三心通信 2022年5月

 

ここ1週間ほど、雨が降ったりやんだりしています。日本の梅雨のように湿気が多く、ジメジメとしています。暖房はすでに不要ですが、まだ冷房が入るほど暑くはないので、屋内では寒く感じることもあります。三心寺境内の小さな草原もふたたび緑に覆われています。木々の濃い緑とともに、圧倒的な生命力を感じます。生まれたばかりらしい、小さな野ウサギが、危険な動物がいないか用心しながら、とことこ走り回っては、芽を出したばかりの小さくて柔らかい草を食べています。毎日のように、リスの兄弟(オスなのかメスなのかは分かりません)が、餌を食べる合間に追いかけっこをしています。バード・フィーダーには、いく種類もの野鳥が食事にきます。不思議なのは、そのなかにキツツキも混じっていることです。樹木をつついて中の虫を食べるよりも、与えられた餌を食べる方が楽だからなのでしょうか。人間が餌をやることで、彼らの食生活を変えているのかもしれません。境内の整備や植物の世話をしている人たちの方針で、5月中は人間が歩く通路になるところ以外は、芝刈りはしないことにしています。ミツバチが蜜を集めに来る時期だからとのことです。


パンデミックの間、誰もお寺にきませんでしたので、苔庭の草取りは、できるだけ私がしておりました。膝や腰を曲げてする仕事はせいぜい十五分くらいしかできませんでしたが、毎日のように、YMCAから帰ってから、地面にあぐらで座りこんで草取りをしておりました。今年は、首座の一山さんに苔庭の世話をしていただいています。最近雨が多いので苔の緑もきれいです。

 

4月4日から始まった3年ぶりの夏期安居は順調に進んでおります。5日から9日までは、眼蔵会がありました。先月書きましたように講本は「正法眼蔵佛性」のパート1でした。禅堂では、十人ほどの人たちが聴講し、Zoomを通じて参加する人たちを合わせて、100名近くの参加者がありました。ヨーロッパや日本から参加してくれる人たちもありました。私の英語での「眼蔵」の話を聞いてくれる人がこんなに多くいることに驚いています。

 

正法眼蔵佛性」のパート1というのは、私が適度の分量で、キリのいいところで区切っただけのものです。四祖と五祖の無佛性の問答のところまでで一区切りとしました。この問答は、公案ストーリーとしてはかなり長いものです。五祖の前身であった、栽松道者と四祖との出会いから話は始まります。四祖は栽松道者がすでに嗣法するには歳をとりすぎているので、生まれ変わって来るのならばそれまでまっていてやろうと言います。栽松道者はその申し出を受け入れて、水辺で洗濯していた周氏の娘に頼んで託殆して生まれてきます。「林間録」というテキストでは、父無し子を生んだというので、母親は家から追い出され、住むところもなく、昼間は村人に雇われて仕事をし、夜は集会所で眠ったと書かれています。生まれてすぐに川に捨てられたけれども、翌日、あるいは7日後、問題なく生きていたので、拾い上げて育てました。子供になってからは、母親について乞食をしていて、村人たちからは、無姓児と呼ばれていたということです。

そのような生活をしていた一日、四祖に出会って、「佛性」によれば、以下のような問答がありました。

祖見て問うて曰く、「汝、何なる姓ぞ」。

師、答へて曰く、「姓は即ち有り、是れ常姓にあらず」。

祖曰く、「是れいかなる姓ぞ。」

師答へて曰く、「是れ佛性」。

祖曰く、「汝、無佛性」。

師答へて曰く、「佛性空なるが故、所以に無と言う」。

 

この問答の結果、四祖はその子を仏法の器であることを知り、自分の侍者にして、後に正法眼蔵を付嘱しました。五祖は黄梅の東山に住んで、大いに仏法の玄風を振るったとのことです。

道元禅師は、この長々とした五祖の前生を含んだ尾びれには全く興味がなく、ご自分のコメントでは、上に引いた二人の問答だけに注意されています。このバージョンを引用されたのは、他のテキストでは「無佛性」という表現が使われていないからだと思われます。そもそも、952年にできた「祖堂集」にも、1004年に出来た「景徳伝灯録」にも、五祖が、父無し子で栽松道者の生まれ変わりだったなどという話はありません。むしろ「景徳伝灯録」には、この子供との問答の後、四祖は侍者をこの子供の家につかわして、「父母」を説得して自分の弟子としたと書かれています。

 

五祖が栽松道者の生まれ変わりで、父無し子として生まれ、生後すぐに川に流されたけれども、7日間無事に生きていたなどいう荒唐無稽な話は宋朝になって作られたものであることは明らかです。この話が最初にでる「林間録」は1106年に序文が書かれて刊行されていますので、「伝灯録」よりも100年ほども後にできたものです。同じ話が複数のテキストに出る場合、年代の順に辿ってみると時々面白い変化を見ることができます。宋代に入ってから、話を公案として面白くするために試みられたのだと思います。この場合は、話としては面白いけれども、余り深い意味をつけ加えることはなかったので、無視されて、ご自分のコメントには、二人の会話についてだけに絞られたのだと思います。

 

9日に眼蔵会が終わった後は、数日間何をする気力もありませんでした。数年前までは、3時間の講義の他に、参加者と一緒に、7炷の坐禅を坐って、ヘタヘタになっていたのですが、最近は、坐禅無しで講義だけなのに、同じくらいに疲れます。かえって、何故あんなことができていたのかと、不思議に思うくらいです。60歳代と70歳代の体力、脳力の違いは恐るべきものだと感じています。眼蔵会のあと、しばらく休養して、「菩薩戒の参究」の原稿の書き直しを始めています。

 

19日から25日までの1週間、Sewing Retreatがありました。家内の優子が指導して、7月始め、夏期安居の最後の行持であるPrecepts Retreatにおいて、受戒を希望する人たちに絡子を縫ってもらう期間でした。私が戒師として行う授戒会は今年が最後になります。受戒希望者は8人あります。私が最初に授戒をおこなったのは、1995年ミネソタ禅センターでの授戒会でした。片桐老師が亡くなられてから初めての授戒でしたので、戒弟が40名近くありました。その後、同じ法名が重なるのを避けるために、授戒会の度ごとに、授与した法名を記録してあります。それによると、今回の8人を含めると、182人になります。

 

来年の6月には私は三心寺の住職から退き、現在副住職の法光に引継ぎます。始めた頃のことを思い出すと、よく20年も存続できたものだというのが実感です。数年前には土地と建物のローンの支払いも完了しました。来年は三心寺創立20周年になります。

 

「長円寺本随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary 、がようやくWisdom社から出版されることになり、見本が数冊届きました。今年初めに出る予定だったのですが、紙の供給が滞っていて、印刷が遅れていました。6月の中旬から市場に出るとのことです。ハードカバーで、500ページ近い、大きな本になりました。「随聞記」の部分は見開きに、日本語原文と英語訳とが対照になっています。日本語の原文を読めるアメリカ人読者がどれほどいるかは疑問ですが。

5月28日

奥村正博 九拝