三心通信 2022年12月


今日は冬至です。現在の気温は6℃ですが、天気予報によると明日の最低気温はマイナス22℃です。この寒さが数日続き、過去40年で一番寒いクリスマスになるかも知れないということです。北極からの寒気団がアメリカ合衆国の半分くらいに影響するようです。ミネアポリスの現在の気温はすでにマイナス23℃ということです。ミネアポリスに住んでいた頃、マイナス20℃になるのはそれほど珍しくはありませんでしたが、マイナス30℃を超えたことが一度だけありました。その時には、さすがに学校や公共施設が閉鎖になりました。当地ではそれほど寒くなることはありませんが、降った雪が溶けて、道路がアイススケート場状態になり、自動車の運転が大変危険になります。ミネソタではほとんど半年の間、道路が雪や氷におおわれていますので、人々もそう言う条件で運転するのに慣れていますが、この辺りの人々は慣れていないので、事故が多くなるようです。

日本でも、同じように寒波がきていて、大雪になるとのこと。大きな被害が出ないように祈るほかありません。ウクライナもかなり寒い土地だと言うことですが、このような天候の中で、野外で戦っている人たち、ロシアの攻撃によって電気も、飲み水も、暖房もなく過ごしている人たちが何百万人もいることに心が痛みます。人間が人間に対してこのようなことができるのは狂気の沙汰としか思えませんが、それを冷徹な計算でできる人たちが存在するのも事実です。地獄を作り出すのは人間自身のようです。


先月のロスアンゼルス禅宗寺に於ける北アメリカ開教100周年記念の授戒会で、説戒した折の写真が、三心寺のニュースレターに載りました。私はこんな年寄りではないだろうというのが最初の感想でした。如法衣でないお袈裟を着て、きれいに荘厳されている大きな須弥壇の前で話す姿は、いかにも場違いという感じがします。

11月30日から12月7日まで例年通り、1日14炷坐禅だけに専注する臘八摂心がありました。身体的に坐禅ができなくなりましたので、私は、2020年の臘八摂心を最後に接心は坐らなくなりました。63歳になった時に、膝が痛く足を組んで坐れなくなったので、椅子に坐りはじめました。10年間椅子坐禅を続けましたが、足の付け根、坐骨、腰などが痛み始めて、できるだけ努力して坐り続けましたが、これ以上坐るのは坐禅ではなく、一種の意味のない苦行だと思うようになりました。1970年の12月8日、摂心が終わった日に得度していただいた時から、ちょうど50年になるのを一期として、接心からは引退することにしました。それから、半年ほどは、日曜坐禅会には坐っていましたが、最近では、デスクトップ・コンピューターの前で椅子に座って仕事をするのも、1時間以上続けるのが難しくなっています。それで机の上に低いテーブルをおき、その上にラップトップをおいて、立って仕事をするのと、交互にするようにしています。立ち仕事も長く続けると階段を降りる時に、膝の痛みを感じます。なるべく、頻繁に姿勢を替えるように努力しています。

釈尊パーリ語の「涅槃経」の中で、「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、恐らくわたしの身体も皮紐の助けによってもっているのだ」といわれています。80歳になるまでにはまだ何年かあり、釈尊よりも余程楽な生活をしながら、恐れ多いのですが、その感じは味わえるようになりました。12歳年上の秋山洞禅さんによると、75歳からまたガクッと違ってくるということですので、今感じているのは実感ではなく、全く予感に過ぎないのかも知れませんが。

1993年に再度アメリカに来てから、三心寺ができる2003年までのほぼ10年間は、ミネアポリスの禅センターで指導したり、開教センターで仕事をしていて自分の坐禅堂がなかったので、内山老師が始められた摂心ができない期間が続きました。その間、アメリカ各地の禅センターで、様々な法系の人々と、様々なやり方の摂心を経験しました。それぞれのやり方に良いところがありましたが、私にとっては安泰寺で身についた、全ての活動を休息して、毎日三度の食事とその後の短い休み以外は坐禅だけに専念する摂心が本当に「摂心」と呼べるものでした。

三心寺で再び安泰寺と同じ摂心ができるようになりましたが、この摂心をするためには坐禅の意味を深く理解していないと、一度や二度、あるいは1年や2年は自分のガンバリでできても一生坐り続ける事は不可能だと思い、摂心は年に5回と決め、眼蔵会を2回、禅戒会を2回、それと坐禅と講義や作務を合わせたリトリートを2回することにしました。状況によってさまざまな変更もありましたが、戒、定、慧を主として行じる摂心と眼蔵会と禅戒会という基本はこの20年間守ることができました。

今回の臘八接心も、出入りはありましたが、12人が三心寺の坐禅堂で坐わり、他にZoomで参加した人たちもありました。7月の禅戒会の最終日には8人の人たちが受戒しました。5月と11月の眼蔵会は数名が三心寺で、80名ほどの人たちがリモートで参加しました。眼蔵会は仕方がありませんが、戒、定、慧のバランスを取りながら修行してゆくことは、私が引退してからも続けていくことができるように願っております。現在でも、もはや半分隠居状態で、私には眼蔵会や禅戒会の講義と必要のある時に日曜坐禅会の法話をすることだけが三心寺の坐禅堂での活動です。殆どの活動は副住職の法光を中心として何人かの人々が分担して進めてくれております。

12月7日の深夜まで、7日間坐った次の日、8日の午後3時から2人の在米の日本人女性が出家得度を受けました。一人はカリフォルニア、もう一人はニューヨークに住み、それぞれ10年ほど、坐禅を続けている人たちです。この日に得度式をしたいと言うのは得度を受けた人の希望でした。沢木老師も、内山老師も、私も12月8日に得度を受けました。私は摂心を坐らなかったので何も難しい事はありませんでしたが、摂心を坐った翌日に式をするのは、得度を受ける本人たちだけでなく、式で様々な役をする人たちも疲れたことと思います。私が受業師としてする最後の得度式になりました。その2日後に、ドイツ人女性が法光から出家得度を受けました。

来年5月の最後の眼蔵会は「正法眼蔵佛性」のパート3を参究します。私の分科ですと、第8章衆生有佛性から最後までです。以前はなんとか本文を読みこなそうとするのが精一杯でしたが、今回は時間に余裕があることもあって、あちらこちら寄り道をして興味があることを調べながら、まあ言えば少し楽しみながら参究しています。

第1点は、第7章の龍樹までは、馬鳴や龍樹のインドの祖師、四祖、五祖、六祖の中国の南岳系と青原系に分かれる以前の祖師方の佛性に関する発言についてのコメントでしたが、塩官の有佛性、潙山の無佛性以降はすべて南岳・馬祖系の祖師方の言説のみが取り上げられ、青原・石頭系については全く取り上げられないのが何故なのかが、疑問になりました。青原、石頭の系統には佛性について取り上げるほどの言説がないからなのでしょうか?

この点に興味が出て、「佛性」で取り上げられている馬祖の弟子(百丈、塩官、南泉)と孫弟子(潙山、黄檗、趙州)の3世代の人々と石頭系の同じ3世代の人々にどれくらい「佛性」についての問答があるか、「景徳伝灯録」を調べてみました。最初に驚いたのは、その人数の違いです。以前からなんとなくそのような印象はありましたが、実際に人数を数えたのは初めてでした。南岳系の3世代は「伝灯録」の第6巻から第10巻までの4巻を占め、名前だけで、伝記も言葉も記録されていない人もかなりありますが、合計256人です。「佛性」の語がでる問答は12です。それに対して、青原系の3世代は第14巻の1巻だけにおさまり、人数は45人で、5分の1以下です。「佛性」と言う言葉が出る問答はわずかに2つです。「景徳伝灯録」という1つの文献の中での数字というだけで、何か意味があるのかどうか、それらの問答の意味も調べてみないと、なんとも言えないのですが、青原系の人たちの中には、道元禅師が「佛性」巻で取り上げたいと思われるような問答は皆無であると言うことだけは分かりました。

第2点は、第8章の塩官の言葉「衆生有佛性」と第9章の潙山の「衆生無佛性」の言葉は、同じ一つの公案にでてくるもので、その公案は「真字正法眼蔵」の第115則として収録されているにもかかわらず、「佛性」巻の中では、その公案には全くふれられないのはなぜかということです。また註解全書の中にも、「拈評三百則」を作った指月慧印が、潙山の言葉が三百則の第115則に出ていると書いた以外、そのことを指摘したものが見当たらないのはなぜか、と言うことです。一般には、「三百則」が道元禅師の著作とは認められていなかったからなのでしょうか?

これは私の推測に過ぎませんが、道元禅師が取り上げなかったのは「真字正法眼蔵」の第115則では、潙山の弟子の仰山が、両腕で円相を作って、それを後ろに投げ捨てると言う場面があるからではないかと思います。道元禅師は、第7章の龍樹の身現円月相の部分で、「円相」を批判したばかりでした。円相の一つの起源は南陽慧忠国師の弟子の耽源応真ですが、仰山は潙山に参ずる前に耽源から円相について学んだということです。

22日に書き始めましたが、23日の午前11時現在、気温はマイナス21℃です。このような寒さが後4、5日は続きそうです。降雪量はたいしたことはなく、せいぜい2、3センチでしょうか。

2022年は、パンデミックに加えて、ウクライナでの戦争が始まり、それが一因となって世界中の経済状況も良くないようです。核兵器の使用の可能性が議論されたり、気候変動や、その他もろもろ、私などには理解できないほどの問題があって、人間文明の終わりの始まりにいるのではないかとさえ感じてしまいます。内山老師が言われるように「人類に最後の智慧が働いて」、2023年が新しい希望が持てる年になるように願わずにいられません。


2022年12月23日


奥村正博 九拝