒くなった種の部分が重そうに頭を下げて、しょんぼりとしてしまったように見えます。何年か前までは老醜だとしか見えませんでした。しかしひまわりさんたちご本人にすれば、しょんぼり頭を下げているというよりも、稔るほどに頭が低くなる稲のように、今年の責任を果たしたという充実感をあじわっているのでしょうね。人間も晩年はそうありたいものだと思います。小さめのひまわりたちはまだ元気に咲いています。

 

境内の小さい草原の植物たちも、夏の花はほとんど終わってしまいました。秋に花をつけるgolden rod (日本名は背高泡立草)が背丈を伸ばし、snakeroot(丸葉藤袴)も、もう直ぐ花をつけそうです。日が暮れてから外に出ると、蝉の声と、秋の虫の音が混じり合って聞こえます。ごくわずかですが、まだ蛍が飛び交っているのも見ることができます。季節が動いているのを感じます。

 

6月の三心通信でお知らせした苔庭の石庭の部分、砂利を敷いた後に、これまでのものと比較するとかなり大きな庭石が入りました。野外に長く放置されていたものらしくすでに苔むしている石もあります。ショベル・カーをつかって、発心さんが一人で動かし、設置してくれたものです。写真にあるように竹垣を修理しているところです。先日、家族なのか、5頭の鹿が一緒に草を食べに来ました。めずらしく角をはやした牡の鹿も一緒でした。



今月4日から7日まで、ノースカロライナ州の Great Tree Zen Women’s temple の4日間のリトリートのためにこの数年Dogen Instituteのウエブ・サイトのために連載している「句中玄」に収められている道元禅師の漢詩の解説と感想をもとにして、講義をしました。あちらに行くように依頼されていたのですが、また、カリフォルニアからブルーミングトンに移ってから数年間、毎年walking retreatに行っていた場所だったので、知り合いもいて、私も行ければ良いなと思っていたのですが、まだ飛行機の旅行が完全に安心だとは言えないので、Zoomを通して、三心寺からリモートでの講義になりました。今回は「句中玄」の順序では、第10首から第17首までの8首をテキストにしました。最初の4首は「雪」と題したもの、そのあとは「禅人に与う」と題したものでした。

 

第13首

三界十方何一色       (三界十方何ぞ一色なる)

誰論天上及人間       (誰か論ぜん天上及び人間)

莫傳寒苦鳥言語       (傳うることなかれ寒苦鳥の言語)

無熱惱池在雪山       (無熱惱池は雪山に在り)

 

この詩は、見渡す限り雪に覆われた永平寺の冬の景色のなかで、それぞれの生きる態度によって苦しみとも、よろこびともなる修行生活のなかでの、仏教的表現では、輪廻即涅槃、娑婆即寂光土、十界互具などを表現されたものですが、「寒苦鳥」という言葉が、仏典には見つからないのが興味深いと思いました。たしかに、大正新脩大蔵経のサイトで検索してみても見つかりません。「平家物語」にもでるそうです。日本で作られたものなのでしょうか? 鎌倉時代にはよく使われた表現なのでしょうか?

 

3日にベルギー人の黙祥さんが伝法の7日間の加行をするために三心寺に来ました。もともとヨーロッパの禅センターで出家得度をしたのですが、師匠の人が日本に帰国されて、首座法戦式も嗣法もできなくなって、転師をして私の弟子になりました。三心寺の夏期安居で首座法戦式をし、岡山県の洞松寺に安居させていただきました。一昨年に嗣法する予定だったのですが、パンデミックのためアメリカ入国ができず、2年間延期していたものです。今回は入国できたのですが、空港か飛行機の中でコロナに感染してしまいました。こちらに到着した翌日には私の「句中玄」の講義も聞いていたのですが、2日目から具合が悪くなりました。最初はみんな時差ぼけと旅行の疲れが出たのだろうと思っていましたが、テストをするとコロナに感染していることがわかりました。それで、伝法の式を延期して、1週間、自分の部屋で自己隔離をしてもらいました。同じアパートにいる人たちも、禅堂に一緒にいた私たちも、なるべく他の人たちとの接触を控え、5日経ってからテストを受けて陰性であることを確認しました。三心寺の禅堂も、数日間閉鎖しました。1週間の自己隔離のあと、黙祥さんも陰性になり、12日からようやく7日間の加行をはじめ、18日にようやく完了しました。幸に軽症ですみましたが、まだまだ、国際旅行は安全だとは言えないようです。

 

9月に同じくノースカロライナ州のChapel Hill Zen Center主催の眼蔵会があります。説訳の「見仏」の巻が講本です。1243年7月に越前に移転されてから、「三界唯心」から書き始めて、半年のうちに二十巻ほどの「正法眼蔵」を書いておられますが、「見仏」の奥書では11月19日付になっています。その年の最後に禅師峰で書かれたものです。Chapel Hill Zen Centerはサンフランシスコ・禅センターとつながりのあるサンガですが、20年以上前に訪問して「眼蔵坐禅箴」の磨塼の部分の講義をしました。その時の経験があって、「正法眼蔵」をある程度集中して講義することも不可能ではないと感じ、2002年にサンフランシスコ・禅センターにおいて、宗務庁の宗典翻訳事業の存在を知ってもらおうと、最初の眼蔵会を行ったのでした。その後も、Chapel Hillでは数回眼蔵会を行なっています。三心寺以外での眼蔵会の最後がこのセンターになったのにも何か因縁を感じています。

 

宗務庁の翻訳事業の正法眼蔵の解説とグロサリーが入る第八巻の日本語の部分の校正を曹洞宗国際センターから頼まれて、時間のある範囲ですすめております。400頁もあるので、2つの眼蔵会の準備に追われている今は、無理だと思ったのですが、英語や中国語の部分はしなくても良いということなので、できるだけ努力しております。

 

そんなこんなで、時間がなく、「菩薩戒の参究」の十重禁戒の部分の原稿作成は全く進んでおりません。

 

来年の年間スケジュールを考えなければならない時期にきました。特に、例年通りの接心と、首座法戦式に加えて、三心寺創立20周年と、私の退任および法光の就任の式、などがあって、忙しい夏期安居になりそうです。

 

 

2022年8月25日

 

 

奥村正博 九拝

 

三心通信 2022年7月

 

 

7月は例年のように暑い日が続いております。雨もあまり降らず、苔庭には、茶色い部分が目立ってきました。モグラの活動も活発で、今年もまたトンネルを掘っております。YMCAの近くにある貸し農園では、いろんな野菜などと一緒に、3メートルほどもある巨大なひまわりが辺りを睥睨するように咲き誇っております。いかにも夏の盛りという風景です。当地は緯度が高く、内陸ですので、この暑さはそれほど長くは続かず、8月の中旬には温度が下がり始めます。

 

4月4日から始まった3ヶ月の夏期安居は7月4日の在家得度式をもって円成いたしました。過去2年間、コロナ禍のために接心やリトリートを取り止めておりましたので、3年ぶりの安居で、始まる前は無事に円成できるかどうか心配しておりましたが、週5日の毎日朝夕の行持と、5月の眼蔵会、6月の坐禅だけに専注する接心、小山一山さんの首座法戦式、7月の禅戒会などを滞りなく終えることができました。私は、椅子坐禅も難しくなって、眼蔵会と禅戒会の講義、授戒の戒師だけを担当しました。その他のすべての行持は副住職の法光が、何人かの長く参禅している人たちと共に担当してくれました。なるべく、人々の修行の目障りにならないように心がけております。

私が戒師を勤める授戒会は今年が最後になりました。今回は8人の人たちが受戒して仏弟子になりました。私が初めて戒師を務めたのは、1995年のミネアポリスの禅センターでした。創立者の片桐大忍老師が1990年に遷化されてはじめての授戒でしたので、希望者が多く40名近くの人たちが同時に受戒しました。なるべく同じ法名を避けたいので、最初の時から、受戒した人の法名を記録しております。それによると、これまでに182人の人たちが私から受戒しました。

 

今回の禅戒会での「菩薩戒」についての講義は、「教授戒文」の前半、序分で説かれる「諸仏大戒」ということ、律蔵で説かれる具足戒などとは違って、仏仏祖祖が伝えてきた法の内容が戒なのだということ。それから、懺悔、三帰戒、そして三聚浄戒までの話をしました。これは、11月に予定されている北アメリカ開教100周年記念の授戒会で、私が話すように依頼されている部分でもあります。十重禁戒については今回は話す時間がありませんでした。5日間の禅戒会では最終日に受戒の式があり、4回しか講義がありませんので、これは毎年のように起こることです。それで、ある時期4、5年をかけて、第十不痴謗三宝戒から始めて、毎年、概説と十重禁戒の3つの戒に集中して話しました。その時の講義のトランスクリプションを使って、「菩薩戒の参究」と題した本を作りたいと願い、十重禁戒の部分の加筆訂正を行なっています。6月と7月で、第十不痴謗三宝戒と第九不瞋恚戒の部分ができました。

 

三帰依戒」について書き直しているときに、12巻品正法眼蔵の「帰依仏法僧宝」の巻を読んでいて、12巻品正法眼蔵の第11「一百八法明門」と第12巻「八大人覚」を除いて、最初の10巻は「出家受戒」についての説示なのだと思い当たりました。

 

第1「出家功徳」、第2「受戒」は文字通り「出家受戒」が眼目です。

第3「袈裟功徳」も出家者が着用すべき正伝のお袈裟についての説示であり、在家者もお袈裟をつけるように説かれています。

第4「発菩提心」は出家受戒の前提条件である菩提心についての説示で、「感応道交」、内からほとばしり出るものと外からそれに対応する仏の慈悲の重要性が説かれています。

第5「供養諸仏」は、「出家受戒」は到達点ではなくて諸仏を供養する修行の出発点なのだということです。

第6「帰依仏法僧宝」は、いうまでもなく十六条戒の最初の帰依三宝についてです。

第7「深信因果」、第8「三時業」は、菩薩の誓願に基づき、「菩薩戒」に従って修行を続ける上で必要な因果についての「信」を確定しなければならないことを説かれています。因果を撥無せず、しかし「悪しき業論」の落とし穴に落ち込まない「深信因果」についての説示です。

第9「四馬」は、再び菩提心について、発心の仕方には各人によって、遅い、早い、様々あるけれども、生死を明めることが基本だと説示されます。

第10「四禅比丘」は、仏法について間違った理解をしているときにはそのことに気づき、懺悔し、その都度新しく菩提心を起こすべきことが説かれています。

 

12巻本はこれから永平寺で出家受戒する次世代の人々に、出発点で理解しておくべき基本的に重要な点を確認するために書かれたのではないかと考えております。道元禅師自身や、そのもとに集まってきた人々はすでに仏教の基本を天台宗やその他のお寺で学び、それに疑問を持って新しいものを求めてこられたのだと思います。これから、永平寺仏道修行の第一歩を始める人たちに自分達が乗り越えなければならなかった困難を避けて、真っ直ぐに進めるようにと、入門書として書かれたのではないかと考え始めております。その正見、正信に基づいて、75巻本で説かれたような自由で創造的な思索、修行を展開しなければならないというのが、道元禅師が「正法眼蔵」全体で説き、後世に残しておきたかったことのような気がしております。

 

今からは、8月のGreat Tree Woman’s temple の4日間のリトリートで道元禅師の漢詩について話し、9月のChapel Hill ZCの眼蔵会の「見仏」の巻についての講義の準備を始めなければなりません。そのあと、11月の三心寺の眼蔵会、そしてロスアンゼルス禅宗寺での授戒会と続きますので、年末まで忙しくなります。

 

日本ではコロナ禍がまだ収束しないのに、火山の噴火などの自然災害、人間によって起こされている様々な社会不安が報じられています。アメリカでも様々な深刻な問題があり、多くの人々が将来への不安を抱えているようです。このような中で、仏法を学び、坐禅を行じていくことの意味を考えております。

 

先週の、金曜日、土曜日、日曜日の午前中と、2日半にわたって、年に一度の三心禅コミュニティのボード(理事会)のリトリートがありました。毎月の理事会のミーティングはZoomを使ってリモートで行なっていますので、顔を合わせての理事会は年に一度だけです。州外に居住しているボード・メンバーの人たちが2泊3日の朝9時から午後5時頃までのミーティングに参加するために来てくれました。来年、私が退任することによって、将来の、短期、中期、長期の展望を共有しなければなりませんので、なかなか大変でした。今回、私たち家族は、来年三心寺境内から離れて、近くに住みたいという希望を伝えました。今私たち家族が住んでいる建物全体をお寺として使ってもらうようにお願いしました。2003年から20年近く住んでいるこの建物や境内を離れるのにはそれなりの感慨がありますが、お寺の将来を考えると、その方がいいと思います。



 

 

6月24日

 

 

奥村正博 九拝

三心通信 2022年6月

 

 

6月に入って後半は暑い日が続いています。外に出ると、立っているだけで汗が出てきそうです。YMCAまで歩き、ジムの中を45分間歩行禅、15分ほどストレッチをしてまた歩いて帰ってきます。片道15分ほどですので、毎日1時間15分ほど歩いています。YMCAの屋内は冷房がよく効いていて、歩いていても暑さは全く感じません。屋外を往復30分ほど歩くだけでTシャツはびっしょりになるほどに汗が出るようになりました。

 

数年前に死んだスズという猫を埋葬した場所に植えたネムノキがかなり大きくなって、今たくさん花をつけています。成長が早く、20年近く前に植えた桜の木の高さに迫っています。英語ではmimosa, Persian silk tree, pink sirisなどと呼ばれています。中国では漢方薬として古くから使われているようですが、もともと新大陸にはなかった植物で、アメリカでは、invasive(侵略的)だといわれて、あまり歓迎されていないようです。

 

この安居中の作務の計画の一部として、ワーク・リーダー(直歳)の発心さんを中心にして苔庭の一部、石を敷いてある部分のやり直しをしてくれています。小型のショベルカーで、石を全部取り除き、その下に敷いてあったシートを取り除き、整地をして、シートを取り替えて、新しい石を入れているところです。日本で石庭に敷くのは花崗岩(グラナイト)を砕いたものですが、この辺りでは手に入らないので普通の砂利を入れています。ちなみに、この辺りには石灰岩が多く、かつて採石場だった場所がいくつももあります。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングなどに使われた石はこの辺りから運ばれたものだとのことです。苔庭を作り始めてから20年近くが経って、苔は全体を覆うほどに生えたのですが、石の部分が、特にこの2、3年手入れができなくて、見苦しくなっていました。

発心さんはもともとインディアナ大学で美術を専攻した芸術家ですが、仕事としてはコンストラクターをしてきました。建築の仕事ならなんでもできる人です。三心寺の建物のことは、この20年間ずっと世話をしてもらっています。マサチューセッツ屯田兵まがいの生活をしていた頃、このような機械を使える知識と技術と資金があれば、あの頃の生活も随分と身体への負担が少なく、あるいは今でも坐禅ができていたかもしれないなと思います。40年以上前のことを思ってみてもなんの意味もありませんが。

 

4月4日から始まった夏期安居はすでに最終段階に入っています。6月12日には小山一山さんの首座法戦式がありました。本則は「従容録」第51則、「法眼舡陸」でした。万松行秀の示衆によるとこの則のテーマは世法と仏法を分けずに、打成一片にすると、そこにも迷悟は有るか無いかと言うことですが、宏智正覚の頌では、釈尊が出現される前、達磨の西来以前、つまり迷悟が分かれる以前だから迷悟は無いということのようです。このことについては、道元禅師の言い分は宏智禅師とは違うのではないかと思います。「現成公按」の最初の2文で、「あり、あり」、「なし、なし」といわれて、第3文で「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。」と言われているのですから。本則行茶の時にそのように話しました。

首座法戦式の助化師として秋葉玄吾総監老師においでいただきました。サンフランシスコから深夜便に乗り、早朝にインディアナポリスに到着し、午前8時頃に三心寺に到着、10時からの法戦式に臨席していただいたあと、昼食をとって、あまり休むまもなく、インディアナポリス空港に出発という強行スケジュールでした。しかも、帰りのフライトでは天候により、デンバーで3時間待たされされ、サンフランシスコに到着されたのは、深夜になったとのこと。誠に申し訳なく存じました。しかし、首座法戦式をしないと、せっかく出家得度をして宗門に僧籍を登録しても、首座法戦式をしないと何年か後に僧籍を抹消されてしまいますので、弟子を育てるためには法戦式をせざるを得ません。私も国際センターの仕事をしていた頃は結構強行スケジュールであちこちの禅センターを訪問しましたが、今ではどうしてあんなことができていたのか不思議です。

 

夏期安居の行持で最後に残っているのは6月30日から7月4日までの禅戒会、その最終日にある授戒です。私が戒師を勤める授戒会は今年が最後になります。5月にsewing retreatがあって、7人が絡子の把針をしました。あと一人はカナダ在住の人で、居住地の禅センターで縫いました。把針をしている間に戒弟の人たちと個人的に面談し、法名を作成しました。現在、血脈の包みと絡子の裏書きをしているところです。

血脈は、ミネアポリスで最初に授戒会をしたときに、アルファベットで書いたものを日本で和紙に200枚印刷してもらったものを使っていました。こんなに沢山作って使い切ることができるのかと思っていました。しかし、数年前に使い切ってしまいました。それで、最近は戒弟の人たちに、禅戒会の作務の時間に自分で書いてもらうことにしています。そのために、私の法系の祖師方の名前と、誕生と遷化の年代がわかる人についてはその生没年、住職地などを書いたリストのプリントを作りました。戒弟の人たちにとっても、血脈には何が書かれているのかが分かって好評です。それまでは、何が書かれているのか好奇心で開けてみて、元通りに折りたたむのが難しくて困ったというような人がいましたが、自分で血脈を書いてもらえればそのようなことはおこりませんので。

 

とりあえず、私が戒師を勤めるのはこれが最後です。来年の今頃は住職を辞任していますので、筆を取って墨で字を書く苦行から解放されると思うと、それだけで嬉しくなります。私の字は、時には自分でも読めないほど下手くそなのです。字で人格を判定されれば、私は最低の人間になるでしょう。小学校の低学年のころには書道を習ったこともあって、まあまあ普通の字を書いていたような記憶があるのですが、高学年になった頃から、どう言うわけか思い出せませんが、何しろ早く書くことに興味をもって、速記のように自分さえ読めればいいような書き方をするようになりました。書取りのテストでは字が汚いので、その分減点され、全部正解でも満点はもらえませんでした。中学生の頃には学校新聞を作っていて、5分くらいの話ならば、聴いたその場で筆記することができました。その代わり書道の成績は5段階の2でした。それでも平気でした。瑞応寺に半年安居していた間、毎週だったと思いますが、夕方に書道の時間があったので閉口しました。いくら練習しても上手になるわけはないと思って、安居の間中、「独坐大雄峰」ばかりを書いておりました。確か次の日の朝参の時に楢崎一光老師が点検され、私がいつも同じ文字だけを書いていたので、納得できるまで練習するのはいいことだと、少し見当違いのお言葉をいただいて恐縮したことを覚えております。

 

一昨日、22日で74歳になりました。体力、脳力、その他の退化の進み方は早くはなっても、遅くなることはありません。最近、特に英語で話しているときに、ある言葉が頭の中に浮かんでこないで立ち往生する頻度が増えてきました。何を言いたいかは分かっているのに、それに対応する言葉が出てこないのです。必ずしも難しい言葉ではありません。普段普通に使っているような言葉が、忘れたというよりもそこにあるのに姿を見せないと言う感じです。英語で講義をする時、今までは、言うべきことは、調べてメモに書いておりましたが、自分のボキャブラリーを使って、聴いている人たちの顔をみながら話したくて、講義の原稿は書かないことにしておりました。これからは、言葉が出ない時には原稿を見られるようにしたほうがいいかなと考え始めております。

 

先週、YMCAから帰るときに、コンクリートの歩道で、転倒しました。坂道でもなく、段差があるところでもなく、どうして転倒したのか今でも分かりません。脳みそと眼と足指の連絡がうまくいってなかったのでしょう。今までこんなことが起こった経験はありません。普通なら、無意識にでも膝をつくか、体をねじるかして顔が地面にぶつかるのを防ぐと思うのですが、全く棒が倒れるように倒れて、顔だけを打ちました。両手をついて衝撃を緩めたのが唯一の防御でした。鼻の頭と、唇の上とアゴとの三箇所を打って、血を流しながら家に帰りました。幸いにそれほど深い傷ではなくて、今朝、最後のカサブタが取れました。傷跡も大して残らないようで安心しました。頭を打ったり、骨を折ったりしなかったのは幸運だったと思います。自分でも老齢化が一段と進んだのを自覚せざるを得ません。あまりめでたくも無い誕生日でした。

 

 

6月24日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

三心通信 2022年5月

 

ここ1週間ほど、雨が降ったりやんだりしています。日本の梅雨のように湿気が多く、ジメジメとしています。暖房はすでに不要ですが、まだ冷房が入るほど暑くはないので、屋内では寒く感じることもあります。三心寺境内の小さな草原もふたたび緑に覆われています。木々の濃い緑とともに、圧倒的な生命力を感じます。生まれたばかりらしい、小さな野ウサギが、危険な動物がいないか用心しながら、とことこ走り回っては、芽を出したばかりの小さくて柔らかい草を食べています。毎日のように、リスの兄弟(オスなのかメスなのかは分かりません)が、餌を食べる合間に追いかけっこをしています。バード・フィーダーには、いく種類もの野鳥が食事にきます。不思議なのは、そのなかにキツツキも混じっていることです。樹木をつついて中の虫を食べるよりも、与えられた餌を食べる方が楽だからなのでしょうか。人間が餌をやることで、彼らの食生活を変えているのかもしれません。境内の整備や植物の世話をしている人たちの方針で、5月中は人間が歩く通路になるところ以外は、芝刈りはしないことにしています。ミツバチが蜜を集めに来る時期だからとのことです。


パンデミックの間、誰もお寺にきませんでしたので、苔庭の草取りは、できるだけ私がしておりました。膝や腰を曲げてする仕事はせいぜい十五分くらいしかできませんでしたが、毎日のように、YMCAから帰ってから、地面にあぐらで座りこんで草取りをしておりました。今年は、首座の一山さんに苔庭の世話をしていただいています。最近雨が多いので苔の緑もきれいです。

 

4月4日から始まった3年ぶりの夏期安居は順調に進んでおります。5日から9日までは、眼蔵会がありました。先月書きましたように講本は「正法眼蔵佛性」のパート1でした。禅堂では、十人ほどの人たちが聴講し、Zoomを通じて参加する人たちを合わせて、100名近くの参加者がありました。ヨーロッパや日本から参加してくれる人たちもありました。私の英語での「眼蔵」の話を聞いてくれる人がこんなに多くいることに驚いています。

 

正法眼蔵佛性」のパート1というのは、私が適度の分量で、キリのいいところで区切っただけのものです。四祖と五祖の無佛性の問答のところまでで一区切りとしました。この問答は、公案ストーリーとしてはかなり長いものです。五祖の前身であった、栽松道者と四祖との出会いから話は始まります。四祖は栽松道者がすでに嗣法するには歳をとりすぎているので、生まれ変わって来るのならばそれまでまっていてやろうと言います。栽松道者はその申し出を受け入れて、水辺で洗濯していた周氏の娘に頼んで託殆して生まれてきます。「林間録」というテキストでは、父無し子を生んだというので、母親は家から追い出され、住むところもなく、昼間は村人に雇われて仕事をし、夜は集会所で眠ったと書かれています。生まれてすぐに川に捨てられたけれども、翌日、あるいは7日後、問題なく生きていたので、拾い上げて育てました。子供になってからは、母親について乞食をしていて、村人たちからは、無姓児と呼ばれていたということです。

そのような生活をしていた一日、四祖に出会って、「佛性」によれば、以下のような問答がありました。

祖見て問うて曰く、「汝、何なる姓ぞ」。

師、答へて曰く、「姓は即ち有り、是れ常姓にあらず」。

祖曰く、「是れいかなる姓ぞ。」

師答へて曰く、「是れ佛性」。

祖曰く、「汝、無佛性」。

師答へて曰く、「佛性空なるが故、所以に無と言う」。

 

この問答の結果、四祖はその子を仏法の器であることを知り、自分の侍者にして、後に正法眼蔵を付嘱しました。五祖は黄梅の東山に住んで、大いに仏法の玄風を振るったとのことです。

道元禅師は、この長々とした五祖の前生を含んだ尾びれには全く興味がなく、ご自分のコメントでは、上に引いた二人の問答だけに注意されています。このバージョンを引用されたのは、他のテキストでは「無佛性」という表現が使われていないからだと思われます。そもそも、952年にできた「祖堂集」にも、1004年に出来た「景徳伝灯録」にも、五祖が、父無し子で栽松道者の生まれ変わりだったなどという話はありません。むしろ「景徳伝灯録」には、この子供との問答の後、四祖は侍者をこの子供の家につかわして、「父母」を説得して自分の弟子としたと書かれています。

 

五祖が栽松道者の生まれ変わりで、父無し子として生まれ、生後すぐに川に流されたけれども、7日間無事に生きていたなどいう荒唐無稽な話は宋朝になって作られたものであることは明らかです。この話が最初にでる「林間録」は1106年に序文が書かれて刊行されていますので、「伝灯録」よりも100年ほども後にできたものです。同じ話が複数のテキストに出る場合、年代の順に辿ってみると時々面白い変化を見ることができます。宋代に入ってから、話を公案として面白くするために試みられたのだと思います。この場合は、話としては面白いけれども、余り深い意味をつけ加えることはなかったので、無視されて、ご自分のコメントには、二人の会話についてだけに絞られたのだと思います。

 

9日に眼蔵会が終わった後は、数日間何をする気力もありませんでした。数年前までは、3時間の講義の他に、参加者と一緒に、7炷の坐禅を坐って、ヘタヘタになっていたのですが、最近は、坐禅無しで講義だけなのに、同じくらいに疲れます。かえって、何故あんなことができていたのかと、不思議に思うくらいです。60歳代と70歳代の体力、脳力の違いは恐るべきものだと感じています。眼蔵会のあと、しばらく休養して、「菩薩戒の参究」の原稿の書き直しを始めています。

 

19日から25日までの1週間、Sewing Retreatがありました。家内の優子が指導して、7月始め、夏期安居の最後の行持であるPrecepts Retreatにおいて、受戒を希望する人たちに絡子を縫ってもらう期間でした。私が戒師として行う授戒会は今年が最後になります。受戒希望者は8人あります。私が最初に授戒をおこなったのは、1995年ミネソタ禅センターでの授戒会でした。片桐老師が亡くなられてから初めての授戒でしたので、戒弟が40名近くありました。その後、同じ法名が重なるのを避けるために、授戒会の度ごとに、授与した法名を記録してあります。それによると、今回の8人を含めると、182人になります。

 

来年の6月には私は三心寺の住職から退き、現在副住職の法光に引継ぎます。始めた頃のことを思い出すと、よく20年も存続できたものだというのが実感です。数年前には土地と建物のローンの支払いも完了しました。来年は三心寺創立20周年になります。

 

「長円寺本随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary 、がようやくWisdom社から出版されることになり、見本が数冊届きました。今年初めに出る予定だったのですが、紙の供給が滞っていて、印刷が遅れていました。6月の中旬から市場に出るとのことです。ハードカバーで、500ページ近い、大きな本になりました。「随聞記」の部分は見開きに、日本語原文と英語訳とが対照になっています。日本語の原文を読めるアメリカ人読者がどれほどいるかは疑問ですが。

5月28日

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2022年4月

気温が上がったり下がったりいておりますが、木々の緑が少しずつ目立つようになり、新緑の候という感じです。様々な花が咲いています。桜の花はほぼ散って葉桜になりました。クラブ・アップルの満開がやや過ぎたところです。crab appleの日本語名を調べようとしましたが、辞書には、アメリカに分布するバラ科リンゴ属の植物、としか説明されていません。リンゴ属ですが、実はブドウほどに小さく食用にはなりません。竹の子も出始めました。竹藪が大きくなりすぎるのを阻止するために毎年、一定の範囲外から出たものは除去していますので、写真の竹の子もすぐに切り取られます。

 

4月4日から、3年ぶりに夏期安居が始まりました。パンデミックの始まる前のように、マスクの着用なしで、坐禅会や勉強会を禅堂でできるようになりました。ただし、まだ注意は必要なようです。先週勉強会に出席した人から、感染者に接触した人に接触していたと言う連絡が入ったそうです。ご本人も、それを知ったのは次の日だったそうですが。そういうことから集団感染が起こることは、人間が集まる以上可能性は排除できませんので。

 

今回、首座を務める小山一山さんは、40年以上ニューヨークに在住し、アメリカ国籍も取得している人ですので、英語の問題は全くありません。3月下旬に三心寺にきて、既に1ヶ月以上になります。すでに4回、日曜日の法話をしてもらっています。私の弟子になったのは5年ほど前ですが、それ以前、30年くらい坐禅をしていた方です。パンデミックが始まる直前に、福岡の明光寺僧堂に半年間安居させていただきました。

 

参禅者の宿泊所としてかりていた隣のアパートは、パンデミックの間2年間、だれもつかわないのに、家賃だけは払い続けておりました。現在、もうひとりニューヨークから来ているキクさんと言う日本人の女性と、ソーヤというこの近く出身のアメリカ人の青年と、安居中は三人が居住しています。パンデミックが完全に収束していないこともあって、市外から来る眼蔵会や接心の参加者にはまだ解放しないようにしています。パンデミックの置きみやげということになると思いますが、どのような行持も、Zoomを通じてリモートでどのような遠隔地からも参加してもらえるようになりました。禅堂がスタジオのようになりました。

 

第2日曜日に、サンガ・ワーク・ディがあり、10名ほどの人たちが境内の清掃、整備の仕事をしてくれました。観音菩薩の立像と、坐禅の姿勢の仏像の寄贈がありました。二つともセメント仏です。アメリカで仏教に興味がある人たちの中には、このようなセメント仏を庭に置く人がかなりあります。木や花の苗や、造園用の様々な石などを売っている店で、キリスト教のイエス像やマリア象、その他様々なセメント製の像が売っています。その人の趣味が変わったか、代替わりしたときに不要物として引き取り先を探したのだと思います。日本の石仏とは感じが違って、あまり有り難みを感じません。



5月5日から9日までの眼蔵会が近づいてきました。あと1週間を切ったのですが、おそらく老化のためだと思いますが、さほどの切迫感がありません。なんだか、自分と現実に起こっていることの間に薄い膜があるような感じで、現実感がさほど感じられません。今回は、「正法眼蔵佛性」の巻のパート1です。「佛性」はながい巻ですので、3つのパートに分けて、3回の眼蔵会で完了する予定でおります。今回は、最初から四祖と五祖の無佛性についての会話の段落までです。過去に3回か4回、全巻の講義をしたことがあるのですが、いずれも10年以上前です。その際は「佛性」の巻を自分で英語に訳せるとは思えなかったので、Norman Waddell & Masao Abe訳のThe Heart of Dogen’s Shobogenzoに収録されている英訳を使いました。

 

今回は、私の眼蔵会で使う最後の講本ですので、何とか自分の訳を作りたいと、昨年11月の眼蔵会が終わったあと、3ヶ月以上をかけて、「佛性」を訳しました。なんとか完了したのですが、眼蔵会の講本として、自分の講義の中で説明をするという前提で翻訳しましたので、訳文を読むだけで分かるようにではなく、なるべく日本語に近いように工夫をしました。これは、私の眼蔵の英訳は全てがそうなのですが。訳注もつけていませんので、翻訳だけをまとめて一冊の本にすることはあまり意味がないと思います。

 

3月下旬から、この眼蔵会の準備に専念してきたのですが、いまだに準備完了とは言えません。毎回そうなのですが、眼蔵会がはじまって、実際に講義を始めるまではどのように説明すればいいのか、迷いに迷っています。

 

ということで、今月の三心通信は、いつもより短くなりました。申し訳ありません。

 

4月30日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

三心通信 2022年3月

 

お彼岸も過ぎて、春らしくなりました。YMCAに行く道には、木蓮の花が咲いています。遠目には、辛夷(こぶし)のように見える白い花が咲いている木もあります。お寺の境内の芝生が緑になり、枝垂れ桜も咲き始めました。

 

今月初旬から、公共の場でマスクを着用する必要がなくなりました。パンデミックが始まってから、私が行く公共施設というのは、ほぼYMCAだけで、買い物に出ることも余りありませんので、街の様子がどうなのかは分かりませんが、人々の雰囲気が違ってきたようです。気のせいか、道路をはしる自動車も増えてきたように思えます。今日、YMCAに行って、入ってすぐの受付のあたりが何か変わっているように感じました。いままでほぼ2年間設置されていた、レセプションで働く人たちと来客を隔てる透明なアクリル板が撤去されていて、何か、広々とした感じを受けました。こっちの方が普通なのだと思い返すのにやや時間がかかりました。これが、このまま続いてパンデミックの本当の収束に向かうように願っております。

 

三心寺でも、坐禅堂で以前のように、マスクなしで坐禅やレクチャーなどができるようになりました。4月4日から、夏期安居がはじまります。過去2年間はパンデミックのために安居を中止せざるを得ませんでしたので、3年ぶりということになります。2020年に首座を勤める予定だった小山一山さんにも2年間待ってもらうことになりました。ニューヨーク在住ですが、先週からこちらに来ています。安居中は首座が日曜日の法話をすることになっています。昨日、第1回の法話をしてもらいました。このまま、7月まで問題なく過ぎ安居が円成するように願っております。

2023年6月に三心寺住職から引退するまで、あと4回の眼蔵会のために「正法眼蔵佛性」と「見仏」を英語に訳しておりましたが、今月初めに第1稿ができて、現在、聖元さんにエディットしてもらっています。「佛性」のパート2まで、完了しました。そのあと2週間ほど、三心寺創立以来、夏期安居の最後の行持として、毎年7月に行っていた禅戒会の講義のトランスクリプションを材料にし、「菩薩戒の参究」と題して1冊の本にまとめるための書き直しの作業をはじめました。

最初の10年ほどは、「梵網経」の十重禁戒、「菩提達磨一心戒文」そして「教授戒文」を主なテキストにして、社会倫理、仏法の絶対的側面、菩薩の誓願行としての主体的側面の3つの方面から十六条戒の説明をしておりました。数年前に出所が疑問になって、「一心戒文」を使用するのをやめていました。万仭道担の「禅戒本義」に収録されているのですが、それがどこからきたものかがわからなかったのです。天台宗最澄の弟子の光定に「伝述一心戒文」と云う著作がありますが、宗門で云う「菩提達磨一心戒文」とは違うものです。石田瑞麿氏は「日本仏教における戒律の研究」の中で、「一心戒文を禅的なものとしてのみ促えようとするかのような傾向が示されてきたが、これは明らかに間違いであって、密教的な理解の埒内でこれを捉えなくてはならない」と言われています。

今回、宮川敬之さんに、「菩提達磨一心戒文」の起源について何か資料がないかお尋ねしたところ、「達磨相承一心戒儀軌」と云う松ヶ岡文庫所蔵の室町時代の一心戒の授戒の儀式のやり方を書いたものと、それについての、3人の学者の研究論文を送っていただきました。それらを総合すると、栄西の死後、栄西に仮託して、建仁寺で、天台の円頓戒を達磨から相承した一心戒つまり、禅戒として伝えられるようになった。その中に、「達磨一心戒文」が入っている。その文が、江戸時代以前に、切り紙として曹洞宗にも伝えられた。万仭道担が、それら切り紙の出所を調べて、「達磨相承一心戒儀軌」を用いて、現在我々が見るものを創り上げたと云う流れのようです。

私は、「達磨相承一心戒儀軌」をまだ十分には読みこなせていませんが、そこに「戒体」と云う言葉が出てくることだけからしても、道元禅師がこのような「戒」を肯定されなかったことは明らかです。「出家略作法」の最後に「唐土・我が朝、先代の人師、戒を釈する時、菩薩の戒体を詳論する、甚だもって非なり。体を論ずる、その要や如何。如来世尊、ただ戒の徳のみを説き、得るや否やなる体の有無を論じたまわず。ただ師資相摸して、即ち戒を得るのみ」、と書かれています。

それで、「達磨一心戒文」をどのように扱えばいいのか迷っています。

鏡島元隆先生は、「道元禅師とその周辺」所載の「円頓戒と栄西道元」で、卍山道白の「対客閑話」に出る、「昔、叡山傳教大師嘗つて内証仏法相承血脈一巻を製す。其の初は乃ち我が達磨西来の禅法なり。西の次に、我が道元和尚入宋し、法を天童堂上長翁浄に受く。又、其の禅戒式を伝ふ。西の伝ふる所と一般なり。」を引用して、「これは、円頓戒もその源を遡れば達磨の一心戒に基づくものであり、栄西所伝の菩薩戒も如浄所伝の菩薩戒もその源を遡れば達磨の一心戒に基づくものであるから、三系統の戒は畢竟その内容は一であるというのである。」と言われています。

江戸期の、宗統復古を唱え、道元禅師に帰らなければならないと叫んだ人たちも、こと「戒」に関しては、道元禅師を通り越して達磨の一心戒にまで帰ってしまったということなのでしょうか。しかもその、「達磨一心戒」は栄西禅師や道元禅師の没後に、栄西禅師に仮託して、天台の円頓戒をほとんど模倣して、天台のものよりも権威づけるために、名前だけを達磨相承にしたもののようです。道元禅師を通り越さなければ、どのような「戒」になるのかも考えなければならないと思っています。

 

毎月Dogen Instituteのウェブサイトに連載している「道元漢詩」では、「句中玄」第52の「結夏」と題する詩について書いています。1247年の4月15日、夏安居が始まる日の上堂です。永平広録では、巻3、238上堂になります。

掘空平地搆鬼窟 (空を掘り地を平らげ鬼窟を搆う。)

臭惡水雲撥溌天 (臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ。)

混雜驢牛兼佛祖 (混雜す、驢牛と佛祖と。)

自家鼻孔自家牽 (自家の鼻孔、自家牽く。)

 

夏安居の修行について、「鬼窟を搆う」とか「臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ」とか、反語的な表現を使われています。「鬼窟」は普通の意味では、「分別」あるいは逆に「無分別」に囚われて自由に動けない様子を表現するのに使われますが、「一顆明珠」では、「ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」と肯定的な意味で使われています。ここでも同じでしょう。

「臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ」は天童如浄禅師の「幹藏」と題した漢詩から取られたもののようです。幹藏は経蔵と同じで、大蔵経を収蔵する回転式書架を備えた建物のことです。如浄禅師の詩は、

瞿曇の老賊口親く屙す。

驢屎相い兼ねて馬屎多し。

一團に打作して都て撥轉す。

天に溌ぐ臭惡娑婆を惱ます

 

釈尊の教えを記録した経、律、論の三蔵の文献を驢馬や馬の糞のようなもので、悪臭を世界中にばらまいて、人々を悩ましていると言われています。「臭惡」というのは、例えば「不浄観」の説明に使われる、死体が腐敗していく過程で発する悪臭のようなものです。

釈尊や、その教えについて「汚い言葉」を使うのは、雲門の「乾屎橛」などに見られる禅の伝統なのでしょう。この漢詩で、道元禅師は、安居中の雲水たちの修行が発する悪臭が芬々として天地を満たすと言われています。釈尊やその教えや修行を讃嘆する美辞麗句を使おうと思えば、山ほどあるのでしょうが、それらを使ってしまうと、だれも驚かない陳腐なものになってしまうので、上堂を聴いている僧たち、あるいは読者が目を覚ますような言葉を使われているのでしょうか?

越前に移転してからの道元禅師は「正法眼蔵」でも「永平広録」の上堂や漢詩でも如浄禅師語録」から多くの引用をされているのが目につきます。第4行目の「自家の鼻孔、自家牽く」も如浄禅師の「牧翁」と題した漢詩から取られています。如浄禅師の「牧翁」という詩は「十牛図」の第8、「人牛倶忘図」についての詩だそうです。第3行目の「驢牛」と「佛祖」とが、「十牛図」の「牛」とそれを引く「牧牛翁」なのでしょう。最初の2行は、「自家の鼻孔自家穿つ。自家繩索自家牽く。」です。自分の鼻の穴に自分で穴を開けて、自分で縄を結び付けて、自分でそれを引っ張ってゆくと云うことです。つまり、「十牛図」の牛というのは仏祖自身のことで、沢木老師の言葉のように、「自分が自分を自分する」修行だということでしょう。「十牛図」の第八は、円相の中に何もない図ですが、「人牛倶忘」というと、自己も牛も世界も全部姿を消してしまった、何か神秘的な境涯のように感じますが、如浄禅師や道元禅師は自分が自分を自分する、雲水一人一人の何の変哲もない日々の修行のことだといわれているのでしょう。私の記憶では、道元禅師が「十牛図」に関説されることはないように思いますが、この詩では、如浄禅師の詩を通して、わずかに触れられているように思います。

 

 

3月28日

 

奥村正博 九拝