三心通信 2020年7月、8月

 

6月の三心通信で紹介した三心寺の小さな草原のblack-eye Susan(アラゲハンゴンソウ)はほとんど枯れて、早くも秋の風景になりました。中西部に自然にあった野草の種を20種類ほど播いたということですので、この後秋の花が咲き出すかどうか、楽しみにしています。例年のように、胡桃の実が落ち始めました。朝夕は涼しくなり、最高気温も30°にならない日が多く、過ごしやすくなりました。

 

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7月中は、8月8日から14日まで7日間のサンフランシスコ禅センター主催の眼蔵会の準備に追われました。6月はまるまる1ヶ月「無情説法」、「無情佛性」の中国仏教や禅の中での系譜の勉強をし、「祖堂集」、「景徳伝灯録」の南陽慧忠と洞山良价の「無情説法」が含まれる会話を英語に訳しました。7月に入ってから、道元禅師の「正法眼蔵無情説法」に関連する釈尊の教えをパーリニカーヤの中に探しました。面山瑞方の述賛にあるように、道元禅師の「無情」は、「十八界に落ちない」ということだと思います。パーリの中部経典の第148経、「六種の六つの要素の集まり (六六経)」が参考になると思いました。英語訳ではThe Six Sets of Sixです。最初の三種の六つの要素は、六根、六境、六識の十八界です。次の三種は十二処と六識それぞれの触、受、愛です。十八界が様々な出会い方(触)をする中で、苦、楽、捨の感覚(受)が生じ、それに基づいて様々な欲望(愛)が生じる、欲望に基づいて行動するので、善業、悪業を作り、我々の人生は浮いたり沈んだりのサンサーラになってしまうという、初期仏教の縁起説のひとつです。 別の経では、触、受、から想、尋伺、戯論、妄分別と知的な方向(識)に進む縁起説もあります。「諸法実相」の巻ではこちらの方を取り上げられました。道元禅師が「無情説法」の巻で言われる「無情」というのは必ずしも山川草木などの自然物に限らず、「情識」に縛られないことだと思います。つまり「身心脱落」の坐禅がこの巻で解かれる「無情」ということだと思います。「渓声山色」や「山水経」もこの視点から読み直す必要を感じました。

 

大乗仏教や中国禅思想から始めると、様々な思想がこんがらがって、私の英語力では、理解も説明も難しくなりますので、できれば初期仏教まで戻って、根本的に何が問題だったのかから、理解し説明しようと試みています。それと私たちが実践している只管打坐とがどう結びつくのかを分かってもらえれば、「正法眼蔵」の参究が地に足がついたものになると考えております。

 

14日に眼蔵会が終わってからは、1週間ほどかかって、曹洞宗国際センターのニュースレター「法眼Dharma Eye」誌に毎年2回、連載している「正法眼蔵観音」の原稿を書きました。以前の眼蔵会で行った講義のトランスクリプションを基にしているのですが、自分の語彙の貧困さと、話に鋭さがないのに、自分でも呆れております。ほとんど、最初から書き直すのと同じくらいの時間がかかります。それに1週間ほどかかり、気がつくとすでに8月も下旬になっておりました。それから、Dogen Instituteのウェブサイトのために毎月書いている「道元禅師の漢詩」の記事を書きました。「句中玄」の順番に道元禅師の漢詩の注解を書いております。ただし、「永平広録」の英語訳が門鶴本を底本にしていますので、漢詩も門鶴本の訳を使い、卍山本と違いがあればそれを指摘するようにしています。道元禅師の和歌や漢詩を使うことによって、様々な面から道元禅師の教えを学ぶことができて、眼蔵会のような長いリトリートでなくても、細かく説明できなくても、理解してもらうことができるので、良いやり方だと考えています。これからは、11月の三心寺の眼蔵会のために「正法眼蔵仏経」の英語訳テキストを作り始めます。

 

3月中旬にヨーロッパから帰ってきて、三心寺で人々が集まる集会ができなくなってから、5ヶ月半が過ぎようとしています。三心寺の活動は全面的にZoomを使って、副住職の法光が中心になって、オンラインで行っています。月曜日から金曜日までの早朝の坐禅と朝課。日曜日の坐禅法話、水曜日の読書とディスカッションなどです。月に一度、1日の接心もオンラインで行っています。坐禅堂には1人か2人だけが坐り、あとの参加者は自宅で坐ります。

 

私個人の生活としては、旅行することがなくなり、本拠地に落ち着いて、翻訳や著述の仕事、今までできなかった読書や勉強ができて、困ることは全くありません。しかし、これがいつまでも続くと、お寺自体が存続できるかどうかの問題にもなりかねません。はやく収束してくれるように願っております。

 

 2020年8月26日

     奥村正博 九拝