三心通信 2022年2月

 

2月の前半は、最高気温が0℃に達しない真冬日が続き、雪も何度か降りましたが、先週あたりから、午後には10℃を超える日があり、晴れた日には、陽射しも春を予感させるように明るくなりました。3月に入るまでは、風が北から吹くか南から吹くかの違いで寒くなったり暖かくなったりの繰り返えしです。Snowdrop(待雪草)の白い小さな花が咲きだしました。暖かさにだまされたのか、水仙などの芽も地面に見え始めました。まだまだ、雪が降ったり、凍りついたりしますので、植物たちも3月に入って春が来るまでは試練の日々を過ごさなければなりません。

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涅槃会接心の後、13日の日曜日に、涅槃会の法要がありました。その折の法話は私が担当しました。今回は、「永平広録」の486、涅槃会上堂のおりの道元禅師の漢詩について話しました。昨年の12月に第48偈として「句中玄」に収録されている同じ詩についてDogen Instituteのウェブサイトに紹介したばかりでした。

 

鶴林月落曉何曉 (鶴林の月落ちぬ、曉、何ぞ曉ならん。)

鳩尸花枯春不春 (鳩尸の花枯れて、春、春ならず)

戀慕何爲顛誑子 (戀慕、何爲せん顛誑の子)

欲遮紅涙結良因 (紅涙を遮めて良因を結ばんと欲す)

 

1252年2月15日、亡くなられる前年の、道元禅師にとっては最後になる涅槃会上堂の最後に付せられている漢詩です。鶴林というのは、クシナガラで入滅されたとき、横になっておられる釈尊の四辺にあった4双8本の沙羅樹が花を咲かせ、満開になってすぐにたちまちに萎み、白色に変じ、さながら鶴の群れのようであったという伝説からそう呼ばれるようになりました。2行目の鳩尸(クシ)はクシナガラの略です。釈尊が入滅された悲しみで、花が枯れ、暁になっても暗いままで、春なのに春らしさが全くないという、暗澹とした人々の心の描写です。

パーリ語のパリニッバーナ経では、釈尊の弟子の中で阿難など「まだ愛執をはなれていない修行僧は、両腕を突き出して泣き、砕かれた岩のようにうち倒れ、のたうち廻り、転がった」。しかしアヌッルダなど、「愛執を離れた修行僧らは正しく念い、よく気をつけて耐えていた」(中村元訳、岩波文庫)と書かれています。この、道元禅師の漢詩で興味深いのは、道元禅師が、阿難たち、まだ愛執を離れていないので、悲しみ、泣き叫んでいる未熟な修行僧たちの方に自分を置いておられるように見えることです。「顛誑子」というのは、「法華経」の寿量品に出る「良医病子」という比喩の中で使われる言葉です。

ある所に良医があり、彼には百人余りの子供がいました。ある時、良医の留守中に子供たちが毒を飲んで苦しんでいました。そこへ帰ってきた良医は薬を調合して子供たちに与えました。軽症だった半数の子供たちは父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻しましたが、残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしませんでした。そこで良医は一計を案じ、もう一度旅に出ました。そして旅先から使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせました。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができました。この物語の中の良医は仏で、病で苦しむ子供たちが衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で、釈尊も方便として般涅槃されたので、その実、仏の寿命は無量であることを表しています。

「顛誑子」というのは、毒のために顛倒し、狂ってしまっていて、父である医者の薬を飲まなかった子供たちです。父親が亡くなったと聞いて、父への恋慕のために薬を飲んでようやく本心を回復した子供たちを指します。釈尊の涅槃の場面では阿難のような人たちのことでしょう。この漢詩で、道元禅師がご自分をアヌルッダの側ではなく、泣き崩れる阿難の側に置いておられることが興味深いと思います。それでも紅涙を抑えて、釈尊の教えに従って良因を結んでいこうという決意でこの詩を締めくくっておられます。

12月にこの詩についての記事を書いた時にはどうしてこのような書き方をされたのか理解できていませんでしたが、今は、翌年の御自分の入滅を何がしかすでに意識されていたのではないかと考えています。御自分のサンガの人々が近いうちに同じ経験するであろうことを。

 

昨年の12月に、アメリカ人の父親と日本人の母親の間に、日本の宇治で生まれ、ジョージア州に住まれていた45歳の男性が亡くなられました。ご両親から依頼されて、その方のご戒名を作り、日本で言えば告別式を行いました。パンデミックがまだ収束しない時ですので、法要は三心寺で、ズームを通して、あちらで集まっておられる、ご家族や親族、知人、友人の人たちを繋いで行いました。このような時期ですので、このようなやり方でのお葬式やご法事が多いのかもしれません。この方はコロナが死因ではなかったのですが、コロナで亡くなった場合、死に目に会えないということは聞いていますが、お葬式も告別式もできないのではご遺族としてはいたたまれないと思います。

アメリカの日系寺院以外の禅センターでは、檀家というものがありませんので、お葬式やメモリアル・サービスは、メンバーの方が亡くなったときくらいです。三心寺では、創立してから18年で、1回しかありませんでした。亡くなられた方の慰霊やご遺族のグリーフ・ケアは大切なことですので、将来的にはこのような機会も出てくることと思います。

 

昨年11月の眼蔵会が終わってからずっと、私の引退まであと4回ある眼蔵会のテキストとして「正法眼蔵佛性」と「見仏」の英語訳を続けてきました。その他にも書かなければならない原稿や毎月の連載があって、かかり切りになることはできませんでしたので、時間がかかりました。ようやく「佛性」の巻が終わって、現在英語のエディットをしてもらっています。「佛性」は長いので、3回に分けて三心寺での眼蔵会のテキストにします。「見仏」は今年9月のチャペルヒル禅センターで参究します。これで、私の眼蔵会は終了します。

2002年にサンフランシスコ禅センターで行われた、「山水経」を講本とした、初めての眼蔵会での私の講義をもとにした、Mountains and Waters Sutra (1218年、Wisdom社刊)のイタリア語訳が完成し、もう直ぐイタリアの出版社から刊行されます。それで、イタリア語版に序文を書くようにと依頼されました。

この本の最後には、「眼蔵会で話したこと、この本に書いたことは、現時点での私の参究のレポートでしかない、次の機会には全く別の話し方、書き方をするかもしれない」、と書きました。今回の序文で、20年後の現在でも、全く同じことを言わなければならないと書きました。内山老師もその都度、一鍬でも深く掘ろうとしていると言われていましたが、誠にその通りだと思います。底無しに深い仏法と道元禅師の著作に出会って、50年以上経ちましたが、今でもどれだけ理解できているかは甚だ自信がありません。生きている間はどこまでも初心者であり続けていくのだと思います。

 

2022年2月26日

 

奥村正博 九拝