三心通信 2022年4月

気温が上がったり下がったりいておりますが、木々の緑が少しずつ目立つようになり、新緑の候という感じです。様々な花が咲いています。桜の花はほぼ散って葉桜になりました。クラブ・アップルの満開がやや過ぎたところです。crab appleの日本語名を調べようとしましたが、辞書には、アメリカに分布するバラ科リンゴ属の植物、としか説明されていません。リンゴ属ですが、実はブドウほどに小さく食用にはなりません。竹の子も出始めました。竹藪が大きくなりすぎるのを阻止するために毎年、一定の範囲外から出たものは除去していますので、写真の竹の子もすぐに切り取られます。

 

4月4日から、3年ぶりに夏期安居が始まりました。パンデミックの始まる前のように、マスクの着用なしで、坐禅会や勉強会を禅堂でできるようになりました。ただし、まだ注意は必要なようです。先週勉強会に出席した人から、感染者に接触した人に接触していたと言う連絡が入ったそうです。ご本人も、それを知ったのは次の日だったそうですが。そういうことから集団感染が起こることは、人間が集まる以上可能性は排除できませんので。

 

今回、首座を務める小山一山さんは、40年以上ニューヨークに在住し、アメリカ国籍も取得している人ですので、英語の問題は全くありません。3月下旬に三心寺にきて、既に1ヶ月以上になります。すでに4回、日曜日の法話をしてもらっています。私の弟子になったのは5年ほど前ですが、それ以前、30年くらい坐禅をしていた方です。パンデミックが始まる直前に、福岡の明光寺僧堂に半年間安居させていただきました。

 

参禅者の宿泊所としてかりていた隣のアパートは、パンデミックの間2年間、だれもつかわないのに、家賃だけは払い続けておりました。現在、もうひとりニューヨークから来ているキクさんと言う日本人の女性と、ソーヤというこの近く出身のアメリカ人の青年と、安居中は三人が居住しています。パンデミックが完全に収束していないこともあって、市外から来る眼蔵会や接心の参加者にはまだ解放しないようにしています。パンデミックの置きみやげということになると思いますが、どのような行持も、Zoomを通じてリモートでどのような遠隔地からも参加してもらえるようになりました。禅堂がスタジオのようになりました。

 

第2日曜日に、サンガ・ワーク・ディがあり、10名ほどの人たちが境内の清掃、整備の仕事をしてくれました。観音菩薩の立像と、坐禅の姿勢の仏像の寄贈がありました。二つともセメント仏です。アメリカで仏教に興味がある人たちの中には、このようなセメント仏を庭に置く人がかなりあります。木や花の苗や、造園用の様々な石などを売っている店で、キリスト教のイエス像やマリア象、その他様々なセメント製の像が売っています。その人の趣味が変わったか、代替わりしたときに不要物として引き取り先を探したのだと思います。日本の石仏とは感じが違って、あまり有り難みを感じません。



5月5日から9日までの眼蔵会が近づいてきました。あと1週間を切ったのですが、おそらく老化のためだと思いますが、さほどの切迫感がありません。なんだか、自分と現実に起こっていることの間に薄い膜があるような感じで、現実感がさほど感じられません。今回は、「正法眼蔵佛性」の巻のパート1です。「佛性」はながい巻ですので、3つのパートに分けて、3回の眼蔵会で完了する予定でおります。今回は、最初から四祖と五祖の無佛性についての会話の段落までです。過去に3回か4回、全巻の講義をしたことがあるのですが、いずれも10年以上前です。その際は「佛性」の巻を自分で英語に訳せるとは思えなかったので、Norman Waddell & Masao Abe訳のThe Heart of Dogen’s Shobogenzoに収録されている英訳を使いました。

 

今回は、私の眼蔵会で使う最後の講本ですので、何とか自分の訳を作りたいと、昨年11月の眼蔵会が終わったあと、3ヶ月以上をかけて、「佛性」を訳しました。なんとか完了したのですが、眼蔵会の講本として、自分の講義の中で説明をするという前提で翻訳しましたので、訳文を読むだけで分かるようにではなく、なるべく日本語に近いように工夫をしました。これは、私の眼蔵の英訳は全てがそうなのですが。訳注もつけていませんので、翻訳だけをまとめて一冊の本にすることはあまり意味がないと思います。

 

3月下旬から、この眼蔵会の準備に専念してきたのですが、いまだに準備完了とは言えません。毎回そうなのですが、眼蔵会がはじまって、実際に講義を始めるまではどのように説明すればいいのか、迷いに迷っています。

 

ということで、今月の三心通信は、いつもより短くなりました。申し訳ありません。

 

4月30日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

三心通信 2022年3月

 

お彼岸も過ぎて、春らしくなりました。YMCAに行く道には、木蓮の花が咲いています。遠目には、辛夷(こぶし)のように見える白い花が咲いている木もあります。お寺の境内の芝生が緑になり、枝垂れ桜も咲き始めました。

 

今月初旬から、公共の場でマスクを着用する必要がなくなりました。パンデミックが始まってから、私が行く公共施設というのは、ほぼYMCAだけで、買い物に出ることも余りありませんので、街の様子がどうなのかは分かりませんが、人々の雰囲気が違ってきたようです。気のせいか、道路をはしる自動車も増えてきたように思えます。今日、YMCAに行って、入ってすぐの受付のあたりが何か変わっているように感じました。いままでほぼ2年間設置されていた、レセプションで働く人たちと来客を隔てる透明なアクリル板が撤去されていて、何か、広々とした感じを受けました。こっちの方が普通なのだと思い返すのにやや時間がかかりました。これが、このまま続いてパンデミックの本当の収束に向かうように願っております。

 

三心寺でも、坐禅堂で以前のように、マスクなしで坐禅やレクチャーなどができるようになりました。4月4日から、夏期安居がはじまります。過去2年間はパンデミックのために安居を中止せざるを得ませんでしたので、3年ぶりということになります。2020年に首座を勤める予定だった小山一山さんにも2年間待ってもらうことになりました。ニューヨーク在住ですが、先週からこちらに来ています。安居中は首座が日曜日の法話をすることになっています。昨日、第1回の法話をしてもらいました。このまま、7月まで問題なく過ぎ安居が円成するように願っております。

2023年6月に三心寺住職から引退するまで、あと4回の眼蔵会のために「正法眼蔵佛性」と「見仏」を英語に訳しておりましたが、今月初めに第1稿ができて、現在、聖元さんにエディットしてもらっています。「佛性」のパート2まで、完了しました。そのあと2週間ほど、三心寺創立以来、夏期安居の最後の行持として、毎年7月に行っていた禅戒会の講義のトランスクリプションを材料にし、「菩薩戒の参究」と題して1冊の本にまとめるための書き直しの作業をはじめました。

最初の10年ほどは、「梵網経」の十重禁戒、「菩提達磨一心戒文」そして「教授戒文」を主なテキストにして、社会倫理、仏法の絶対的側面、菩薩の誓願行としての主体的側面の3つの方面から十六条戒の説明をしておりました。数年前に出所が疑問になって、「一心戒文」を使用するのをやめていました。万仭道担の「禅戒本義」に収録されているのですが、それがどこからきたものかがわからなかったのです。天台宗最澄の弟子の光定に「伝述一心戒文」と云う著作がありますが、宗門で云う「菩提達磨一心戒文」とは違うものです。石田瑞麿氏は「日本仏教における戒律の研究」の中で、「一心戒文を禅的なものとしてのみ促えようとするかのような傾向が示されてきたが、これは明らかに間違いであって、密教的な理解の埒内でこれを捉えなくてはならない」と言われています。

今回、宮川敬之さんに、「菩提達磨一心戒文」の起源について何か資料がないかお尋ねしたところ、「達磨相承一心戒儀軌」と云う松ヶ岡文庫所蔵の室町時代の一心戒の授戒の儀式のやり方を書いたものと、それについての、3人の学者の研究論文を送っていただきました。それらを総合すると、栄西の死後、栄西に仮託して、建仁寺で、天台の円頓戒を達磨から相承した一心戒つまり、禅戒として伝えられるようになった。その中に、「達磨一心戒文」が入っている。その文が、江戸時代以前に、切り紙として曹洞宗にも伝えられた。万仭道担が、それら切り紙の出所を調べて、「達磨相承一心戒儀軌」を用いて、現在我々が見るものを創り上げたと云う流れのようです。

私は、「達磨相承一心戒儀軌」をまだ十分には読みこなせていませんが、そこに「戒体」と云う言葉が出てくることだけからしても、道元禅師がこのような「戒」を肯定されなかったことは明らかです。「出家略作法」の最後に「唐土・我が朝、先代の人師、戒を釈する時、菩薩の戒体を詳論する、甚だもって非なり。体を論ずる、その要や如何。如来世尊、ただ戒の徳のみを説き、得るや否やなる体の有無を論じたまわず。ただ師資相摸して、即ち戒を得るのみ」、と書かれています。

それで、「達磨一心戒文」をどのように扱えばいいのか迷っています。

鏡島元隆先生は、「道元禅師とその周辺」所載の「円頓戒と栄西道元」で、卍山道白の「対客閑話」に出る、「昔、叡山傳教大師嘗つて内証仏法相承血脈一巻を製す。其の初は乃ち我が達磨西来の禅法なり。西の次に、我が道元和尚入宋し、法を天童堂上長翁浄に受く。又、其の禅戒式を伝ふ。西の伝ふる所と一般なり。」を引用して、「これは、円頓戒もその源を遡れば達磨の一心戒に基づくものであり、栄西所伝の菩薩戒も如浄所伝の菩薩戒もその源を遡れば達磨の一心戒に基づくものであるから、三系統の戒は畢竟その内容は一であるというのである。」と言われています。

江戸期の、宗統復古を唱え、道元禅師に帰らなければならないと叫んだ人たちも、こと「戒」に関しては、道元禅師を通り越して達磨の一心戒にまで帰ってしまったということなのでしょうか。しかもその、「達磨一心戒」は栄西禅師や道元禅師の没後に、栄西禅師に仮託して、天台の円頓戒をほとんど模倣して、天台のものよりも権威づけるために、名前だけを達磨相承にしたもののようです。道元禅師を通り越さなければ、どのような「戒」になるのかも考えなければならないと思っています。

 

毎月Dogen Instituteのウェブサイトに連載している「道元漢詩」では、「句中玄」第52の「結夏」と題する詩について書いています。1247年の4月15日、夏安居が始まる日の上堂です。永平広録では、巻3、238上堂になります。

掘空平地搆鬼窟 (空を掘り地を平らげ鬼窟を搆う。)

臭惡水雲撥溌天 (臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ。)

混雜驢牛兼佛祖 (混雜す、驢牛と佛祖と。)

自家鼻孔自家牽 (自家の鼻孔、自家牽く。)

 

夏安居の修行について、「鬼窟を搆う」とか「臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ」とか、反語的な表現を使われています。「鬼窟」は普通の意味では、「分別」あるいは逆に「無分別」に囚われて自由に動けない様子を表現するのに使われますが、「一顆明珠」では、「ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり」と肯定的な意味で使われています。ここでも同じでしょう。

「臭惡の水雲、撥ねて天に溌ぐ」は天童如浄禅師の「幹藏」と題した漢詩から取られたもののようです。幹藏は経蔵と同じで、大蔵経を収蔵する回転式書架を備えた建物のことです。如浄禅師の詩は、

瞿曇の老賊口親く屙す。

驢屎相い兼ねて馬屎多し。

一團に打作して都て撥轉す。

天に溌ぐ臭惡娑婆を惱ます

 

釈尊の教えを記録した経、律、論の三蔵の文献を驢馬や馬の糞のようなもので、悪臭を世界中にばらまいて、人々を悩ましていると言われています。「臭惡」というのは、例えば「不浄観」の説明に使われる、死体が腐敗していく過程で発する悪臭のようなものです。

釈尊や、その教えについて「汚い言葉」を使うのは、雲門の「乾屎橛」などに見られる禅の伝統なのでしょう。この漢詩で、道元禅師は、安居中の雲水たちの修行が発する悪臭が芬々として天地を満たすと言われています。釈尊やその教えや修行を讃嘆する美辞麗句を使おうと思えば、山ほどあるのでしょうが、それらを使ってしまうと、だれも驚かない陳腐なものになってしまうので、上堂を聴いている僧たち、あるいは読者が目を覚ますような言葉を使われているのでしょうか?

越前に移転してからの道元禅師は「正法眼蔵」でも「永平広録」の上堂や漢詩でも如浄禅師語録」から多くの引用をされているのが目につきます。第4行目の「自家の鼻孔、自家牽く」も如浄禅師の「牧翁」と題した漢詩から取られています。如浄禅師の「牧翁」という詩は「十牛図」の第8、「人牛倶忘図」についての詩だそうです。第3行目の「驢牛」と「佛祖」とが、「十牛図」の「牛」とそれを引く「牧牛翁」なのでしょう。最初の2行は、「自家の鼻孔自家穿つ。自家繩索自家牽く。」です。自分の鼻の穴に自分で穴を開けて、自分で縄を結び付けて、自分でそれを引っ張ってゆくと云うことです。つまり、「十牛図」の牛というのは仏祖自身のことで、沢木老師の言葉のように、「自分が自分を自分する」修行だということでしょう。「十牛図」の第八は、円相の中に何もない図ですが、「人牛倶忘」というと、自己も牛も世界も全部姿を消してしまった、何か神秘的な境涯のように感じますが、如浄禅師や道元禅師は自分が自分を自分する、雲水一人一人の何の変哲もない日々の修行のことだといわれているのでしょう。私の記憶では、道元禅師が「十牛図」に関説されることはないように思いますが、この詩では、如浄禅師の詩を通して、わずかに触れられているように思います。

 

 

3月28日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2022年2月

 

2月の前半は、最高気温が0℃に達しない真冬日が続き、雪も何度か降りましたが、先週あたりから、午後には10℃を超える日があり、晴れた日には、陽射しも春を予感させるように明るくなりました。3月に入るまでは、風が北から吹くか南から吹くかの違いで寒くなったり暖かくなったりの繰り返えしです。Snowdrop(待雪草)の白い小さな花が咲きだしました。暖かさにだまされたのか、水仙などの芽も地面に見え始めました。まだまだ、雪が降ったり、凍りついたりしますので、植物たちも3月に入って春が来るまでは試練の日々を過ごさなければなりません。

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涅槃会接心の後、13日の日曜日に、涅槃会の法要がありました。その折の法話は私が担当しました。今回は、「永平広録」の486、涅槃会上堂のおりの道元禅師の漢詩について話しました。昨年の12月に第48偈として「句中玄」に収録されている同じ詩についてDogen Instituteのウェブサイトに紹介したばかりでした。

 

鶴林月落曉何曉 (鶴林の月落ちぬ、曉、何ぞ曉ならん。)

鳩尸花枯春不春 (鳩尸の花枯れて、春、春ならず)

戀慕何爲顛誑子 (戀慕、何爲せん顛誑の子)

欲遮紅涙結良因 (紅涙を遮めて良因を結ばんと欲す)

 

1252年2月15日、亡くなられる前年の、道元禅師にとっては最後になる涅槃会上堂の最後に付せられている漢詩です。鶴林というのは、クシナガラで入滅されたとき、横になっておられる釈尊の四辺にあった4双8本の沙羅樹が花を咲かせ、満開になってすぐにたちまちに萎み、白色に変じ、さながら鶴の群れのようであったという伝説からそう呼ばれるようになりました。2行目の鳩尸(クシ)はクシナガラの略です。釈尊が入滅された悲しみで、花が枯れ、暁になっても暗いままで、春なのに春らしさが全くないという、暗澹とした人々の心の描写です。

パーリ語のパリニッバーナ経では、釈尊の弟子の中で阿難など「まだ愛執をはなれていない修行僧は、両腕を突き出して泣き、砕かれた岩のようにうち倒れ、のたうち廻り、転がった」。しかしアヌッルダなど、「愛執を離れた修行僧らは正しく念い、よく気をつけて耐えていた」(中村元訳、岩波文庫)と書かれています。この、道元禅師の漢詩で興味深いのは、道元禅師が、阿難たち、まだ愛執を離れていないので、悲しみ、泣き叫んでいる未熟な修行僧たちの方に自分を置いておられるように見えることです。「顛誑子」というのは、「法華経」の寿量品に出る「良医病子」という比喩の中で使われる言葉です。

ある所に良医があり、彼には百人余りの子供がいました。ある時、良医の留守中に子供たちが毒を飲んで苦しんでいました。そこへ帰ってきた良医は薬を調合して子供たちに与えました。軽症だった半数の子供たちは父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻しましたが、残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしませんでした。そこで良医は一計を案じ、もう一度旅に出ました。そして旅先から使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせました。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができました。この物語の中の良医は仏で、病で苦しむ子供たちが衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で、釈尊も方便として般涅槃されたので、その実、仏の寿命は無量であることを表しています。

「顛誑子」というのは、毒のために顛倒し、狂ってしまっていて、父である医者の薬を飲まなかった子供たちです。父親が亡くなったと聞いて、父への恋慕のために薬を飲んでようやく本心を回復した子供たちを指します。釈尊の涅槃の場面では阿難のような人たちのことでしょう。この漢詩で、道元禅師がご自分をアヌルッダの側ではなく、泣き崩れる阿難の側に置いておられることが興味深いと思います。それでも紅涙を抑えて、釈尊の教えに従って良因を結んでいこうという決意でこの詩を締めくくっておられます。

12月にこの詩についての記事を書いた時にはどうしてこのような書き方をされたのか理解できていませんでしたが、今は、翌年の御自分の入滅を何がしかすでに意識されていたのではないかと考えています。御自分のサンガの人々が近いうちに同じ経験するであろうことを。

 

昨年の12月に、アメリカ人の父親と日本人の母親の間に、日本の宇治で生まれ、ジョージア州に住まれていた45歳の男性が亡くなられました。ご両親から依頼されて、その方のご戒名を作り、日本で言えば告別式を行いました。パンデミックがまだ収束しない時ですので、法要は三心寺で、ズームを通して、あちらで集まっておられる、ご家族や親族、知人、友人の人たちを繋いで行いました。このような時期ですので、このようなやり方でのお葬式やご法事が多いのかもしれません。この方はコロナが死因ではなかったのですが、コロナで亡くなった場合、死に目に会えないということは聞いていますが、お葬式も告別式もできないのではご遺族としてはいたたまれないと思います。

アメリカの日系寺院以外の禅センターでは、檀家というものがありませんので、お葬式やメモリアル・サービスは、メンバーの方が亡くなったときくらいです。三心寺では、創立してから18年で、1回しかありませんでした。亡くなられた方の慰霊やご遺族のグリーフ・ケアは大切なことですので、将来的にはこのような機会も出てくることと思います。

 

昨年11月の眼蔵会が終わってからずっと、私の引退まであと4回ある眼蔵会のテキストとして「正法眼蔵佛性」と「見仏」の英語訳を続けてきました。その他にも書かなければならない原稿や毎月の連載があって、かかり切りになることはできませんでしたので、時間がかかりました。ようやく「佛性」の巻が終わって、現在英語のエディットをしてもらっています。「佛性」は長いので、3回に分けて三心寺での眼蔵会のテキストにします。「見仏」は今年9月のチャペルヒル禅センターで参究します。これで、私の眼蔵会は終了します。

2002年にサンフランシスコ禅センターで行われた、「山水経」を講本とした、初めての眼蔵会での私の講義をもとにした、Mountains and Waters Sutra (1218年、Wisdom社刊)のイタリア語訳が完成し、もう直ぐイタリアの出版社から刊行されます。それで、イタリア語版に序文を書くようにと依頼されました。

この本の最後には、「眼蔵会で話したこと、この本に書いたことは、現時点での私の参究のレポートでしかない、次の機会には全く別の話し方、書き方をするかもしれない」、と書きました。今回の序文で、20年後の現在でも、全く同じことを言わなければならないと書きました。内山老師もその都度、一鍬でも深く掘ろうとしていると言われていましたが、誠にその通りだと思います。底無しに深い仏法と道元禅師の著作に出会って、50年以上経ちましたが、今でもどれだけ理解できているかは甚だ自信がありません。生きている間はどこまでも初心者であり続けていくのだと思います。

 

2022年2月26日

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2022年

 

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今年の元旦は暖かくて、気温が15℃ほどもありましたが、その後寒い日が続いています。今朝の最低気温はマイナス9℃でした。最高気温もマイナス2℃だとのことです。昨夜、雪がふって、白く寒々としていますが、うっすらと地面を覆っているくらいです。今冬はまだ本格的な積雪はありません。リスたちだけが忙しそうに走り回っています。

 

昨年までは、いくら寒くても歩いてYMCAに行っていましたが、最近、午後になっても氷点以上に上がらない日には、外を歩くのが億劫になりました。そういう日には、自動車で行くか、サボって家にいるかになります。身体を動かさないと何か調子が良くないので、なるべく出かけるようにしていますが、やはり年齢のせいのようです。なにくそと反発して困難に立ち向かうという精神は薬にしたくてもなくなりました。

 

例年通り、正月の三ヶ日はお寺の活動もお休みでした。その後、もとにもどり、週日、朝の坐禅、夕方の勉強会などが始まりました。3日間の接心もありました。これらの活動は全て法光と何人かの人たちが中心になって行っています。以前は私が全ての摂心、リトリート、日曜参禅会の法話、勉強会、略布薩などを行っていましたが、現在は、法光が摂心や勉強会を担当し、二、三人の長く三心寺で参禅している出家者が法話などもしてくれるようになりました。

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私は月に1度、日曜日の法話を担当する程度です。9日の日曜日には、Opening the Hand of Thoughtの第8章、内山老師が1975年の2月、安泰寺から引退される際にされた提唱、「求道者Sayseeker」の第3回目で、7項目のうちの第1項「人情世情ではなく、ただ仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと」の部分で、まず仏法とは何かを話しはじめられる部分でした。内山老師は仏法とは何かを語られるのに、石頭希遷と天皇道悟の「長空白雲の飛ぶを礙えず」についての会話を紹介されています。

 

この則を話される最初に、「昭和20年から23年までの間、丹波の十方寺にいた時分、この則をみて非常に感銘した。それで沢木老師に「長空不礙白雲飛」というのを書いてもらった。その額が今、安泰寺にかかっている」と言われています。確かに沢木老師のこの句の額がかかっていたのを思い出しました。それともうひとつ、老師が最初に出版された「自己」の中に大空と雲のことを書かれている部分があって、高校生の頃に読んだ記憶が蘇りました。仏教について何も知らない高校生にも良くわかるように仏法を説明されていました。それで、今回はその部分を私が訳したものを紹介しました。大法輪閣から再版された「自己:ある禅僧の心の遍歴」では、27ページから始まる「坐禅という最高文化」の部分です。

 

「物足りようの思いでかけずりまわる自分」と、「そんな思いをつき放してどっかり坐禅している自分」との関係を大空と雲の関係として説明されています。十方寺で石頭の則を読んでうけられた感銘とはこのことだったのだと思い至りました。英語に訳したものも、ほとんど説明しなくてもわかるように、仏教や禅の専門語を一つも使わないで、坐禅とはどういうものかを説明されています。17歳でこの本を読んで以来、このことが私の坐禅の理解の基本になっています。思えば、この教えに導かれて、今まで歩いてきたのでした。

 

その後は、「正法眼蔵佛性」と「見仏」の英語訳に専念しました。三心寺の住職を退任する2023年の6月までに、三心寺での眼蔵会が3回、それとノースカロライナ州のチャペルヒル・禅センターでの眼蔵会が1回、あります。三心寺での3回の眼蔵会には「佛性」を3回に分けて参究し、チャペルヒルでは、「見仏」を読むつもりで、そのテキスト作りです。

 

「佛性」はこれまで、開教センターの月例勉強会、サンフランシスコ禅センター、ミネアポリスのダルマ・フィールド・禅センターでの眼蔵会で、少なくとも3回は全体を通して話しましたが、自分で翻訳ができるとは思えなかったので、The Heart of Dogen’s Shobogenzo(State University of New York Press 発行)に収録されている Norman Waddellさんと阿部正雄さんの共訳をテキストとして使いました。今回はなんとか自分で訳したものを使って講読したいと願っております。およそ3分の1ほど、四祖、五祖の無佛性のあたりまで訳し終えました。これで、今年5月の眼蔵会のテキストとしては十分だと思います。

 

ここ数年の眼蔵会で、1243年に越前に移られた年に書かれたものを読んできましたが、「見仏」の巻は、その続きです。1244年までは多くの巻を書かれていますが、大仏寺の安居が始まった1245年以降は、新しい叢林の修行を確立するのに時間のエネルギーを使われたのだと思いますが、眼蔵の著作は少なくなり、それに代って、「永平広録」に収録されている法堂での上堂が多くなります。

 

これまで三心寺の禅戒会で「教授戒文」をテキストとして講義してきたものを1冊の本(「仮題「菩薩戒の参究」」になるようにまとめる作業を始めておりますが、今のところ眼蔵会のテキスト作りに時間を取られていてあまり進んでいません。

 

現在、第五不酤酒戒という不思議な戒のところで、滞っています。出家受戒した時には私は大学生でした。卒業すれば僧侶として生きていくつもりでしたから、買ったり飲んだりすることはあっても、酒を販売する可能性はゼロでした。どうして「酒を販売してはいけない」という戒を受けなければならないのか、理解できませんでした。不飲酒戒は原始仏教から、比丘戒としても、在家戒としてもありますが、「梵網経」の十重禁戒ではどうして不酤酒戒になり、不飲酒戒が48軽戒の一つにまわされたのか、よく分かりません。大乗戒としては、飲酒は自分が酔っぱらうだけだけれども、酒を売れば多くの人に酒を飲ませ、酔わせるから、その方が罪が重いという理屈ですが、戒や律がそのような理念的な理由だけで設けられることはないように思います。自分で飲酒しなければ、酒を造ったり、売ったりすることはいいだろうと、酒造業や酒の販売をする仏教徒が出てきたとかいうような社会的、現実的な問題があったのでしょうか。あるいは、商業に従事する在家仏教徒のあいだで、異教徒は酒の販売をしているけれども、大乗仏教徒としては酒の販売には手を出さないと自粛するための戒だったのでしょうか。漢訳された経典で不酤酒戒がでるのは「優婆塞戒経」だけで、中国でできたと思われる「梵網経」はその影響を受けたのかも知れないということですが、どうも良く分かりません。

 

穀物や果実で作る飲料の酒だけでなく、間違った思想や情報を人に吹き込んだり、社会に撒き散らすことが酤酒にあたるというのが不酤酒戒の説明ではいつも言われます。そして私も受戒する人たちに戒の説明をするときにはそのように言ってきました。万仭道担の「禅戒本義」では「仏祖正伝の坐禅を、酒を酤らざるの戒とするもの也」と言われています。沢木老師も「禅戒本義を語る」で「只管打坐をここに不酤酒戒と参ずる」と言われています。結論としては、それに間違いはないと思います。しかし、それでは、「酒」というのは人々を酔わせたり、惑わせたりするもの一般の代名詞にすぎないのでしょうか?これは、いわば、全くの理念としての戒(理戒)であり、現実的な倫理(事戒)としての意味はないのでしょうか? 少なくとも日本で、酒を販売する人たちは受戒できないとか、仏教徒酒類の販売に従事してはならないというような主張を聞いたことがありません。自分自身酒を飲みますので、後ろめたいということもあってでしょうが、酒についての戒についてはあまり深く考えたことがありませんでした。

 

オミクロン株の影響がブルーミントンでもでてきました。坐禅にくる常連の一人が感染し、二人が感染かどうかは分からないが、風邪の症状があるとのことで、1週間お寺を閉鎖することになりました。まだまだパンデミックの出口が見えないようです。2月に3日間のリトリート、3月に同じく3日間の摂心、そして4月から以前のように夏期安居を予定しております。予定通りに行持ができるように願っております。

 

 

2022年1月28日

 

奥村正博 九拝

 

追伸:

今冬初めて雪景色になりました。積雪はせいぜい1㎝乃至2cmですので、大したことはありませんが、今日の最低気温はマイナス15℃、午後3時でも、マイナス6℃です。YMCAには行かないことに決めました。

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三心通信 2021年12月

今月初旬、臘八接心の頃は少し暖かかったのですが、10日過ぎから数日間、最低気温がマイナス5°C程に下がるようになりました。その後、温度は回復しましたが、雨が降るか、曇り空が多い鬱陶しい日が続きました。南部、中西部に十数個の竜巻がおこり、甚大な被害が出た日、ブルーミングトンでも強風が吹き、大きな枯れ枝が苔庭に落ちましたが、建物はなんともありませんでした。幸い、インディアナ州で被害があったとの報道はありませんでした。今日は冬至ですが、それほど寒くはなく、しばらくぶりによく晴れて、穏やかな天気になりました。庭を覆っていた落葉も掃除をしたのと、強風で飛ばされたのとで、落ち着くところに落ち着きました。雨が多かったおかげで、苔庭の緑がきれいです。

最近、外に出るのは、午後3時から5時過ぎの間にYMCAに行く時だけになりました。往復歩く時間を含めて、1時間ないし1時間半ほど、坐禅の代わりに歩行禅とストレッチをしております。パンデミックが始まってから、ダウンタウンやショッピング・モールに行くこともほとんどありません。日用品や食料を買いにスーパーマーケットにいくのがせいぜいです。それも家内や息子に任せることが多く、私は自動車を運転する機会も少なくなりました。

臘八接心は例年通り11月30日夕方から12月7日の深夜0時まで坐り、翌日8日の朝食と後片付けの掃除で終わりました。法光と何人かが毎日坐り、部分的に坐りに来る人たち、オンラインで参加する人たち合わせて、十余人の参加がありました。私は、毎日午前中、9時から11時まで2炷坐りました。それが現在の体調で無理なくできる限界です。パンデミックが始まって、お寺での活動ができなくなり、人が来ない坐禅堂が可哀想でしたが、ようやく生き返ったように感じました。遠方から来る参禅者たちの宿泊所として借りている、隣接したアパートはまだ使えませんので、参加者は一人を除いて全員ブルーミントン在住の人たちでした。それで、それぞれの家からお寺までの往復時間を考慮して、朝は5時から、夜は8時までと、14炷ではなく、12炷の差定にしました。

接心中、毎日2炷しか坐りませんでしたので、宗務庁翻訳事業の英語訳「正法眼蔵」の脚注の部分に引用されている日本文の校正に時間を取ることができ、全巻を見終わることができました。5月から半年以上、ほとんど毎日、朝の最初の1時間ほどをこの校正の作業に当てていましたので、完了してほっとしました。これから、最終原稿作成の作業をし、2023年には出版される予定とのことです。この翻訳事業は1995年に始まりましたので、四半世紀以上かけて、「日課勤行聖典」、「行持規範」、「伝光録」に続いて「正法眼蔵」が英語に翻訳されることになります。この事業は日本曹洞宗が世界に提供できる最善の事業だと思い、編集委員としても関わりましたので、完了が目の前に迫って、感慨深いものがあります。翻訳に当られたアメリカの学者の方々、それを支えられた多くの人たちのご苦労に感謝します。

日本国外の人々が曹洞禅を修行してゆくには、それらだけでは十分ではありません。私の個人的な仕事として、太源・レイトン師との共訳で「永平広録」「永平清規」、その他の人たちの協力を得て「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師和歌集」、「学道用心集」、などの宗典、また内山興正老師の著作の英語訳をして参りました。私がしてきた講義をもとにした著作も数点が出版され、それらのいくつかフランス語、ドイツ語、イタリア語・スペイン語などにも訳されました。出版はされておりませんが、眼蔵会のテキストとして毎年3巻ほど、「正法眼蔵」の翻訳も続けてきました。

1972年に駒澤大学を卒業して安泰寺に安居させていただく際に、内山老師から、「これからは世界に向けて坐禅の修行と正しい坐禅の意味を伝えていかなければならないのだから、英語の勉強をしないか」と言われました。性格的にノーといえなくて、別に英語に興味があったわけではないのに、英語学校に行かせていただき、英語を勉強しはじめてから50年になります。その間、トボトボとおぼつかない歩みではありましたが、なんとか今までその方向で努力してこられたことを何よりもありがたいことと存じます。特に、大きな組織と関わりなく、坐禅修行を続け、同行の人たちとの協力の中で翻訳の仕事をしてくることができたことを嬉しく思っております。

今年は、3冊の本が出版されました。6月に、内山老師が「生命の実物」の中で紹介されたカボチャの話をもとにした子供用の絵本Squabling SquashesがWisdom社から刊行されました。子供教室のような活動をしている禅センターでは子供たちに読んで聞かせてから、花壇や畑の仕事を一緒にしたという話も聞きました。アメリカ国内や国際間の様々な分断の現状の中で、みんな一つの生命を生きているのだということを子供たちに知ってもらいたい大人たちに喜ばれているとのことです。ある禅のグループでは、みんなでこの絵本を読んでから坐禅をしたという話も聞きました。

9月末には、宮川敬之さんに日本語に訳していただいた拙著Realizing Genjokoanの日本語訳が春秋社から出版されました。何年か前に三人の宗侶の方達と一緒に三心寺の眼蔵会においでいただいた時に、敬之さんから、翻訳したいということをお聞きしていたのですが、パンデミックの蟄居生活が功を奏したのか、予想外に早く出来上がって驚きました。いくつもの質問をいただいて、私の書き方の間違いやあやふやな点が出てきて慌てましたが、是正していただけて有り難かったです。20年以上前にロスアンゼルス禅宗寺に北アメリカ開教センター(現国際センター)の事務所があったころに禅宗寺の教室をお借りしてさせていただいた宗典講読での講義をもとに、トランスクライブしていただいた方、センター報に連載したおりに英語をエディットしていただいた方たち、その後、一冊の本にするために編集作業をしてくれた人、内容を点検してくれた人たち、その他多くの人々のご協力でできた本ですので、自分の著書というのも恥ずかしい感じがします。これまで、英語の本を作っても日本の方々に読んでいただけなくて寂しい思いをしてきましたが、今回、読んでいただいた人たちから感想を聞かしていただけるのを楽しみにしております。

10月には、Dogen Instituteから、Ryokan Interpreted が出ました。これも20年ほど前にバークレー禅センターで話した良寛さんの漢詩についての講話をもとに、ある程度書き足して一冊の本にしたものです。英語原稿のエディットをしていただいたミルォーキー禅センターの前住職の洞燃・O’Conner師は、この本に載せるエッセイを書くために、三心寺の副住職の法光と共に日本に行き、越後の良寛さんが生きた場所を訪問していただきました。法光はこの本に掲載された五合庵、その他多くの写真を撮影してくれました。洞燃さんのお弟子の洞文さんには表紙その他、装丁に使う絵を書いていただきました。Dogen InstituteのディレクターのDavidさんは本全体の編集、そして法光がブック・デザインを担当しました。完全に我々の手作りでできた本です。

Wisdom社から出版予定の「長円寺本随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary 、必要な編集作業は完了しました。来年の春には出版される予定です。最初は2月出版予定だったのですが、現在、紙の供給がパンデミックのために滞っているとのことで、遅れてしまいました。「随聞記」は三心寺の勉強会で2、3年程かけて勉強した時の私の翻訳がもとになっています。勉強会で初稿に基づいて説明をし、参加の人たちから英語の間違いを指摘してもらったり、より良い英語表現を教えてもらったりして作成した第2稿をもとに弟子の道樹・Laytonが出版社に送る最終原稿を作ってくれました。「道元禅師和歌集」の英訳と解説は、三心寺のニュース・レターに4年間連載したものを、二人の弟子にエディットしてもらいました。

このように、本の著者は私の名前になっていますが、これまで出した本と同様、多くの坐禅の同行の人々との共同作業でできたものです。私一人で作った本は一つもありません。

1922年にロスアンゼルスに北アメリカで最初の曹洞宗寺院である禅宗寺が創立されて100周年になります。2022年にその記念行事として禅宗寺において授戒会が行われることになり、2、3年前から準備が進んでいます。80周年記念の授戒会の時には、戒師を始め日本から多数の方々がお見えになったのですが、今回は北アメリカの国際布教師が主体になって行うとのことです。私は、説戒を担当するように秋葉総監老師から申しつかりました。その準備として、これまで三心寺の禅戒会で教授戒文をテキストとして講義してきたものを1冊の本になるようにまとめる作業を始めております。

パンデミックで何かと心細い一年でしたが、おかげで、これまで時間がなくて読めなかった本を読んだり、翻訳や執筆に専念することができました。

どうぞ良いお年をお迎えください。


2021年12月22日

奥村正博 九拝

 

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三心通信 2021年11月


今月の上旬、眼蔵会が終わる頃までは晴天が続いたのですが、中旬以降は曇りや雨の日が多く、少し残っていた木々の紅葉もほとんどなくなりました。サンガのワーク・ディもあいにくの雨になり、冬に向かう前の境内の清掃ができませんでした。落ち葉が風に吹かれてあちらこちらに溜まっています。幹と枝だけになった木々は寒々としています。最近は霜が降りたり、水溜りに氷がはることもあります。晩秋の風景です。今日はサンクスギビングでしたので、お寺の活動もなく、静かな1日でした。YMCAも休館なので、外には出ず、ずっと家の中で過ごしました。

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5月から始めた宗務庁翻訳事業の英語訳「正法眼蔵」の日本語の部分の校正は、8月末に「眼蔵」本文の校正が終わり、脚注の部分に引用されている日本文を見ております。現在、12巻「正法眼蔵」の第3、「袈裟功徳」の巻を終えたところです。あと第2巻の半分くらいが残っています。眼蔵会の前2週間ほどは休みましたが、毎日、朝の最初の1時間をこの作業に当てています。

10月末に駒沢時代からの友人が亡くなりました。駒沢大学に入学してすぐに、当時、世田谷の勝光院というお寺の墓地に付属した建物で、笹川浩仙さん、能勢隆之さん、関口道潤さんたちが毎週日曜日にされていた坐禅会を紹介してくれた人でした。それまで本を読んで我流で坐ったことはありましたが、駒沢に入って坐禅指導を受けた後、本当に坐禅を始めたのはその坐禅会においてでした。本気で坐禅を行じておられた方々にお会いできたのは、その友人のおかげでした。

卒業してからも、折々に宗門の僧侶としては常道ではない生き方をしている私を気にしてくれていました。1981年に身体の故障でアメリカから帰ったばかりで、お金も仕事も住むところもなく、これからどうしようかと考えながら、大阪の弟のアパートの留守番をしていたころ、広島のお寺に来るように言ってくれて、手伝いをしながら何日間か滞在させてもらいました。アメリカで屯田兵まがいの生活を5年間した後で、日本のお寺でお坊さんがすることは全部忘れてしまっていて、「舎利礼文」を読むのにも経本を見なければならいという体たらくでしたので、お手伝いと言うよりは邪魔をしていた方が多かったと思います。

20年ほども前だったと思いますが、高い石垣の上で作務をしていた時に、転落して、それ以来車椅子での生活を続けていました。数年前に帰国した折、駒沢の頃の友人二人と一緒に広島のお寺を訪ねして、一夜歓談したのが最後になりました。この夏に、珍しく手紙をくれて、御自分や共通の知人の近況をしらせてくれて、最後に是非又会いたいと書いてありました。次に帰国する機会にもお訪ねすることを楽しみにしていたのですが、かなわなくなりました。遠くに住んでいるもので、両親の死目にも葬儀にも出ることができなかった私ですので、今回も三人の知人から彼の訃報を知らせていただいたのですが、葬儀に出ることはできませんでした。これから、ますますこのような寂しく、申し訳ない経験をすることになると思います。あるいは、私自身も早晩、人生の店じまいをして、お暇をすることになるのでしょう。それにしても、様々な人々とのご縁のおかげでこのように坐禅をしながらここまで生きてこられたことを心から有難いことだと思います。

4日から8日まで「眼蔵会」がありました。今回は、オンラインで講義を提供するためのテクニカル・サポートの人たちの他、7、8人がマスクを着用してですが、禅堂で講義を聞いてくれました。オンラインでも参加してもらえるようになり、合計60名ほどの参加者がありました。禅堂の中は、そのためのカメラや集音マイク、コンピューターが設置され、スタジオのようになりました。それにしても、2、3年前まで、参加者の人たちと数炷の坐禅をしながら、1日2回、90分の英語での講義ができていたのが、今では信じられません。60歳代と70歳代の体力の違いに驚いております。今では、講義をするだけで精一杯です。

先月の三心通信に、「梅華」の巻と伝法偈に関係について書きましたところ、「『現成公按』を現成する」を日本語に翻訳していただいた宮川敬之さんから、水野弘元先生がかなり以前に「宗学研究」に書かれた「伝法偈の成立について」という論文を、わざわざ国会図書館のデジタルライブラリーにあるものを地元の図書館でコピーして送っていただきました。ご親切に感謝しています。先生はパーリ語仏教の世界的権威でしたから、中国禅の伝法偈の成立について研究されていたと知って驚きました。50年以上も前のことですが、駒沢大学で、水野先生の「仏教概論」の講義をお聞きしたことを思い出しました。

眼蔵会が終わった後に、水野先生の論文を読みました。「伝法偈」の成立について
大体首肯できることが書かれていました。その中に、次のような文がありました。

「以上によって六代の伝法偈は敦煌本にあるものが原始形であり、そこには禅の教理的なことは一切述べず、唯だ正法が達磨から慧能へと、よき条件の下に嫡嫡して、隆盛に向うにいたることを予言的な形で述べているものであることが知られる。伝灯録等にある流通偈では右のようなすっきりした意味はなく、曖昧な点、空思想を出そうとした点など、改変の後が見られる。」(33頁)

この部分を読んで、「禅の教理的なことは一切述べられていない」と言われているのに驚きました。私は、インド以来の如来蔵思想には全くなかった、有情の中には、果実の中の種のように佛性(如来蔵、本覚)がある。その種(佛性)は成長する力(生性)をもち、良縁に会えば、花を咲かせ、果実を実らせるという、「大乗起信論」の「本覚」に重点を置いた「禅思想」が述べられているのだと思います。分別、妄想、煩悩を取り除く修行の必要は全く説かれていないので、「始覚」の過程の方は無視されているようです。北宗を「漸修」として批判した、南宗の「頓悟」の主張なのだと思います。それは、道元禅師が「即心是仏」や「無情説法」で引用し、批判されている、南陽慧忠と問答した南方から来た僧の禅思想と根底的に同じものでしょう。やはり、道元禅師が「佛性」の巻で「凡夫の情量」として批判されている考え方に他ならないのではないでしょうか。

もっとも、パーリ仏教の権威で、アビダルマなどの仏教教理に精通しておられた水野先生には、このような安直な思想は仏教の教理だとは考えられなかったのかもしれません。その点では、道元禅師が「凡夫の情量」だと言われているのと共通していると思います。

道元禅師が「梅華」の巻で言われているのは、諸法実相にもとづいた、無限に広く、ダイナミックな縁起相関の全機を具現している梅樹や梅華等、個々の存在のあり方に目覚め、それを行として現成していくことなのだと思います。「供養諸仏」の巻で、「諸仏かならず諸法実相を大師としましますこと、あきらけし」と言われていることの重要性を感じました。

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昨年まで11月末のこの時期は、眼蔵会が終わって一息つくまもなく、臘八接心が目の前に迫っていて、緊張せざるを得ない時期でした。昨年の臘八接心は午前中だけ坐りました。それ以降、膝や足の付け根の痛みに加えて、坐骨のあたりが椅子に1時間も坐ると痛くなって、坐禅を休ませてもらっています。今年は、午前、午後、夜坐、1炷づつ坐れればいいなという感じです。加齢とともに、人生の風景も晩秋らしく変わりつつあります。

2021年11月25日

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

 

 

三心通信 2021年10月


この2、3日、冷たい雨が降ったり止んだりして、気温も下がり、外を歩くときにはジャケットを着るようになりました。紅葉はすでに盛りをすぎ、落葉も進んでいます。暖かい間に、蕾ができていたアイリスが季節外れの花を咲かせています。雨に濡れていかにも寒そうです。三心寺の小さな草原はすっかり花がなくなり、茶色になりました。雨に濡れて、苔の色はきれいな緑になりましたが、かなりの部分が落ち葉に覆われています。11月半ばまで、落葉掃きの季節です。もっとも、最近は熊手ではなく、電動式の小さなblower (送風機)に頼っています。かなり楽になりました。

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今月3日には、日曜坐禅会で法話をしました。Opening the Hand of thought の第8、最終章 Wayseekerの2回目です。先回はタイトルのWayseekerという言葉について話しました。これは、「求道者」という日本語の直訳で、英語の辞書にはない言葉です。それでも意味は分かるので、本を作るときにもそのままにしてくれたのだと思います。前にも書きましたが、この章は元々、私がバレー禅堂にいた1980年頃に訳したものです。それまでに、勉強会のために「普勧坐禅儀」を英語に訳していましたが、まだまだきちんとした英語は書けませんでした。また、禅堂で一緒に坐禅している人たちのためだけの翻訳でしたので、出版されて一般の人に読まれるなどとは夢にも思っていませんでした。結構、日本語の直訳でおかしな英語表現をつくって、ある意味、楽しんでおりました。この本のタイトになったOpening the Hand of thoughtも「思いの手放し」という内山老師の表現を直訳したものです。アメリカの人たちには、「これは英語ではない」と不評でした。しかし、Letting go of thoughtという普通の英語ではアメリカ人の頭の中を素通りしてしまって、内山老師が苦労して作られた表現の意味を深く考えてもらえないように感じて、そのまま残していたものです。「求道者」もWay Seekerとするよりは、日本語では一語なのだから一語にしたいと思っただけでした。しかし、この場合のWay、求道の「道」は、仏教語としては、サンスクリット語のbodhi (目覚め)の訳なのだということは説明しておかなければならないと思って、そのことを主に話しました。「求道心」は、省略して「道心」とも言いますが、菩提心(bodhi-citta)、「目覚めを求める心」の訳語です。今回は、「安泰寺に残す言葉」の第1、「人情世情でなく、ただ仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと」の「仏法のために仏法を学し、修する」について「随聞記」の道元禅師の言葉を紹介しながら話しました。三心寺で坐禅する人たちは、沢木老師の「坐禅しても何にもならない」(Zazen is good for nothing.)は耳にタコができるほどに聞いていますので、抵抗はないようです。

10月9日の土曜日には曹洞宗のヨーロッパ国際布教総監部主催の現職研修会のために「菩薩戒と菩薩の誓願」について話しました。フランス語への通訳が入るので、前もって英語の原稿を書いて総監部に提出し、当日はその原稿を読むようにとの依頼でした。三心寺の禅戒会で毎年のように話してきた内容ですので準備にそれほど時間はかかりませんでした。パンデミックが始まって以来、オンラインで話をするのが当たり前になりました。旅行をせずに遠隔地の人々とも時間を共有できるのは便利なのですが、コンピューターを通じて言葉だけでつながるのは、やはり直接会って、顔を見ながら話すのとは違うように思います。「面授」と言うことの意味を考え直しております。

それ以降は、ずっと11月の眼蔵会の準備に追われています。今回は「梅華」の巻です。如浄禅師の「梅華」をモチーフにした上堂語や偈頌についてのものですので、それほど難しいものとは思っていませんでした。少なくとも最近講読した「三界唯心」「説心説性」「無情説法」などに比較すれば、仏教教学的な知識も、禅宗史の中での様々な意見の違いを理解することもそれほど必要ないし、「諸法実相」で説かれたことを「梅の花」を比喩として詩的に表現されたものだから比較的説明しやすいだろうと考えておりました。しかし、参究するにつれて、詩偈の観賞程度のものでは無く、すごく重要なテーマが隠されていることに思い当たりました。

「華開世界起」や「吾本來茲土、傳法救迷情。一華開五葉、結果自然成」などから般若多羅尊者や達磨大師の伝法偈が使われていることは一読して明らかですが、それ以外でも伝法偈からの引用が見え隠れしていることがわかりました。「地華」「三昧華」「華地悉無生」「地華生生」「心地」「華情」などです。それで、「地」や「華」が出る伝法偈を選び出して、それらが何を言おうとしているのかを理解しようとしました。第27祖般若多羅から六祖慧能に至るまで、もっと言えば、慧能の弟子の南嶽懐譲、馬祖道一までの伝法偈が全てそうでした。基本的な論理の筋は、心地(真如)としてある個人のなかには種(本覚、佛性)があり、種は成長する性質を持っているので、それが法雨などの縁にめぐまれれば、華を咲かせ自然に実がなると言うことだと思います。これは、道元禅師が「佛性」の巻で「凡夫の情量」として批判されていた考え方だと思い当たりました。これはもともとの如来蔵・佛性思想とは違っているので、「佛性」の巻で邪解を指摘される時に、先尼外道の「我」とは区別して「凡夫の情量」として別に批判されているのでしょう。元来、佛性は常住不変で迷いの凡夫にあっても悟りの仏陀にあっても変わらないものでしたから。五祖弘忍禅師の偈には、「無情既無種、無性亦無生。」と「無情説法」で否定されていた無情には佛性がないとする思想もありました。

伝法偈は、「敦煌本六祖壇経」に初祖達磨大師から六祖慧能までの祖師方が伝えた法についての偈として、お袈裟を伝法の印にすることを中止して、その代わりに作られたものだそうです。そのあと、馬祖道一の洪州宗でつくられた「宝林伝」で摩訶迦葉から馬祖までの全ての祖師の伝法偈が作られ、それで、禅宗の西天二十八祖、東土六祖をとおして馬祖に至る系譜が確定しました。そのあと、「祖堂集」では、過去七仏の伝法偈が追加され、それが「景徳伝灯録」に受け継がれて、現在でも使われている、過去七仏から六祖慧能までの法系が確定したのでした。

道元禅師は「佛性」の巻で、
「ある一類おもはく、佛性は草木の種子のことし。法雨のうるほひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉華果もすことあり、果實さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および華果、ともに條條の赤心なりと参究すへし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず。古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる佛性なるべし。」
と書かれていますが、私は今まで道元禅師が「凡夫の情量なり」と批判されていたこの説は誰のあるいはどのグループのものなのか、理解していませんでした。この批判はおそらく神会の影響を受けた「六祖壇経」から馬祖に至る人たちの伝法偈に表現されている思想を対象にしたものだと今回理解できました。「梅華」の巻では、「雪裏の梅華」を比喩として使いながら、「凡夫の情量」ではない、諸法実相に基づいた佛性の働きを説かれているのだと考え直しました。梅華には、「種」が伝法偈で使われている意味(本覚、佛性)では全く使われていないことにも意味があると思います。それに基づいて、東土の六祖までだけを特別に見る法統についての考え方を否定されているのだと思います。「梅華滿舊枝といふは、梅華全舊枝なり、通舊枝なり、舊枝是梅華なり」はそのように読んで初めて意味が通ると思います。

11月4日から眼蔵会が目の前に迫ってから、このようなことが分かってきて、これを英語でどのように説明すればいいのか、途方に暮れています。

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2021年10月25日

奥村正博 九拝