三心通信 2022年3月

 

お彼岸も過ぎて、春らしくなりました。YMCAに行く道には、木蓮の花が咲いています。遠目には、辛夷(こぶし)のように見える白い花が咲いている木もあります。お寺の境内の芝生が緑になり、枝垂れ桜も咲き始めました。

 

今月初旬から、公共の場でマスクを着用する必要がなくなりました。パンデミックが始まってから、私が行く公共施設というのは、ほぼYMCAだけで、買い物に出ることも余りありませんので、街の様子がどうなのかは分かりませんが、人々の雰囲気が違ってきたようです。気のせいか、道路をはしる自動車も増えてきたように思えます。今日、YMCAに行って、入ってすぐの受付のあたりが何か変わっているように感じました。いままでほぼ2年間設置されていた、レセプションで働く人たちと来客を隔てる透明なアクリル板が撤去されていて、何か、広々とした感じを受けました。こっちの方が普通なのだと思い返すのにやや時間がかかりました。これが、このまま続いてパンデミックの本当の収束に向かうように願っております。

 

三心寺でも、坐禅堂で以前のように、マスクなしで坐禅やレクチャーなどができるようになりました。4月4日から、夏期安居がはじまります。過去2年間はパンデミックのために安居を中止せざるを得ませんでしたので、3年ぶりということになります。2020年に首座を勤める予定だった小山一山さんにも2年間待ってもらうことになりました。ニューヨーク在住ですが、先週からこちらに来ています。安居中は首座が日曜日の法話をすることになっています。昨日、第1回の法話をしてもらいました。このまま、7月まで問題なく過ぎ安居が円成するように願っております。

2023年6月に三心寺住職から引退するまで、あと4回の眼蔵会のために「正法眼蔵佛性」と「見仏」を英語に訳しておりましたが、今月初めに第1稿ができて、現在、聖元さんにエディットしてもらっています。「佛性」のパート2まで、完了しました。そのあと2週間ほど、三心寺創立以来、夏期安居の最後の行持として、毎年7月に行っていた禅戒会の講義のトランスクリプションを材料にし、「菩薩戒の参究」と題して1冊の本にまとめるための書き直しの作業をはじめました。

最初の10年ほどは、「梵網経」の十重禁戒、「菩提達磨一心戒文」そして「教授戒文」を主なテキストにして、社会倫理、仏法の絶対的側面、菩薩の誓願行としての主体的側面の3つの方面から十六条戒の説明をしておりました。数年前に出所が疑問になって、「一心戒文」を使用するのをやめていました。万仭道担の「禅戒本義」に収録されているのですが、それがどこからきたものかがわからなかったのです。天台宗最澄の弟子の光定に「伝述一心戒文」と云う著作がありますが、宗門で云う「菩提達磨一心戒文」とは違うものです。石田瑞麿氏は「日本仏教における戒律の研究」の中で、「一心戒文を禅的なものとしてのみ促えようとするかのような傾向が示されてきたが、これは明らかに間違いであって、密教的な理解の埒内でこれを捉えなくてはならない」と言われています。

今回、宮川敬之さんに、「菩提達磨一心戒文」の起源について何か資料がないかお尋ねしたところ、「達磨相承一心戒儀軌」と云う松ヶ岡文庫所蔵の室町時代の一心戒の授戒の儀式のやり方を書いたものと、それについての、3人の学者の研究論文を送っていただきました。それらを総合すると、栄西の死後、栄西に仮託して、建仁寺で、天台の円頓戒を達磨から相承した一心戒つまり、禅戒として伝えられるようになった。その中に、「達磨一心戒文」が入っている。その文が、江戸時代以前に、切り紙として曹洞宗にも伝えられた。万仭道担が、それら切り紙の出所を調べて、「達磨相承一心戒儀軌」を用いて、現在我々が見るものを創り上げたと云う流れのようです。

私は、「達磨相承一心戒儀軌」をまだ十分には読みこなせていませんが、そこに「戒体」と云う言葉が出てくることだけからしても、道元禅師がこのような「戒」を肯定されなかったことは明らかです。「出家略作法」の最後に「唐土・我が朝、先代の人師、戒を釈する時、菩薩の戒体を詳論する、甚だもって非なり。体を論ずる、その要や如何。如来世尊、ただ戒の徳のみを説き、得るや否やなる体の有無を論じたまわず。ただ師資相摸して、即ち戒を得るのみ」、と書かれています。

それで、「達磨一心戒文」をどのように扱えばいいのか迷っています。

鏡島元隆先生は、「道元禅師とその周辺」所載の「円頓戒と栄西道元」で、卍山道白の「対客閑話」に出る、「昔、叡山傳教大師嘗つて内証仏法相承血脈一巻を製す。其の初は乃ち我が達磨西来の禅法なり。西の次に、我が道元和尚入宋し、法を天童堂上長翁浄に受く。又、其の禅戒式を伝ふ。西の伝ふる所と一般なり。」を引用して、「これは、円頓戒もその源を遡れば達磨の一心戒に基づくものであり、栄西所伝の菩薩戒も如浄所伝の菩薩戒もその源を遡れば達磨の一心戒に基づくものであるから、三系統の戒は畢竟その内容は一であるというのである。」と言われています。

江戸期の、宗統復古を唱え、道元禅師に帰らなければならないと叫んだ人たちも、こと「戒」に関しては、道元禅師を通り越して達磨の一心戒にまで帰ってしまったということなのでしょうか。しかもその、「達磨一心戒」は栄西禅師や道元禅師の没後に、栄西禅師に仮託して、天台の円頓戒をほとんど模倣して、天台のものよりも権威づけるために、名前だけを達磨相承にしたもののようです。道元禅師を通り越さなければ、どのような「戒」になるのかも考えなければならないと思っています。

 

毎月Dogen Instituteのウェブサイトに連載している「道元漢詩」では、「句中玄」第52の「結夏」と題する詩について書いています。1247年の4月15日、夏安居が始まる日の上堂です。永平広録では、巻3、238上堂になります。

掘空平地搆鬼窟 (空を掘り地を平らげ鬼窟を搆う。)

臭惡水雲撥溌天 (臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ。)

混雜驢牛兼佛祖 (混雜す、驢牛と佛祖と。)

自家鼻孔自家牽 (自家の鼻孔、自家牽く。)

 

夏安居の修行について、「鬼窟を搆う」とか「臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ」とか、反語的な表現を使われています。「鬼窟」は普通の意味では、「分別」あるいは逆に「無分別」に囚われて自由に動けない様子を表現するのに使われますが、「一顆明珠」では、「ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」と肯定的な意味で使われています。ここでも同じでしょう。

「臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ」は天童如浄禅師の「幹藏」と題した漢詩から取られたもののようです。幹藏は経蔵と同じで、大蔵経を収蔵する回転式書架を備えた建物のことです。如浄禅師の詩は、

瞿曇の老賊口親く屙す。

驢屎相い兼ねて馬屎多し。

一團に打作して都て撥轉す。

天に溌ぐ臭惡娑婆を惱ます

 

釈尊の教えを記録した経、律、論の三蔵の文献を驢馬や馬の糞のようなもので、悪臭を世界中にばらまいて、人々を悩ましていると言われています。「臭惡」というのは、例えば「不浄観」の説明に使われる、死体が腐敗していく過程で発する悪臭のようなものです。

釈尊や、その教えについて「汚い言葉」を使うのは、雲門の「乾屎橛」などに見られる禅の伝統なのでしょう。この漢詩で、道元禅師は、安居中の雲水たちの修行が発する悪臭が芬々として天地を満たすと言われています。釈尊やその教えや修行を讃嘆する美辞麗句を使おうと思えば、山ほどあるのでしょうが、それらを使ってしまうと、だれも驚かない陳腐なものになってしまうので、上堂を聴いている僧たち、あるいは読者が目を覚ますような言葉を使われているのでしょうか?

越前に移転してからの道元禅師は「正法眼蔵」でも「永平広録」の上堂や漢詩でも如浄禅師語録」から多くの引用をされているのが目につきます。第4行目の「自家の鼻孔、自家牽く」も如浄禅師の「牧翁」と題した漢詩から取られています。如浄禅師の「牧翁」という詩は「十牛図」の第8、「人牛倶忘図」についての詩だそうです。第3行目の「驢牛」と「佛祖」とが、「十牛図」の「牛」とそれを引く「牧牛翁」なのでしょう。最初の2行は、「自家の鼻孔自家穿つ。自家繩索自家牽く。」です。自分の鼻の穴に自分で穴を開けて、自分で縄を結び付けて、自分でそれを引っ張ってゆくと云うことです。つまり、「十牛図」の牛というのは仏祖自身のことで、沢木老師の言葉のように、「自分が自分を自分する」修行だということでしょう。「十牛図」の第八は、円相の中に何もない図ですが、「人牛倶忘」というと、自己も牛も世界も全部姿を消してしまった、何か神秘的な境涯のように感じますが、如浄禅師や道元禅師は自分が自分を自分する、雲水一人一人の何の変哲もない日々の修行のことだといわれているのでしょう。私の記憶では、道元禅師が「十牛図」に関説されることはないように思いますが、この詩では、如浄禅師の詩を通して、わずかに触れられているように思います。

 

 

3月28日

 

奥村正博 九拝