三心通信 2021年10月


この2、3日、冷たい雨が降ったり止んだりして、気温も下がり、外を歩くときにはジャケットを着るようになりました。紅葉はすでに盛りをすぎ、落葉も進んでいます。暖かい間に、蕾ができていたアイリスが季節外れの花を咲かせています。雨に濡れていかにも寒そうです。三心寺の小さな草原はすっかり花がなくなり、茶色になりました。雨に濡れて、苔の色はきれいな緑になりましたが、かなりの部分が落ち葉に覆われています。11月半ばまで、落葉掃きの季節です。もっとも、最近は熊手ではなく、電動式の小さなblower (送風機)に頼っています。かなり楽になりました。

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今月3日には、日曜坐禅会で法話をしました。Opening the Hand of thought の第8、最終章 Wayseekerの2回目です。先回はタイトルのWayseekerという言葉について話しました。これは、「求道者」という日本語の直訳で、英語の辞書にはない言葉です。それでも意味は分かるので、本を作るときにもそのままにしてくれたのだと思います。前にも書きましたが、この章は元々、私がバレー禅堂にいた1980年頃に訳したものです。それまでに、勉強会のために「普勧坐禅儀」を英語に訳していましたが、まだまだきちんとした英語は書けませんでした。また、禅堂で一緒に坐禅している人たちのためだけの翻訳でしたので、出版されて一般の人に読まれるなどとは夢にも思っていませんでした。結構、日本語の直訳でおかしな英語表現をつくって、ある意味、楽しんでおりました。この本のタイトになったOpening the Hand of thoughtも「思いの手放し」という内山老師の表現を直訳したものです。アメリカの人たちには、「これは英語ではない」と不評でした。しかし、Letting go of thoughtという普通の英語ではアメリカ人の頭の中を素通りしてしまって、内山老師が苦労して作られた表現の意味を深く考えてもらえないように感じて、そのまま残していたものです。「求道者」もWay Seekerとするよりは、日本語では一語なのだから一語にしたいと思っただけでした。しかし、この場合のWay、求道の「道」は、仏教語としては、サンスクリット語のbodhi (目覚め)の訳なのだということは説明しておかなければならないと思って、そのことを主に話しました。「求道心」は、省略して「道心」とも言いますが、菩提心(bodhi-citta)、「目覚めを求める心」の訳語です。今回は、「安泰寺に残す言葉」の第1、「人情世情でなく、ただ仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと」の「仏法のために仏法を学し、修する」について「随聞記」の道元禅師の言葉を紹介しながら話しました。三心寺で坐禅する人たちは、沢木老師の「坐禅しても何にもならない」(Zazen is good for nothing.)は耳にタコができるほどに聞いていますので、抵抗はないようです。

10月9日の土曜日には曹洞宗のヨーロッパ国際布教総監部主催の現職研修会のために「菩薩戒と菩薩の誓願」について話しました。フランス語への通訳が入るので、前もって英語の原稿を書いて総監部に提出し、当日はその原稿を読むようにとの依頼でした。三心寺の禅戒会で毎年のように話してきた内容ですので準備にそれほど時間はかかりませんでした。パンデミックが始まって以来、オンラインで話をするのが当たり前になりました。旅行をせずに遠隔地の人々とも時間を共有できるのは便利なのですが、コンピューターを通じて言葉だけでつながるのは、やはり直接会って、顔を見ながら話すのとは違うように思います。「面授」と言うことの意味を考え直しております。

それ以降は、ずっと11月の眼蔵会の準備に追われています。今回は「梅華」の巻です。如浄禅師の「梅華」をモチーフにした上堂語や偈頌についてのものですので、それほど難しいものとは思っていませんでした。少なくとも最近講読した「三界唯心」「説心説性」「無情説法」などに比較すれば、仏教教学的な知識も、禅宗史の中での様々な意見の違いを理解することもそれほど必要ないし、「諸法実相」で説かれたことを「梅の花」を比喩として詩的に表現されたものだから比較的説明しやすいだろうと考えておりました。しかし、参究するにつれて、詩偈の観賞程度のものでは無く、すごく重要なテーマが隠されていることに思い当たりました。

「華開世界起」や「吾本來茲土、傳法救迷情。一華開五葉、結果自然成」などから般若多羅尊者や達磨大師の伝法偈が使われていることは一読して明らかですが、それ以外でも伝法偈からの引用が見え隠れしていることがわかりました。「地華」「三昧華」「華地悉無生」「地華生生」「心地」「華情」などです。それで、「地」や「華」が出る伝法偈を選び出して、それらが何を言おうとしているのかを理解しようとしました。第27祖般若多羅から六祖慧能に至るまで、もっと言えば、慧能の弟子の南嶽懐譲、馬祖道一までの伝法偈が全てそうでした。基本的な論理の筋は、心地(真如)としてある個人のなかには種(本覚、佛性)があり、種は成長する性質を持っているので、それが法雨などの縁にめぐまれれば、華を咲かせ自然に実がなると言うことだと思います。これは、道元禅師が「佛性」の巻で「凡夫の情量」として批判されていた考え方だと思い当たりました。これはもともとの如来蔵・佛性思想とは違っているので、「佛性」の巻で邪解を指摘される時に、先尼外道の「我」とは区別して「凡夫の情量」として別に批判されているのでしょう。元来、佛性は常住不変で迷いの凡夫にあっても悟りの仏陀にあっても変わらないものでしたから。五祖弘忍禅師の偈には、「無情既無種、無性亦無生。」と「無情説法」で否定されていた無情には佛性がないとする思想もありました。

伝法偈は、「敦煌本六祖壇経」に初祖達磨大師から六祖慧能までの祖師方が伝えた法についての偈として、お袈裟を伝法の印にすることを中止して、その代わりに作られたものだそうです。そのあと、馬祖道一の洪州宗でつくられた「宝林伝」で摩訶迦葉から馬祖までの全ての祖師の伝法偈が作られ、それで、禅宗の西天二十八祖、東土六祖をとおして馬祖に至る系譜が確定しました。そのあと、「祖堂集」では、過去七仏の伝法偈が追加され、それが「景徳伝灯録」に受け継がれて、現在でも使われている、過去七仏から六祖慧能までの法系が確定したのでした。

道元禅師は「佛性」の巻で、
「ある一類おもはく、佛性は草木の種子のことし。法雨のうるほひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉華果もすことあり、果實さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および華果、ともに條條の赤心なりと参究すへし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず。古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる佛性なるべし。」
と書かれていますが、私は今まで道元禅師が「凡夫の情量なり」と批判されていたこの説は誰のあるいはどのグループのものなのか、理解していませんでした。この批判はおそらく神会の影響を受けた「六祖壇経」から馬祖に至る人たちの伝法偈に表現されている思想を対象にしたものだと今回理解できました。「梅華」の巻では、「雪裏の梅華」を比喩として使いながら、「凡夫の情量」ではない、諸法実相に基づいた佛性の働きを説かれているのだと考え直しました。梅華には、「種」が伝法偈で使われている意味(本覚、佛性)では全く使われていないことにも意味があると思います。それに基づいて、東土の六祖までだけを特別に見る法統についての考え方を否定されているのだと思います。「梅華滿舊枝といふは、梅華全舊枝なり、通舊枝なり、舊枝是梅華なり」はそのように読んで初めて意味が通ると思います。

11月4日から眼蔵会が目の前に迫ってから、このようなことが分かってきて、これを英語でどのように説明すればいいのか、途方に暮れています。

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2021年10月25日

奥村正博 九拝