三心通信 2022年2月

 

2月の前半は、最高気温が0℃に達しない真冬日が続き、雪も何度か降りましたが、先週あたりから、午後には10℃を超える日があり、晴れた日には、陽射しも春を予感させるように明るくなりました。3月に入るまでは、風が北から吹くか南から吹くかの違いで寒くなったり暖かくなったりの繰り返えしです。Snowdrop(待雪草)の白い小さな花が咲きだしました。暖かさにだまされたのか、水仙などの芽も地面に見え始めました。まだまだ、雪が降ったり、凍りついたりしますので、植物たちも3月に入って春が来るまでは試練の日々を過ごさなければなりません。

f:id:sanshintsushin:20220228164935j:plain

涅槃会接心の後、13日の日曜日に、涅槃会の法要がありました。その折の法話は私が担当しました。今回は、「永平広録」の486、涅槃会上堂のおりの道元禅師の漢詩について話しました。昨年の12月に第48偈として「句中玄」に収録されている同じ詩についてDogen Instituteのウェブサイトに紹介したばかりでした。

 

鶴林月落曉何曉 (鶴林の月落ちぬ、曉、何ぞ曉ならん。)

鳩尸花枯春不春 (鳩尸の花枯れて、春、春ならず)

戀慕何爲顛誑子 (戀慕、何爲せん顛誑の子)

欲遮紅涙結良因 (紅涙を遮めて良因を結ばんと欲す)

 

1252年2月15日、亡くなられる前年の、道元禅師にとっては最後になる涅槃会上堂の最後に付せられている漢詩です。鶴林というのは、クシナガラで入滅されたとき、横になっておられる釈尊の四辺にあった4双8本の沙羅樹が花を咲かせ、満開になってすぐにたちまちに萎み、白色に変じ、さながら鶴の群れのようであったという伝説からそう呼ばれるようになりました。2行目の鳩尸(クシ)はクシナガラの略です。釈尊が入滅された悲しみで、花が枯れ、暁になっても暗いままで、春なのに春らしさが全くないという、暗澹とした人々の心の描写です。

パーリ語のパリニッバーナ経では、釈尊の弟子の中で阿難など「まだ愛執をはなれていない修行僧は、両腕を突き出して泣き、砕かれた岩のようにうち倒れ、のたうち廻り、転がった」。しかしアヌッルダなど、「愛執を離れた修行僧らは正しく念い、よく気をつけて耐えていた」(中村元訳、岩波文庫)と書かれています。この、道元禅師の漢詩で興味深いのは、道元禅師が、阿難たち、まだ愛執を離れていないので、悲しみ、泣き叫んでいる未熟な修行僧たちの方に自分を置いておられるように見えることです。「顛誑子」というのは、「法華経」の寿量品に出る「良医病子」という比喩の中で使われる言葉です。

ある所に良医があり、彼には百人余りの子供がいました。ある時、良医の留守中に子供たちが毒を飲んで苦しんでいました。そこへ帰ってきた良医は薬を調合して子供たちに与えました。軽症だった半数の子供たちは父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻しましたが、残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしませんでした。そこで良医は一計を案じ、もう一度旅に出ました。そして旅先から使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせました。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができました。この物語の中の良医は仏で、病で苦しむ子供たちが衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で、釈尊も方便として般涅槃されたので、その実、仏の寿命は無量であることを表しています。

「顛誑子」というのは、毒のために顛倒し、狂ってしまっていて、父である医者の薬を飲まなかった子供たちです。父親が亡くなったと聞いて、父への恋慕のために薬を飲んでようやく本心を回復した子供たちを指します。釈尊の涅槃の場面では阿難のような人たちのことでしょう。この漢詩で、道元禅師がご自分をアヌルッダの側ではなく、泣き崩れる阿難の側に置いておられることが興味深いと思います。それでも紅涙を抑えて、釈尊の教えに従って良因を結んでいこうという決意でこの詩を締めくくっておられます。

12月にこの詩についての記事を書いた時にはどうしてこのような書き方をされたのか理解できていませんでしたが、今は、翌年の御自分の入滅を何がしかすでに意識されていたのではないかと考えています。御自分のサンガの人々が近いうちに同じ経験するであろうことを。

 

昨年の12月に、アメリカ人の父親と日本人の母親の間に、日本の宇治で生まれ、ジョージア州に住まれていた45歳の男性が亡くなられました。ご両親から依頼されて、その方のご戒名を作り、日本で言えば告別式を行いました。パンデミックがまだ収束しない時ですので、法要は三心寺で、ズームを通して、あちらで集まっておられる、ご家族や親族、知人、友人の人たちを繋いで行いました。このような時期ですので、このようなやり方でのお葬式やご法事が多いのかもしれません。この方はコロナが死因ではなかったのですが、コロナで亡くなった場合、死に目に会えないということは聞いていますが、お葬式も告別式もできないのではご遺族としてはいたたまれないと思います。

アメリカの日系寺院以外の禅センターでは、檀家というものがありませんので、お葬式やメモリアル・サービスは、メンバーの方が亡くなったときくらいです。三心寺では、創立してから18年で、1回しかありませんでした。亡くなられた方の慰霊やご遺族のグリーフ・ケアは大切なことですので、将来的にはこのような機会も出てくることと思います。

 

昨年11月の眼蔵会が終わってからずっと、私の引退まであと4回ある眼蔵会のテキストとして「正法眼蔵佛性」と「見仏」の英語訳を続けてきました。その他にも書かなければならない原稿や毎月の連載があって、かかり切りになることはできませんでしたので、時間がかかりました。ようやく「佛性」の巻が終わって、現在英語のエディットをしてもらっています。「佛性」は長いので、3回に分けて三心寺での眼蔵会のテキストにします。「見仏」は今年9月のチャペルヒル禅センターで参究します。これで、私の眼蔵会は終了します。

2002年にサンフランシスコ禅センターで行われた、「山水経」を講本とした、初めての眼蔵会での私の講義をもとにした、Mountains and Waters Sutra (1218年、Wisdom社刊)のイタリア語訳が完成し、もう直ぐイタリアの出版社から刊行されます。それで、イタリア語版に序文を書くようにと依頼されました。

この本の最後には、「眼蔵会で話したこと、この本に書いたことは、現時点での私の参究のレポートでしかない、次の機会には全く別の話し方、書き方をするかもしれない」、と書きました。今回の序文で、20年後の現在でも、全く同じことを言わなければならないと書きました。内山老師もその都度、一鍬でも深く掘ろうとしていると言われていましたが、誠にその通りだと思います。底無しに深い仏法と道元禅師の著作に出会って、50年以上経ちましたが、今でもどれだけ理解できているかは甚だ自信がありません。生きている間はどこまでも初心者であり続けていくのだと思います。

 

2022年2月26日

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2022年

 

f:id:sanshintsushin:20220131112719j:plain

今年の元旦は暖かくて、気温が15℃ほどもありましたが、その後寒い日が続いています。今朝の最低気温はマイナス9℃でした。最高気温もマイナス2℃だとのことです。昨夜、雪がふって、白く寒々としていますが、うっすらと地面を覆っているくらいです。今冬はまだ本格的な積雪はありません。リスたちだけが忙しそうに走り回っています。

 

昨年までは、いくら寒くても歩いてYMCAに行っていましたが、最近、午後になっても氷点以上に上がらない日には、外を歩くのが億劫になりました。そういう日には、自動車で行くか、サボって家にいるかになります。身体を動かさないと何か調子が良くないので、なるべく出かけるようにしていますが、やはり年齢のせいのようです。なにくそと反発して困難に立ち向かうという精神は薬にしたくてもなくなりました。

 

例年通り、正月の三ヶ日はお寺の活動もお休みでした。その後、もとにもどり、週日、朝の坐禅、夕方の勉強会などが始まりました。3日間の接心もありました。これらの活動は全て法光と何人かの人たちが中心になって行っています。以前は私が全ての摂心、リトリート、日曜参禅会の法話、勉強会、略布薩などを行っていましたが、現在は、法光が摂心や勉強会を担当し、二、三人の長く三心寺で参禅している出家者が法話などもしてくれるようになりました。

f:id:sanshintsushin:20220131112854j:plain



私は月に1度、日曜日の法話を担当する程度です。9日の日曜日には、Opening the Hand of Thoughtの第8章、内山老師が1975年の2月、安泰寺から引退される際にされた提唱、「求道者Sayseeker」の第3回目で、7項目のうちの第1項「人情世情ではなく、ただ仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと」の部分で、まず仏法とは何かを話しはじめられる部分でした。内山老師は仏法とは何かを語られるのに、石頭希遷と天皇道悟の「長空白雲の飛ぶを礙えず」についての会話を紹介されています。

 

この則を話される最初に、「昭和20年から23年までの間、丹波の十方寺にいた時分、この則をみて非常に感銘した。それで沢木老師に「長空不礙白雲飛」というのを書いてもらった。その額が今、安泰寺にかかっている」と言われています。確かに沢木老師のこの句の額がかかっていたのを思い出しました。それともうひとつ、老師が最初に出版された「自己」の中に大空と雲のことを書かれている部分があって、高校生の頃に読んだ記憶が蘇りました。仏教について何も知らない高校生にも良くわかるように仏法を説明されていました。それで、今回はその部分を私が訳したものを紹介しました。大法輪閣から再版された「自己:ある禅僧の心の遍歴」では、27ページから始まる「坐禅という最高文化」の部分です。

 

「物足りようの思いでかけずりまわる自分」と、「そんな思いをつき放してどっかり坐禅している自分」との関係を大空と雲の関係として説明されています。十方寺で石頭の則を読んでうけられた感銘とはこのことだったのだと思い至りました。英語に訳したものも、ほとんど説明しなくてもわかるように、仏教や禅の専門語を一つも使わないで、坐禅とはどういうものかを説明されています。17歳でこの本を読んで以来、このことが私の坐禅の理解の基本になっています。思えば、この教えに導かれて、今まで歩いてきたのでした。

 

その後は、「正法眼蔵佛性」と「見仏」の英語訳に専念しました。三心寺の住職を退任する2023年の6月までに、三心寺での眼蔵会が3回、それとノースカロライナ州のチャペルヒル・禅センターでの眼蔵会が1回、あります。三心寺での3回の眼蔵会には「佛性」を3回に分けて参究し、チャペルヒルでは、「見仏」を読むつもりで、そのテキスト作りです。

 

「佛性」はこれまで、開教センターの月例勉強会、サンフランシスコ禅センター、ミネアポリスのダルマ・フィールド・禅センターでの眼蔵会で、少なくとも3回は全体を通して話しましたが、自分で翻訳ができるとは思えなかったので、The Heart of Dogen’s Shobogenzo(State University of New York Press 発行)に収録されている Norman Waddellさんと阿部正雄さんの共訳をテキストとして使いました。今回はなんとか自分で訳したものを使って講読したいと願っております。およそ3分の1ほど、四祖、五祖の無佛性のあたりまで訳し終えました。これで、今年5月の眼蔵会のテキストとしては十分だと思います。

 

ここ数年の眼蔵会で、1243年に越前に移られた年に書かれたものを読んできましたが、「見仏」の巻は、その続きです。1244年までは多くの巻を書かれていますが、大仏寺の安居が始まった1245年以降は、新しい叢林の修行を確立するのに時間のエネルギーを使われたのだと思いますが、眼蔵の著作は少なくなり、それに代って、「永平広録」に収録されている法堂での上堂が多くなります。

 

これまで三心寺の禅戒会で「教授戒文」をテキストとして講義してきたものを1冊の本(「仮題「菩薩戒の参究」」になるようにまとめる作業を始めておりますが、今のところ眼蔵会のテキスト作りに時間を取られていてあまり進んでいません。

 

現在、第五不酤酒戒という不思議な戒のところで、滞っています。出家受戒した時には私は大学生でした。卒業すれば僧侶として生きていくつもりでしたから、買ったり飲んだりすることはあっても、酒を販売する可能性はゼロでした。どうして「酒を販売してはいけない」という戒を受けなければならないのか、理解できませんでした。不飲酒戒は原始仏教から、比丘戒としても、在家戒としてもありますが、「梵網経」の十重禁戒ではどうして不酤酒戒になり、不飲酒戒が48軽戒の一つにまわされたのか、よく分かりません。大乗戒としては、飲酒は自分が酔っぱらうだけだけれども、酒を売れば多くの人に酒を飲ませ、酔わせるから、その方が罪が重いという理屈ですが、戒や律がそのような理念的な理由だけで設けられることはないように思います。自分で飲酒しなければ、酒を造ったり、売ったりすることはいいだろうと、酒造業や酒の販売をする仏教徒が出てきたとかいうような社会的、現実的な問題があったのでしょうか。あるいは、商業に従事する在家仏教徒のあいだで、異教徒は酒の販売をしているけれども、大乗仏教徒としては酒の販売には手を出さないと自粛するための戒だったのでしょうか。漢訳された経典で不酤酒戒がでるのは「優婆塞戒経」だけで、中国でできたと思われる「梵網経」はその影響を受けたのかも知れないということですが、どうも良く分かりません。

 

穀物や果実で作る飲料の酒だけでなく、間違った思想や情報を人に吹き込んだり、社会に撒き散らすことが酤酒にあたるというのが不酤酒戒の説明ではいつも言われます。そして私も受戒する人たちに戒の説明をするときにはそのように言ってきました。万仭道担の「禅戒本義」では「仏祖正伝の坐禅を、酒を酤らざるの戒とするもの也」と言われています。沢木老師も「禅戒本義を語る」で「只管打坐をここに不酤酒戒と参ずる」と言われています。結論としては、それに間違いはないと思います。しかし、それでは、「酒」というのは人々を酔わせたり、惑わせたりするもの一般の代名詞にすぎないのでしょうか?これは、いわば、全くの理念としての戒(理戒)であり、現実的な倫理(事戒)としての意味はないのでしょうか? 少なくとも日本で、酒を販売する人たちは受戒できないとか、仏教徒酒類の販売に従事してはならないというような主張を聞いたことがありません。自分自身酒を飲みますので、後ろめたいということもあってでしょうが、酒についての戒についてはあまり深く考えたことがありませんでした。

 

オミクロン株の影響がブルーミントンでもでてきました。坐禅にくる常連の一人が感染し、二人が感染かどうかは分からないが、風邪の症状があるとのことで、1週間お寺を閉鎖することになりました。まだまだパンデミックの出口が見えないようです。2月に3日間のリトリート、3月に同じく3日間の摂心、そして4月から以前のように夏期安居を予定しております。予定通りに行持ができるように願っております。

 

 

2022年1月28日

 

奥村正博 九拝

 

追伸:

今冬初めて雪景色になりました。積雪はせいぜい1㎝乃至2cmですので、大したことはありませんが、今日の最低気温はマイナス15℃、午後3時でも、マイナス6℃です。YMCAには行かないことに決めました。

f:id:sanshintsushin:20220131112813j:plain

 

f:id:sanshintsushin:20211226085308j:plain

 

三心通信 2021年12月

今月初旬、臘八接心の頃は少し暖かかったのですが、10日過ぎから数日間、最低気温がマイナス5°C程に下がるようになりました。その後、温度は回復しましたが、雨が降るか、曇り空が多い鬱陶しい日が続きました。南部、中西部に十数個の竜巻がおこり、甚大な被害が出た日、ブルーミングトンでも強風が吹き、大きな枯れ枝が苔庭に落ちましたが、建物はなんともありませんでした。幸い、インディアナ州で被害があったとの報道はありませんでした。今日は冬至ですが、それほど寒くはなく、しばらくぶりによく晴れて、穏やかな天気になりました。庭を覆っていた落葉も掃除をしたのと、強風で飛ばされたのとで、落ち着くところに落ち着きました。雨が多かったおかげで、苔庭の緑がきれいです。

最近、外に出るのは、午後3時から5時過ぎの間にYMCAに行く時だけになりました。往復歩く時間を含めて、1時間ないし1時間半ほど、坐禅の代わりに歩行禅とストレッチをしております。パンデミックが始まってから、ダウンタウンやショッピング・モールに行くこともほとんどありません。日用品や食料を買いにスーパーマーケットにいくのがせいぜいです。それも家内や息子に任せることが多く、私は自動車を運転する機会も少なくなりました。

臘八接心は例年通り11月30日夕方から12月7日の深夜0時まで坐り、翌日8日の朝食と後片付けの掃除で終わりました。法光と何人かが毎日坐り、部分的に坐りに来る人たち、オンラインで参加する人たち合わせて、十余人の参加がありました。私は、毎日午前中、9時から11時まで2炷坐りました。それが現在の体調で無理なくできる限界です。パンデミックが始まって、お寺での活動ができなくなり、人が来ない坐禅堂が可哀想でしたが、ようやく生き返ったように感じました。遠方から来る参禅者たちの宿泊所として借りている、隣接したアパートはまだ使えませんので、参加者は一人を除いて全員ブルーミントン在住の人たちでした。それで、それぞれの家からお寺までの往復時間を考慮して、朝は5時から、夜は8時までと、14炷ではなく、12炷の差定にしました。

接心中、毎日2炷しか坐りませんでしたので、宗務庁翻訳事業の英語訳「正法眼蔵」の脚注の部分に引用されている日本文の校正に時間を取ることができ、全巻を見終わることができました。5月から半年以上、ほとんど毎日、朝の最初の1時間ほどをこの校正の作業に当てていましたので、完了してほっとしました。これから、最終原稿作成の作業をし、2023年には出版される予定とのことです。この翻訳事業は1995年に始まりましたので、四半世紀以上かけて、「日課勤行聖典」、「行持規範」、「伝光録」に続いて「正法眼蔵」が英語に翻訳されることになります。この事業は日本曹洞宗が世界に提供できる最善の事業だと思い、編集委員としても関わりましたので、完了が目の前に迫って、感慨深いものがあります。翻訳に当られたアメリカの学者の方々、それを支えられた多くの人たちのご苦労に感謝します。

日本国外の人々が曹洞禅を修行してゆくには、それらだけでは十分ではありません。私の個人的な仕事として、太源・レイトン師との共訳で「永平広録」「永平清規」、その他の人たちの協力を得て「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師和歌集」、「学道用心集」、などの宗典、また内山興正老師の著作の英語訳をして参りました。私がしてきた講義をもとにした著作も数点が出版され、それらのいくつかフランス語、ドイツ語、イタリア語・スペイン語などにも訳されました。出版はされておりませんが、眼蔵会のテキストとして毎年3巻ほど、「正法眼蔵」の翻訳も続けてきました。

1972年に駒澤大学を卒業して安泰寺に安居させていただく際に、内山老師から、「これからは世界に向けて坐禅の修行と正しい坐禅の意味を伝えていかなければならないのだから、英語の勉強をしないか」と言われました。性格的にノーといえなくて、別に英語に興味があったわけではないのに、英語学校に行かせていただき、英語を勉強しはじめてから50年になります。その間、トボトボとおぼつかない歩みではありましたが、なんとか今までその方向で努力してこられたことを何よりもありがたいことと存じます。特に、大きな組織と関わりなく、坐禅修行を続け、同行の人たちとの協力の中で翻訳の仕事をしてくることができたことを嬉しく思っております。

今年は、3冊の本が出版されました。6月に、内山老師が「生命の実物」の中で紹介されたカボチャの話をもとにした子供用の絵本Squabling SquashesがWisdom社から刊行されました。子供教室のような活動をしている禅センターでは子供たちに読んで聞かせてから、花壇や畑の仕事を一緒にしたという話も聞きました。アメリカ国内や国際間の様々な分断の現状の中で、みんな一つの生命を生きているのだということを子供たちに知ってもらいたい大人たちに喜ばれているとのことです。ある禅のグループでは、みんなでこの絵本を読んでから坐禅をしたという話も聞きました。

9月末には、宮川敬之さんに日本語に訳していただいた拙著Realizing Genjokoanの日本語訳が春秋社から出版されました。何年か前に三人の宗侶の方達と一緒に三心寺の眼蔵会においでいただいた時に、敬之さんから、翻訳したいということをお聞きしていたのですが、パンデミックの蟄居生活が功を奏したのか、予想外に早く出来上がって驚きました。いくつもの質問をいただいて、私の書き方の間違いやあやふやな点が出てきて慌てましたが、是正していただけて有り難かったです。20年以上前にロスアンゼルス禅宗寺に北アメリカ開教センター(現国際センター)の事務所があったころに禅宗寺の教室をお借りしてさせていただいた宗典講読での講義をもとに、トランスクライブしていただいた方、センター報に連載したおりに英語をエディットしていただいた方たち、その後、一冊の本にするために編集作業をしてくれた人、内容を点検してくれた人たち、その他多くの人々のご協力でできた本ですので、自分の著書というのも恥ずかしい感じがします。これまで、英語の本を作っても日本の方々に読んでいただけなくて寂しい思いをしてきましたが、今回、読んでいただいた人たちから感想を聞かしていただけるのを楽しみにしております。

10月には、Dogen Instituteから、Ryokan Interpreted が出ました。これも20年ほど前にバークレー禅センターで話した良寛さんの漢詩についての講話をもとに、ある程度書き足して一冊の本にしたものです。英語原稿のエディットをしていただいたミルォーキー禅センターの前住職の洞燃・O’Conner師は、この本に載せるエッセイを書くために、三心寺の副住職の法光と共に日本に行き、越後の良寛さんが生きた場所を訪問していただきました。法光はこの本に掲載された五合庵、その他多くの写真を撮影してくれました。洞燃さんのお弟子の洞文さんには表紙その他、装丁に使う絵を書いていただきました。Dogen InstituteのディレクターのDavidさんは本全体の編集、そして法光がブック・デザインを担当しました。完全に我々の手作りでできた本です。

Wisdom社から出版予定の「長円寺本随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary 、必要な編集作業は完了しました。来年の春には出版される予定です。最初は2月出版予定だったのですが、現在、紙の供給がパンデミックのために滞っているとのことで、遅れてしまいました。「随聞記」は三心寺の勉強会で2、3年程かけて勉強した時の私の翻訳がもとになっています。勉強会で初稿に基づいて説明をし、参加の人たちから英語の間違いを指摘してもらったり、より良い英語表現を教えてもらったりして作成した第2稿をもとに弟子の道樹・Laytonが出版社に送る最終原稿を作ってくれました。「道元禅師和歌集」の英訳と解説は、三心寺のニュース・レターに4年間連載したものを、二人の弟子にエディットしてもらいました。

このように、本の著者は私の名前になっていますが、これまで出した本と同様、多くの坐禅の同行の人々との共同作業でできたものです。私一人で作った本は一つもありません。

1922年にロスアンゼルスに北アメリカで最初の曹洞宗寺院である禅宗寺が創立されて100周年になります。2022年にその記念行事として禅宗寺において授戒会が行われることになり、2、3年前から準備が進んでいます。80周年記念の授戒会の時には、戒師を始め日本から多数の方々がお見えになったのですが、今回は北アメリカの国際布教師が主体になって行うとのことです。私は、説戒を担当するように秋葉総監老師から申しつかりました。その準備として、これまで三心寺の禅戒会で教授戒文をテキストとして講義してきたものを1冊の本になるようにまとめる作業を始めております。

パンデミックで何かと心細い一年でしたが、おかげで、これまで時間がなくて読めなかった本を読んだり、翻訳や執筆に専念することができました。

どうぞ良いお年をお迎えください。


2021年12月22日

奥村正博 九拝

 

f:id:sanshintsushin:20211226085235j:plain

 

三心通信 2021年11月


今月の上旬、眼蔵会が終わる頃までは晴天が続いたのですが、中旬以降は曇りや雨の日が多く、少し残っていた木々の紅葉もほとんどなくなりました。サンガのワーク・ディもあいにくの雨になり、冬に向かう前の境内の清掃ができませんでした。落ち葉が風に吹かれてあちらこちらに溜まっています。幹と枝だけになった木々は寒々としています。最近は霜が降りたり、水溜りに氷がはることもあります。晩秋の風景です。今日はサンクスギビングでしたので、お寺の活動もなく、静かな1日でした。YMCAも休館なので、外には出ず、ずっと家の中で過ごしました。

f:id:sanshintsushin:20211129174701j:plain

5月から始めた宗務庁翻訳事業の英語訳「正法眼蔵」の日本語の部分の校正は、8月末に「眼蔵」本文の校正が終わり、脚注の部分に引用されている日本文を見ております。現在、12巻「正法眼蔵」の第3、「袈裟功徳」の巻を終えたところです。あと第2巻の半分くらいが残っています。眼蔵会の前2週間ほどは休みましたが、毎日、朝の最初の1時間をこの作業に当てています。

10月末に駒沢時代からの友人が亡くなりました。駒沢大学に入学してすぐに、当時、世田谷の勝光院というお寺の墓地に付属した建物で、笹川浩仙さん、能勢隆之さん、関口道潤さんたちが毎週日曜日にされていた坐禅会を紹介してくれた人でした。それまで本を読んで我流で坐ったことはありましたが、駒沢に入って坐禅指導を受けた後、本当に坐禅を始めたのはその坐禅会においてでした。本気で坐禅を行じておられた方々にお会いできたのは、その友人のおかげでした。

卒業してからも、折々に宗門の僧侶としては常道ではない生き方をしている私を気にしてくれていました。1981年に身体の故障でアメリカから帰ったばかりで、お金も仕事も住むところもなく、これからどうしようかと考えながら、大阪の弟のアパートの留守番をしていたころ、広島のお寺に来るように言ってくれて、手伝いをしながら何日間か滞在させてもらいました。アメリカで屯田兵まがいの生活を5年間した後で、日本のお寺でお坊さんがすることは全部忘れてしまっていて、「舎利礼文」を読むのにも経本を見なければならいという体たらくでしたので、お手伝いと言うよりは邪魔をしていた方が多かったと思います。

20年ほども前だったと思いますが、高い石垣の上で作務をしていた時に、転落して、それ以来車椅子での生活を続けていました。数年前に帰国した折、駒沢の頃の友人二人と一緒に広島のお寺を訪ねして、一夜歓談したのが最後になりました。この夏に、珍しく手紙をくれて、御自分や共通の知人の近況をしらせてくれて、最後に是非又会いたいと書いてありました。次に帰国する機会にもお訪ねすることを楽しみにしていたのですが、かなわなくなりました。遠くに住んでいるもので、両親の死目にも葬儀にも出ることができなかった私ですので、今回も三人の知人から彼の訃報を知らせていただいたのですが、葬儀に出ることはできませんでした。これから、ますますこのような寂しく、申し訳ない経験をすることになると思います。あるいは、私自身も早晩、人生の店じまいをして、お暇をすることになるのでしょう。それにしても、様々な人々とのご縁のおかげでこのように坐禅をしながらここまで生きてこられたことを心から有難いことだと思います。

4日から8日まで「眼蔵会」がありました。今回は、オンラインで講義を提供するためのテクニカル・サポートの人たちの他、7、8人がマスクを着用してですが、禅堂で講義を聞いてくれました。オンラインでも参加してもらえるようになり、合計60名ほどの参加者がありました。禅堂の中は、そのためのカメラや集音マイク、コンピューターが設置され、スタジオのようになりました。それにしても、2、3年前まで、参加者の人たちと数炷の坐禅をしながら、1日2回、90分の英語での講義ができていたのが、今では信じられません。60歳代と70歳代の体力の違いに驚いております。今では、講義をするだけで精一杯です。

先月の三心通信に、「梅華」の巻と伝法偈に関係について書きましたところ、「『現成公按』を現成する」を日本語に翻訳していただいた宮川敬之さんから、水野弘元先生がかなり以前に「宗学研究」に書かれた「伝法偈の成立について」という論文を、わざわざ国会図書館のデジタルライブラリーにあるものを地元の図書館でコピーして送っていただきました。ご親切に感謝しています。先生はパーリ語仏教の世界的権威でしたから、中国禅の伝法偈の成立について研究されていたと知って驚きました。50年以上も前のことですが、駒沢大学で、水野先生の「仏教概論」の講義をお聞きしたことを思い出しました。

眼蔵会が終わった後に、水野先生の論文を読みました。「伝法偈」の成立について
大体首肯できることが書かれていました。その中に、次のような文がありました。

「以上によって六代の伝法偈は敦煌本にあるものが原始形であり、そこには禅の教理的なことは一切述べず、唯だ正法が達磨から慧能へと、よき条件の下に嫡嫡して、隆盛に向うにいたることを予言的な形で述べているものであることが知られる。伝灯録等にある流通偈では右のようなすっきりした意味はなく、曖昧な点、空思想を出そうとした点など、改変の後が見られる。」(33頁)

この部分を読んで、「禅の教理的なことは一切述べられていない」と言われているのに驚きました。私は、インド以来の如来蔵思想には全くなかった、有情の中には、果実の中の種のように佛性(如来蔵、本覚)がある。その種(佛性)は成長する力(生性)をもち、良縁に会えば、花を咲かせ、果実を実らせるという、「大乗起信論」の「本覚」に重点を置いた「禅思想」が述べられているのだと思います。分別、妄想、煩悩を取り除く修行の必要は全く説かれていないので、「始覚」の過程の方は無視されているようです。北宗を「漸修」として批判した、南宗の「頓悟」の主張なのだと思います。それは、道元禅師が「即心是仏」や「無情説法」で引用し、批判されている、南陽慧忠と問答した南方から来た僧の禅思想と根底的に同じものでしょう。やはり、道元禅師が「佛性」の巻で「凡夫の情量」として批判されている考え方に他ならないのではないでしょうか。

もっとも、パーリ仏教の権威で、アビダルマなどの仏教教理に精通しておられた水野先生には、このような安直な思想は仏教の教理だとは考えられなかったのかもしれません。その点では、道元禅師が「凡夫の情量」だと言われているのと共通していると思います。

道元禅師が「梅華」の巻で言われているのは、諸法実相にもとづいた、無限に広く、ダイナミックな縁起相関の全機を具現している梅樹や梅華等、個々の存在のあり方に目覚め、それを行として現成していくことなのだと思います。「供養諸仏」の巻で、「諸仏かならず諸法実相を大師としましますこと、あきらけし」と言われていることの重要性を感じました。

f:id:sanshintsushin:20211129174849j:plain

昨年まで11月末のこの時期は、眼蔵会が終わって一息つくまもなく、臘八接心が目の前に迫っていて、緊張せざるを得ない時期でした。昨年の臘八接心は午前中だけ坐りました。それ以降、膝や足の付け根の痛みに加えて、坐骨のあたりが椅子に1時間も坐ると痛くなって、坐禅を休ませてもらっています。今年は、午前、午後、夜坐、1炷づつ坐れればいいなという感じです。加齢とともに、人生の風景も晩秋らしく変わりつつあります。

2021年11月25日

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

 

 

三心通信 2021年10月


この2、3日、冷たい雨が降ったり止んだりして、気温も下がり、外を歩くときにはジャケットを着るようになりました。紅葉はすでに盛りをすぎ、落葉も進んでいます。暖かい間に、蕾ができていたアイリスが季節外れの花を咲かせています。雨に濡れていかにも寒そうです。三心寺の小さな草原はすっかり花がなくなり、茶色になりました。雨に濡れて、苔の色はきれいな緑になりましたが、かなりの部分が落ち葉に覆われています。11月半ばまで、落葉掃きの季節です。もっとも、最近は熊手ではなく、電動式の小さなblower (送風機)に頼っています。かなり楽になりました。

f:id:sanshintsushin:20211030131248j:plain

 

今月3日には、日曜坐禅会で法話をしました。Opening the Hand of thought の第8、最終章 Wayseekerの2回目です。先回はタイトルのWayseekerという言葉について話しました。これは、「求道者」という日本語の直訳で、英語の辞書にはない言葉です。それでも意味は分かるので、本を作るときにもそのままにしてくれたのだと思います。前にも書きましたが、この章は元々、私がバレー禅堂にいた1980年頃に訳したものです。それまでに、勉強会のために「普勧坐禅儀」を英語に訳していましたが、まだまだきちんとした英語は書けませんでした。また、禅堂で一緒に坐禅している人たちのためだけの翻訳でしたので、出版されて一般の人に読まれるなどとは夢にも思っていませんでした。結構、日本語の直訳でおかしな英語表現をつくって、ある意味、楽しんでおりました。この本のタイトになったOpening the Hand of thoughtも「思いの手放し」という内山老師の表現を直訳したものです。アメリカの人たちには、「これは英語ではない」と不評でした。しかし、Letting go of thoughtという普通の英語ではアメリカ人の頭の中を素通りしてしまって、内山老師が苦労して作られた表現の意味を深く考えてもらえないように感じて、そのまま残していたものです。「求道者」もWay Seekerとするよりは、日本語では一語なのだから一語にしたいと思っただけでした。しかし、この場合のWay、求道の「道」は、仏教語としては、サンスクリット語のbodhi (目覚め)の訳なのだということは説明しておかなければならないと思って、そのことを主に話しました。「求道心」は、省略して「道心」とも言いますが、菩提心(bodhi-citta)、「目覚めを求める心」の訳語です。今回は、「安泰寺に残す言葉」の第1、「人情世情でなく、ただ仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと」の「仏法のために仏法を学し、修する」について「随聞記」の道元禅師の言葉を紹介しながら話しました。三心寺で坐禅する人たちは、沢木老師の「坐禅しても何にもならない」(Zazen is good for nothing.)は耳にタコができるほどに聞いていますので、抵抗はないようです。

10月9日の土曜日には曹洞宗のヨーロッパ国際布教総監部主催の現職研修会のために「菩薩戒と菩薩の誓願」について話しました。フランス語への通訳が入るので、前もって英語の原稿を書いて総監部に提出し、当日はその原稿を読むようにとの依頼でした。三心寺の禅戒会で毎年のように話してきた内容ですので準備にそれほど時間はかかりませんでした。パンデミックが始まって以来、オンラインで話をするのが当たり前になりました。旅行をせずに遠隔地の人々とも時間を共有できるのは便利なのですが、コンピューターを通じて言葉だけでつながるのは、やはり直接会って、顔を見ながら話すのとは違うように思います。「面授」と言うことの意味を考え直しております。

それ以降は、ずっと11月の眼蔵会の準備に追われています。今回は「梅華」の巻です。如浄禅師の「梅華」をモチーフにした上堂語や偈頌についてのものですので、それほど難しいものとは思っていませんでした。少なくとも最近講読した「三界唯心」「説心説性」「無情説法」などに比較すれば、仏教教学的な知識も、禅宗史の中での様々な意見の違いを理解することもそれほど必要ないし、「諸法実相」で説かれたことを「梅の花」を比喩として詩的に表現されたものだから比較的説明しやすいだろうと考えておりました。しかし、参究するにつれて、詩偈の観賞程度のものでは無く、すごく重要なテーマが隠されていることに思い当たりました。

「華開世界起」や「吾本來茲土、傳法救迷情。一華開五葉、結果自然成」などから般若多羅尊者や達磨大師の伝法偈が使われていることは一読して明らかですが、それ以外でも伝法偈からの引用が見え隠れしていることがわかりました。「地華」「三昧華」「華地悉無生」「地華生生」「心地」「華情」などです。それで、「地」や「華」が出る伝法偈を選び出して、それらが何を言おうとしているのかを理解しようとしました。第27祖般若多羅から六祖慧能に至るまで、もっと言えば、慧能の弟子の南嶽懐譲、馬祖道一までの伝法偈が全てそうでした。基本的な論理の筋は、心地(真如)としてある個人のなかには種(本覚、佛性)があり、種は成長する性質を持っているので、それが法雨などの縁にめぐまれれば、華を咲かせ自然に実がなると言うことだと思います。これは、道元禅師が「佛性」の巻で「凡夫の情量」として批判されていた考え方だと思い当たりました。これはもともとの如来蔵・佛性思想とは違っているので、「佛性」の巻で邪解を指摘される時に、先尼外道の「我」とは区別して「凡夫の情量」として別に批判されているのでしょう。元来、佛性は常住不変で迷いの凡夫にあっても悟りの仏陀にあっても変わらないものでしたから。五祖弘忍禅師の偈には、「無情既無種、無性亦無生。」と「無情説法」で否定されていた無情には佛性がないとする思想もありました。

伝法偈は、「敦煌本六祖壇経」に初祖達磨大師から六祖慧能までの祖師方が伝えた法についての偈として、お袈裟を伝法の印にすることを中止して、その代わりに作られたものだそうです。そのあと、馬祖道一の洪州宗でつくられた「宝林伝」で摩訶迦葉から馬祖までの全ての祖師の伝法偈が作られ、それで、禅宗の西天二十八祖、東土六祖をとおして馬祖に至る系譜が確定しました。そのあと、「祖堂集」では、過去七仏の伝法偈が追加され、それが「景徳伝灯録」に受け継がれて、現在でも使われている、過去七仏から六祖慧能までの法系が確定したのでした。

道元禅師は「佛性」の巻で、
「ある一類おもはく、佛性は草木の種子のことし。法雨のうるほひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉華果もすことあり、果實さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および華果、ともに條條の赤心なりと参究すへし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず。古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる佛性なるべし。」
と書かれていますが、私は今まで道元禅師が「凡夫の情量なり」と批判されていたこの説は誰のあるいはどのグループのものなのか、理解していませんでした。この批判はおそらく神会の影響を受けた「六祖壇経」から馬祖に至る人たちの伝法偈に表現されている思想を対象にしたものだと今回理解できました。「梅華」の巻では、「雪裏の梅華」を比喩として使いながら、「凡夫の情量」ではない、諸法実相に基づいた佛性の働きを説かれているのだと考え直しました。梅華には、「種」が伝法偈で使われている意味(本覚、佛性)では全く使われていないことにも意味があると思います。それに基づいて、東土の六祖までだけを特別に見る法統についての考え方を否定されているのだと思います。「梅華滿舊枝といふは、梅華全舊枝なり、通舊枝なり、舊枝是梅華なり」はそのように読んで初めて意味が通ると思います。

11月4日から眼蔵会が目の前に迫ってから、このようなことが分かってきて、これを英語でどのように説明すればいいのか、途方に暮れています。

f:id:sanshintsushin:20211030131455j:plain



2021年10月25日

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2021年9月

 

f:id:sanshintsushin:20210928213906j:plain


お彼岸も過ぎ、朝夕は冷んやりと感じるようになりました。境内の小さな草原には昨年も紹介した、snakeroot(丸葉藤袴)と goldenrod(背高泡立草)が今を盛りと咲いています。夏の間、鹿たちの毛は、明るい茶色でしたが、秋になって灰色がかった暗い茶色になりました。まだ大部分緑ですが、気の早い木々の黄葉、落葉も始まっています。

f:id:sanshintsushin:20210928214003j:plain

 

今年は中秋の名月が八年ぶりに満月だったとのことが報道されていました。中秋の名月が満月とは限らないということが初めて理解できました。旧暦の8月15日、16日、あるいは17日に満月になる可能性があるのだそうです。「永平広録」によると、道元禅師は中秋の日に上堂されていました。1240年から1252年までの13年間に9回の中秋上堂が記録されています。記録されていない4年のうち、1243、44年は越前移転以後、大仏寺での安居が始まる以前で上堂ができなかった時期です。1247年は鎌倉に行かれていた年です。

第10巻の偈頌81から86までは、8月15日から17日までの3日間、おそらく2年間にわたって会下の僧たちと共に、如浄禅師の中秋の上堂を9句に分けて、一年目には最初の3句、次の年には4句目から6句目までについて、ご自分の偈頌を作られています。道元禅師だけではなく、僧衆たちも偈を作ったのでしょうか? 中秋(十五夜)、十六夜、十七夜と満月の可能性があるとすれば、3日間、月見の詩の会を続けられたことも分るような気がします。しかし、9句完結するはずの3回目は記録されていません。

1252年、最後の中秋上堂(521)はかなりの長文で、力を込めて示衆しておられるように感じます。それからあとは10回の上堂があり、おそらく、同年の臘八上堂(506)が最後の示衆だったのだと思われます。翌月、1253年の1月6日には「八大人覚」を執筆されましたが、その時にはこれが最後の著作だと自覚しておられたのでしょう。とすれば、中秋の日の僧たちとの詩会が2回だけしかなく、未完に終わっているのは、1253年の中秋の日には永平寺にはおられなかったからではないでしょうか。つまり、初めての中秋の詩会は1251年、2回目は1252年に行われたのではないかと想像します。

「建撕記」によると、1253年のその日に、「御入滅之年八月十五日夜、御詠歌に云」の前書きがある和歌を作っておられます。

 又見んと 思ひし時の 秋だにも 今夜の月に ねられやはする

今年は中秋が満月だとのニュースを読んで、晩年の道元禅師のことについて想像をたくましくしました。何も資料がないので、単なる推測に過ぎません。もしもそうだとすれば、100巻の「正法眼蔵」の構想が未完に終わったこととともに、如浄禅師の中秋上堂についての偈頌が完結しなかったことも残念に思われていたことでしょう。それにしても、現在の私よりも20歳も若くして亡くなられたことを今更ですが、残念に思います。もしもあと20年長く生きておられたら、宗門の歴史がどう変わっていたかは想像することもできませんが。

宗務庁版英訳「正法眼蔵」本文の校正は8月末に完了し、現在訳注にある日本文の校正をしています。毎朝、最初の1時間ほどをこの仕事にあてています。現在、春秋社版「道元禅師全集」第1巻の半分強が終わったところです。今年中にということですが、完了できるかどうか自信がありません。

拙著、Realizing Genjokoanの日本語訳、「現成公按」を現成する:「正法眼蔵」を開く鍵、がもうすぐ春秋社から刊行されます。訳者の宮川敬之さん、有益なアドバイスをいただいた鈴木龍太郎さんに厚く御礼を申し上げます。

11月の眼蔵会の講本として「正法眼蔵梅華」の翻訳を作りました。第1稿としてつくったものを、聖元・Hartkemyerさんに添削してもらいました。聖元さんは、何十年も前にフランスで弟子丸泰仙師に得度を受けた人です。語学の専門家で長年学校の先生をしていましたが、先年引退しました。三心寺ではもう15年ほど、静かに坐ることと、仏法の参究だけを地道に続けています。僧籍登録とか、嗣法とか、教師資格には全く興味がない人です。アメリカに来て出会った本物の坐禅人のうちの一人です。

 

f:id:sanshintsushin:20210928214039j:plain

良寛さんの漢詩について書いた、Ryokan Interpretedも編集作業は完了し、10月に予定している刊行を待つばかりです。これは出版社からではなく、Dogen Instituteからの自己出版です。19日の日曜日に、ミネアポリスミネソタメディテーション・センターと三心寺との両方を結んで、オンラインの法話をしました。出版間近ですので、この本を紹介し、時期は不明ですが五合庵で書かれたとおぼしい漢詩一首について話しました。その当時の托鉢と坐禅の生活を転描したものだと思います。

 荒村乞食了(荒村、乞食を了わり)
 帰来緑岩辺(帰り来る、緑岩の辺)
 夕日隠西峰(夕日、西峰に隠れ)
 淡月照前川(淡月、前川を照らす)    
 洗足上石上(洗足して、石上に上り)
 焚香此安禅(香を焚いて、此に安禅す)
 我亦僧伽子(我も亦た僧伽の子)
 豈空流年渡(豈に空しく流年を渡らんや)
 (私訳)
 Finished with begging in a desolate village,
 I return to my hermitage with its mossy green rock.
 As the evening sun sets behind the western ridge,
 The pale moon is reflected in the stream before my hut.
 I wash my feet and ascend the rock,
 Burn incense, and sit peacefully in zazen.
 Also a child of the sangha,
 How can I spend the passing years in vain?

 

1981年にバレー禅堂から京都に戻って、旧安泰寺の近くの清泰庵で留守番をさせていただいていた3年間、最低限の生活を支えるために月に2、3回の托鉢をしておりました。托鉢が終わって、清泰庵に帰って、足を洗い、一人で坐禅したことが何回もありましたので、その頃から心に残っている漢詩です。山中の小庵にただ一人、住んでいた間も、自分は僧伽の子だと自覚されていたことを明確にされています。日没後の、しかしまだ明るい情景の描写は、「回光返照」という道元禅師の坐禅そのものの提示だということを話しました。

MZMCから法話を依頼されたのは、来年に、創立50周年を迎えるからです。私が日本からミネアポリスに移転した1993年に20周年がありました。あれからすでに30年近くがたってしまいました。今回の法話の準備をしている間に、創立者の片桐大忍老師が、1972年、ミネアポリスに移転される年の春頃、御家族とともに安泰寺に内山老師を訪問された折に、お会いしていることを思い出しました。私が大学を卒業して安泰寺に安居し始めた頃でした。つまり50年近く前のことです。その次には、バレー禅堂にいて、友人を訪ねてボストンに行ったおり、たまたま片桐老師がボストンのシャンバラというチベット仏教のセンターで公開の講演をされました。御講話を聞いた後、お部屋に伺って、少し話をしました。宝鏡寺を建立する予定の広大な土地を買収して、これから僧堂を建立するという構想を話しておられました。1978年だったかと思います。歳をとって、自分の思い出もすでに歴史の1ページになってしまっているように感じています。

 

f:id:sanshintsushin:20210928214018j:plain

Ryokan Interpreted と長円寺本随聞記の英訳と道元禅師和歌集の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary はすでにAmazonで紹介されています。その表紙の写真を添付します。

 


2021年9月25日

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2021年8月

 

 

f:id:sanshintsushin:20210830224402j:plain

8月は、雨が少なく、やや乾燥していました。モグラは相変わらず元気で、トンネルを掘り続けています。最近、地上数カ所に穴ができました。モグラも外に出ることがあるのでしょうか。まだお目にかかったことはありません。朝夕は涼しくなって、気のはやい木の葉は、黄葉を始めています。境内の小さな草原に咲き誇っていた夏の花たちもおおかた、萎んでしまいました。残っている花たちには、蜂が蜜を求めて飛び回っています。鹿の家族が草を食べるためだけではなく、休憩しにくるようになりました。これまでは必ず母親の後をついて回っていた白い斑点がまだ取れない小鹿たちも、自分たちだけでくるようになりました。写真を撮るためにかなり近づいても、遠ざかりはしますが、逃げることはありません。先日、子供達だけで苔庭で休憩する姿が見えました。日が暮れると、虫たちの声が聞こえるようになりました。

f:id:sanshintsushin:20210830224134j:plain

 

先月から続いて、仕事に追われています。5月に始めた「正法眼蔵」本文の校正作業はようやく最終段階に入りました。春秋社版「道元禅師全集」の第2巻、あと30ページほどで完了します。毎日、朝一番に1時間ほど、この作業を続けています。「眼蔵」本文の校正の後、英語訳の脚注の日本語の部分の校正もしければならないのですが、これはどれほどできるか自信がありません。今年中にと言われているのですが、お寺の行事が再開され、10月に短期ですがヨーロッパに行き、11月に眼蔵会があり、その後臘八接心ですので、今までのように時間がありません。4ヶ月ほど、字面を追うだけでしたが、毎朝「正法眼蔵」を読むのは楽しいことでもありました。

 

そして、Realizing Genjokoan日本語訳のゲラ刷り第2稿の校正が入りました。訳者の宮川敬之さんのご努力に感謝せずにいられません。内山老師が引退された1975年、瑞応寺に半年間安居した後、12月にマサチューセッツ州のバレー禅堂に行って以来、1981年から93年までを除いて、成人してからの人生の大半をアメリカで過ごしておりますので、日本で育てていただきながら、お返しをほとんど何もできずにおりました。「眼蔵」は、駒沢大学で勉強したのと、内山老師の提唱を聞かせていただいたのとを除いて、全くの独学と云うか我流ですので、日本の伝統的な宗学を学ばれている方々に評価されることはないように思いますが、アメリカでの坐禅修行を通して、日本にいただけでは見えなかったものが見えてきたところもあります。いささかでも、その事が表現できていればと願っております。9月末に出版の予定とのことです。

 

そのあと、11月の眼蔵会の講本として「正法眼蔵梅華」の翻訳にはいりました。ごく粗い翻訳は、昨冬に一応していたのですが、細かく一語一語、確かめながら訳し直しました。天童如浄禅師の「梅華」についての八つの上堂や偈頌について評釈されています。1243年の夏に越前移転以後、「三界唯心」、「諸法実相」、「仏経」、「無情説法」、「法性」、「説心説性」など、一群の教学的な内容とそれに基づいた宋朝禅の批判を通して、これから越前で、どのような修行を、どのような思想に基づいて行なっていくのかを鮮明にされた巻を書かれました。また「嗣書」や「面授」では、この仏法の相承の重要性を説かれました。それらに続いて、如浄禅師から受け継がれた仏法を詩的に表現されたものだと思います。

 

その間に、先月書いた、Opening the Hand of Thoughtについて話した法話の録音をトランスクリプトしてくれている方がいて、その第3章 Reality of Zazen (日本語「生命の実物」では、第2章坐禅の実際)の部分ができてきました。もとは、一回に一段落くらいの割合で話したものなので、20回以上の法話をトランスクリプトしていただいたことになります。日曜日の法話や、リトリートの講義でしたので、その度に聴聞している人が違います。新しい人たちにも、以前からの続きがわかるように、何回も同じ内容を繰り返して話した部分もあります。それらの重複はなるべく省いてもらったので、トランスクリプトの仕事もただ音を文字に置き換えるというだけではなく、大変だったと思います。それでも約70ページありました。この1週間ほどはこれにかかりきりになっていました。

 

毎月、Dogen Instituteのウエブサイトに連載している「道元漢詩」は、「句中玄」の順番では、第45首目になりました。これまでの44首は、「永平広録」の第10巻に収録されているものばかりでしたが、これから、それ以前の巻の上堂からの偈頌に入ります。最初は、1252年の上元(旧暦1月15日)の上堂のものです。
雪覆蘆花豈染塵 (雪、蘆花を覆う、豈に塵に染まんや。)
誰知浄智尚多人 (誰か知らん、浄地に尚お人多きことを)
寒梅一點芳心綻 (寒梅一點芳心綻ぶ、)
喚起劫壺空處春 (喚起す、劫壺空處の春。)
遷化される前の年の正月のものです。このおよそ1年後に「八大人覚」を書かれたのが、最後の著作になりました。「梅華」の巻にも通じる、全世界が雪に覆われたままの永平寺の新春の様子を、坐禅修行に現れている、永遠の、時のない春(timeless spring)として描いておられます。

 

今月から、週日、月曜日から金曜日までの早朝の坐禅、日曜日午前中の坐禅会は、人数を制限し、ワクチンの接種を済ました人に限るということで、三心寺の坐禅堂で行うようになりました。まだマスクの着用はしなければなりません。8月の第1日曜日の法話は私が担当しました。Opening the Hand of Thoughtの第7章の一番最後の部分について話しました。第6章、第7章は宗務庁から刊行された小冊子、「現代文明と坐禅」の翻訳です。「坐禅に見守られ、みちびかれ、そこに誓願と懺悔をもって生きる『ボサツという人間像』こそは、これからの時代にとって、真に理想としてえがかれねばならぬ人間像だ」と言われる老師の言葉は、半世紀も前に書かれたものですが、ますますその重要性を増していると思います。来月からは、最後の第8章について話し始めます。

 

週日夕方の坐禅や、読書会、初心者の坐禅指導などは、まだオンラインです。今のところ、地元の人達を対象としたものだけです。市外、州外、国外からの参禅者を含めた、接心、リトリート、ワークショップなどの再開がいつになるかはまだ決められません。ワクチン接種者が増えたことで、パンデミックの収束が見えたように思いましたが、まだまだ予断を許さないようです。

 

それでも、来年には、通常通りの活動が再開できるように、少なくともその可能性が出てきた場合に備えて、計画は立てておかなくてはなりません。現在のところ、少なくとも、4月初旬から7月初旬までの3ヶ月の夏期安居は再開したいと願っています。4月の、受戒予定者が絡子を裁縫するためのソーイング・リトリート、5月の眼蔵会、6月の接心、首座法戦式、7月の授戒会などです。私が戒師を務める授戒会はこれが最後になります。昨年に受戒する予定だった人たち8人が、2年間待つことになりましたが、受戒をする予定でおります。2023年6月に私は退任する予定ですので、それからは、法光が住職に就任し、授戒も行うことになります。


2021年8月29日

奥村正博 九拝