三心通信 2022年6月

 

 

6月に入って後半は暑い日が続いています。外に出ると、立っているだけで汗が出てきそうです。YMCAまで歩き、ジムの中を45分間歩行禅、15分ほどストレッチをしてまた歩いて帰ってきます。片道15分ほどですので、毎日1時間15分ほど歩いています。YMCAの屋内は冷房がよく効いていて、歩いていても暑さは全く感じません。屋外を往復30分ほど歩くだけでTシャツはびっしょりになるほどに汗が出るようになりました。

 

数年前に死んだスズという猫を埋葬した場所に植えたネムノキがかなり大きくなって、今たくさん花をつけています。成長が早く、20年近く前に植えた桜の木の高さに迫っています。英語ではmimosa, Persian silk tree, pink sirisなどと呼ばれています。中国では漢方薬として古くから使われているようですが、もともと新大陸にはなかった植物で、アメリカでは、invasive(侵略的)だといわれて、あまり歓迎されていないようです。

 

この安居中の作務の計画の一部として、ワーク・リーダー(直歳)の発心さんを中心にして苔庭の一部、石を敷いてある部分のやり直しをしてくれています。小型のショベルカーで、石を全部取り除き、その下に敷いてあったシートを取り除き、整地をして、シートを取り替えて、新しい石を入れているところです。日本で石庭に敷くのは花崗岩(グラナイト)を砕いたものですが、この辺りでは手に入らないので普通の砂利を入れています。ちなみに、この辺りには石灰岩が多く、かつて採石場だった場所がいくつももあります。ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングなどに使われた石はこの辺りから運ばれたものだとのことです。苔庭を作り始めてから20年近くが経って、苔は全体を覆うほどに生えたのですが、石の部分が、特にこの2、3年手入れができなくて、見苦しくなっていました。

発心さんはもともとインディアナ大学で美術を専攻した芸術家ですが、仕事としてはコンストラクターをしてきました。建築の仕事ならなんでもできる人です。三心寺の建物のことは、この20年間ずっと世話をしてもらっています。マサチューセッツ屯田兵まがいの生活をしていた頃、このような機械を使える知識と技術と資金があれば、あの頃の生活も随分と身体への負担が少なく、あるいは今でも坐禅ができていたかもしれないなと思います。40年以上前のことを思ってみてもなんの意味もありませんが。

 

4月4日から始まった夏期安居はすでに最終段階に入っています。6月12日には小山一山さんの首座法戦式がありました。本則は「従容録」第51則、「法眼舡陸」でした。万松行秀の示衆によるとこの則のテーマは世法と仏法を分けずに、打成一片にすると、そこにも迷悟は有るか無いかと言うことですが、宏智正覚の頌では、釈尊が出現される前、達磨の西来以前、つまり迷悟が分かれる以前だから迷悟は無いということのようです。このことについては、道元禅師の言い分は宏智禅師とは違うのではないかと思います。「現成公按」の最初の2文で、「あり、あり」、「なし、なし」といわれて、第3文で「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。」と言われているのですから。本則行茶の時にそのように話しました。

首座法戦式の助化師として秋葉玄吾総監老師においでいただきました。サンフランシスコから深夜便に乗り、早朝にインディアナポリスに到着し、午前8時頃に三心寺に到着、10時からの法戦式に臨席していただいたあと、昼食をとって、あまり休むまもなく、インディアナポリス空港に出発という強行スケジュールでした。しかも、帰りのフライトでは天候により、デンバーで3時間待たされされ、サンフランシスコに到着されたのは、深夜になったとのこと。誠に申し訳なく存じました。しかし、首座法戦式をしないと、せっかく出家得度をして宗門に僧籍を登録しても、首座法戦式をしないと何年か後に僧籍を抹消されてしまいますので、弟子を育てるためには法戦式をせざるを得ません。私も国際センターの仕事をしていた頃は結構強行スケジュールであちこちの禅センターを訪問しましたが、今ではどうしてあんなことができていたのか不思議です。

 

夏期安居の行持で最後に残っているのは6月30日から7月4日までの禅戒会、その最終日にある授戒です。私が戒師を勤める授戒会は今年が最後になります。5月にsewing retreatがあって、7人が絡子の把針をしました。あと一人はカナダ在住の人で、居住地の禅センターで縫いました。把針をしている間に戒弟の人たちと個人的に面談し、法名を作成しました。現在、血脈の包みと絡子の裏書きをしているところです。

血脈は、ミネアポリスで最初に授戒会をしたときに、アルファベットで書いたものを日本で和紙に200枚印刷してもらったものを使っていました。こんなに沢山作って使い切ることができるのかと思っていました。しかし、数年前に使い切ってしまいました。それで、最近は戒弟の人たちに、禅戒会の作務の時間に自分で書いてもらうことにしています。そのために、私の法系の祖師方の名前と、誕生と遷化の年代がわかる人についてはその生没年、住職地などを書いたリストのプリントを作りました。戒弟の人たちにとっても、血脈には何が書かれているのかが分かって好評です。それまでは、何が書かれているのか好奇心で開けてみて、元通りに折りたたむのが難しくて困ったというような人がいましたが、自分で血脈を書いてもらえればそのようなことはおこりませんので。

 

とりあえず、私が戒師を勤めるのはこれが最後です。来年の今頃は住職を辞任していますので、筆を取って墨で字を書く苦行から解放されると思うと、それだけで嬉しくなります。私の字は、時には自分でも読めないほど下手くそなのです。字で人格を判定されれば、私は最低の人間になるでしょう。小学校の低学年のころには書道を習ったこともあって、まあまあ普通の字を書いていたような記憶があるのですが、高学年になった頃から、どう言うわけか思い出せませんが、何しろ早く書くことに興味をもって、速記のように自分さえ読めればいいような書き方をするようになりました。書取りのテストでは字が汚いので、その分減点され、全部正解でも満点はもらえませんでした。中学生の頃には学校新聞を作っていて、5分くらいの話ならば、聴いたその場で筆記することができました。その代わり書道の成績は5段階の2でした。それでも平気でした。瑞応寺に半年安居していた間、毎週だったと思いますが、夕方に書道の時間があったので閉口しました。いくら練習しても上手になるわけはないと思って、安居の間中、「独坐大雄峰」ばかりを書いておりました。確か次の日の朝参の時に楢崎一光老師が点検され、私がいつも同じ文字だけを書いていたので、納得できるまで練習するのはいいことだと、少し見当違いのお言葉をいただいて恐縮したことを覚えております。

 

一昨日、22日で74歳になりました。体力、脳力、その他の退化の進み方は早くはなっても、遅くなることはありません。最近、特に英語で話しているときに、ある言葉が頭の中に浮かんでこないで立ち往生する頻度が増えてきました。何を言いたいかは分かっているのに、それに対応する言葉が出てこないのです。必ずしも難しい言葉ではありません。普段普通に使っているような言葉が、忘れたというよりもそこにあるのに姿を見せないと言う感じです。英語で講義をする時、今までは、言うべきことは、調べてメモに書いておりましたが、自分のボキャブラリーを使って、聴いている人たちの顔をみながら話したくて、講義の原稿は書かないことにしておりました。これからは、言葉が出ない時には原稿を見られるようにしたほうがいいかなと考え始めております。

 

先週、YMCAから帰るときに、コンクリートの歩道で、転倒しました。坂道でもなく、段差があるところでもなく、どうして転倒したのか今でも分かりません。脳みそと眼と足指の連絡がうまくいってなかったのでしょう。今までこんなことが起こった経験はありません。普通なら、無意識にでも膝をつくか、体をねじるかして顔が地面にぶつかるのを防ぐと思うのですが、全く棒が倒れるように倒れて、顔だけを打ちました。両手をついて衝撃を緩めたのが唯一の防御でした。鼻の頭と、唇の上とアゴとの三箇所を打って、血を流しながら家に帰りました。幸いにそれほど深い傷ではなくて、今朝、最後のカサブタが取れました。傷跡も大して残らないようで安心しました。頭を打ったり、骨を折ったりしなかったのは幸運だったと思います。自分でも老齢化が一段と進んだのを自覚せざるを得ません。あまりめでたくも無い誕生日でした。

 

 

6月24日

 

 

奥村正博 九拝