三心通信 2023年

 

眼蔵会が終わると、初夏になっていました。庭の花壇には、芙蓉や白や紫のジャーマン・アイリスの大きな花が咲いています。境内の小さな草原は、いまのところ名前を知らない黄色い花に占拠されています。最近外を歩くのは殆どYMCAへの往復だけですが、まだそれほど暑くはなく、晴れた日は快適です。5月がアメリカの学校の学年末ですので、インディアナ大学も夏休みになりブルーミントンの街は学生たちが戻って来る8月末まで静かになります。逆にYMCAは子供たちのためのサマーキャンプ、その他のプログラムがはじまって、にぎやかになります。

4日から8日までの5日間の眼蔵会が終わって2週間以上が経ちました。しかし、まだなんだか気力が戻っていません。今までも、眼蔵会が終わって、2、3日は休憩しないと次の仕事が始められませんでしたが、今回は5日間の眼蔵会が一つ終わったというよりも、20年間続いた、責任としての眼蔵会がようやく完了したという感じです。

 

これまでは、ひとつ眼蔵会が終わると次の眼蔵会が目の前に立ち塞がる壁のように待っていて、走り続けなければならないような感じでした。それからの解放感と同時に、目標の喪失感のようなものが混じり合っています。達成感というのは薬にしたくてもありません。これまでも、自分の参究の過程を人々とシェアするというつもりで続けてきましたので、これが正しい「正法眼蔵」の読み方だなどと思ったことはありません。まだまだ分からないことだらけなので、やり方は違っても「正法眼蔵」の参究はこれからも続けていかなければなりません。

 

退任してからは、これまでの眼蔵会があった、5月と11月に10日間のスタディ・リトリートを計画しています。1日2回の講義はもう無理なので、1日1回の講義を10日間しようかと思います。とりあえず、今年の11月には「正法眼蔵坐禅箴」の参究をしようと考えております。「坐禅箴」はこれまでも何回か講義してきて、そのトランスクリプションをもとに本を作る計画が進んでいたのですが、この5年間手をつける時間がありませんでした。もとになった講義も、それをもとに補訂した原稿もかなり前のものですので、その後で刊行された本にすでに同じ引用や例えや話題が使われていたり、私の理解や表現が変わっている部分もありますので、もう一度講義をして、最新のものにしたいと願っております。そのあと、来年からは「正法眼蔵」に限らず道元禅師の著作や大切な仏教書を参究するつもりでおります。後何年続けられるかは分かりませんが。

 

毎月Dogen Instituteのサイトに連載している「道元漢詩」の7月分は、「句中玄」の第66首、「永平広録」では巻4の第338上堂に出る詩です。偶然ですが、「坐禅箴」で論じられる「磨塼作鏡」に関する詩です。

 

參禪求佛莫圖佛 (參禪して佛を求むるに佛を圖ること莫かれ。) 

圖佛參禪佛轉踈  (佛を圖って參禪せば、佛轉た踈かなり。)

甎解鏡消何面目 (甎解け、鏡消えて何の面目ぞ。) 

纔知到此用功夫  (纔かに知りぬ、此に到りて功夫を用いることを。)

 

「磨塼作鏡」の話は、「正法眼蔵古鏡」(1241年)、「坐禅箴」(1242年記、1243年、吉峯寺示衆)で論じられています。「永平広録」の中でも上堂で7回取り上げられています。すべて永平寺ができてからの上堂で、最初の4回(270、277、279、281)は1248年、次の2回(338、345)は1249年、最後(453)は1251年です。そのほかに巻9の「頌古」第38、そして巻10に収録されている「与野山忍禅人」と題した詩でも取り上げられています。道元禅師の坐禅についての基本表現の一つです。

 

1233年の「天福本普勧坐禅儀」では「磨塼作鏡」と「薬山非思量」の話からとられた表現はなく、「流布本普勧坐禅儀」(執筆時期不明)、「正法眼蔵坐禅儀」(1243)には入っています。「坐禅箴」が書かれたあとに、「莫図作仏」、「思量箇不思量底。不思量底如何思量。非思量」が坐禅についての基本的表現として定着したのだと思われます。

 

この詩では、仏になることを求めて坐禅修行をすることはかえって仏から遠ざかることだとまず述べられます。「求める」ということ自体がまだ仏ではないということの証明です。その対象が自己中心的な欲求を満足させることであっても、もしくは欲求満足の生き方が三界輪廻の苦しみを生むことが分かって、自分の欲求から自由になり、より良い自分になるように、悟りや涅槃や成仏を求めることであっても、つまり欲求の方向が違っていても、現在の自分に何か足りないことがあるから、なにがしかの努力をして欲しいものを手に入れたいという行動様式であることに変わりはありません。そのことに気がついて、悟りや成仏も求めることなく、ただ(只管)修行することが仏行としての坐禅だということです。塼(五蘊の集まり、業生の自分)も鏡(目標としての仏の悟り)もなくなった後に本当の坐禅修行が始まるのだといわれています。これは長円寺本「随聞記3−17」での教説と同じ趣旨です。

 

南岳の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するには非る也。坐はすなわち仏行なり。坐は即ち不為也。是れ即ち自己の正躰也。此の外別に仏法の可求無き也。

 

「随聞記」は懐奘が興聖寺僧団に入り、道元禅師に参学をはじめた1234年から36年ころまでの夜話の記録ですから、そのころから坐禅についての教えは変わってはいなかったことがわかります。「天福本」を書き直して「流布本」「眼蔵坐禅儀」を書かれることによって道元禅師の坐禅についての理解が変わったのではなく、「坐禅箴」を執筆し薬山の「非思量」や南岳の「磨塼作鏡」を深く味わうことによって、よりふさわしい表現を獲得されたのだと思います。

 

24日から29日までロスアンゼルスに参ります。

令和5年度総監部現地法人総会・北アメリカ曹洞禅連絡会議

アメリカ国際布教総監部現職研修会

大本山總持寺開山太祖瑩山紹瑾禅師700回大遠忌予修法要

アメリカ国際布教並びに両大本山北米別院禅宗寺創立100周年記念行事

という盛り沢山の行事に参加するためです。

パンデミックによる旅行の制限もなくなったようで、今回は日本の宗務庁、両本山の代表の方々をはじめ、多数の方々がおいでになるようです。北アメリカの宗侶も含めて100人以上になるとのことです。

 

ロスアンゼルスから帰ると、直ぐに6月の接心が始まります。その後は、首座法戦式、続いて三心寺創立20周年、私の退任と法光の就任の式と続き、7月初めの禅戒会、受戒会で夏期安居が終わるまで三心寺での行持が続きます。

 

以前からの予定通りに、来月6月24日をもちまして、創立以来20年間続けてきました三心寺住職から退任させていただきます。この「三心通信」は三心寺日本事務局として創立のときからご支援いただいている鈴木龍太郎氏のおすすめで2006年からほぼ毎月書かせていただきましたが、来月6月分で終わらせていただきます。これまで本当に有難うございました。

 

三心寺は、新しい指導者によって、アメリカ人のためのアメリカの坐禅道場になります。三心寺で得度した日本人4人の方々に、何らか別の方法で三心ZCからの日本語での発信を引き継いでいただくようにお願いしています。来月にはそのインフォメーションも書かせていただけると思います。引き続き、よろしくお願いいたします。

 

三心寺創立20周年、私の住職退任式、法光の就任式は、6月23日(金)、24日(土)、25日(日)に行われます。その案内は以下のリンクでアクセス可能です。

https://www.sanshinji.org/platinumcelebrationinjapanese.html

 

 

2023年5月24日

 

奥村正博 九拝