三心通信 2021年7月


今月は、雨降りが多く、湿度の高い日が続きました。例年に比べて暑さはそれほどでもないようです。苔庭の苔は十分な水分を吸ってきれいな緑になりました。周囲の木々の葉も、圧倒的な生命力を感じさせます。春先から、鹿や、リスや、野ウサギなどの子供たちが生まれました。人間がずっと巣ごもりしているせいか、野生の生物たちが活気付いているような気がします。苔庭の地面をでこぼこにしているモグラも、見たことはありませんが元気なようで、あちらこちらにトンネルやモグラ塚をこしらえています。

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昨年から、境内の表の庭の半分以上の芝生を取り払って、この地方に元からあった野生の植物を植えて、小さな草原を作っています。芝刈りの時間や手間を節約する意味もあります。以前は、境内全体の芝刈りをするのに手押し式の芝刈り機で2時間ほどかかっていたのが、半分以下になりました。去年は、ブラック・アイ・スーザンというひまわりを小さくしたような花をもつ植物が全域を占領していましたが、今年はそれ以外の花も咲きました。ご近所で飼っている鶏が三羽ほど、毎日草むらで忙しく何かを啄んでいます。日没になると、蛍が飛び交っています。

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7月は忙しい月になりました。例年、年頭のご挨拶と、暑中見舞いを三心寺創立の折にお世話になった方々、ご縁のある方々に差し上げています。日本在住の人たちだけでなく、アメリカやヨーロッパにお住まいの人たちも合わせるとおよそ120通になります。ご挨拶、近況をお知らせするだけですが、暑中お見舞いの文面を書き、封筒を印刷し、宛名を書き、私信のある方には、手書きでメッセージを書き、封筒にいれて、郵送するまでに3日はかかります。例年ですと、夏期安居の最後の行持である授戒会が終わって一息入れてからの仕事でした。それは計算に入っているのですが、そのあと、5月から続いている「正法眼蔵」の校正に加えて、日本語に訳していただいているRealizing Genjokoanの校正が入りました。

そのあと、16日から18日までのZen Mountain Monasteryの週末リトリートのための講義の準備に入りました。先月書きましたように、「句中玄」の最初の2首「閑居偶作」と、そのあとの「山居」7首の9つの漢詩について話す予定で準備をしておりました。深草閑居と越前移転以後の「山居」の間には10年間の興聖寺での活動が挟まっています。道元禅師の漢詩を伝記の材料としても考えたいと思っていますので、中国から帰国されてから、深草閑居まで、興聖寺開創から入越までの伝記的な事柄、その間の著作の思想的な事柄も加えて話しました。そうすると、9首について話すつもりだったのが、「閑居偶作」2首と「山居」2首、合計4首についてしか話すことができませんでした。しかし、道元禅師の漢詩と、伝記を絡めて学ぶのは、意味のあることだと思いました。

その次の週末、24日の土曜日には、イタリアのブッディスト・ユニオン主催のセミナで「道元禅師の清規」について話しました。私の持ち時間は1時間半でしたが、主に禅宗の叢林での普請作務について話しました。逐次通訳つきで、Q&Aの時間もあったので実質的には1時間と10分ほどの予定だったのですが、やや時間を超過してしまいました。

そのあと、2本の原稿書きがありました。10月にヨーロッパ総監部の現職研修会での、「菩薩戒と誓願」のオンラインでの講義を依頼され、その英語原稿を書かなければなりませんでした。1週間ほどかかって本日、ようやく第1稿ができました。これから手直しをして、英語を添削してもらい、8月9日までに提出の予定なのですが、添削をしてもらう人の予定によって遅れるかもしれません。

もう一つは、Lion’s Roar (獅子吼)という仏教雑誌から、道元禅師の特集をしたいので「現成公按」について1000語ほどの記事を書いて欲しいという依頼でした。明日からその執筆にかかる予定にしております。

8月の6日(金曜日)から8日(日曜日)までの週末に三心禅コミュニティの理事会の年に一度の三心寺での会議があります。毎月のミーティングはオンラインです。その最後の日、8日の日曜日から、三心寺の禅堂がブルーミントン在住の人々に再開されます。1年半ぶりに日曜参禅会がお寺で行われます。私が、以前からの続きでOpening the Hand of Thoughtについて話す予定です。これは、「生命の実物」と「現代文明と坐禅」を主として、内山老師の安泰寺での最後の提唱、その他のお話を英語訳したものです。2006年の7月から、日曜参禅会ではこの本について、一回にほぼ一段落ずつ話してきました。私の記録ではおよそ15年の間に234回話したことになります。この次話すのは、第7章の最後の2段落、日本語の原本では、「現代文明と坐禅」の締めくくりの部分です。

これが終わると、あと最終の第8章、The Wayseeker (求道者)と題した内山老師の安泰寺での最後の提唱の英語訳です。もとは、まだマサチューセッツ州のバレー禅堂にいた1980年頃に訳したものです。この提唱で話された7ヶ条を英語に訳して額に入れて、バレー禅堂の入り口に掛けていたのですが、参禅者から老師がそれぞれの項目についてどんなことを話されたか知りたいと言う希望があって、そのころ、身体のあちこちが痛くなって作務ができなくなっていた私が、皆が作務をしている時間に訳しました。そのために生まれて初めてタイプタイターの使い方を習いました。骨董品の重たいタイプライターでしたが、ある程度使えるようになりました。

日本に帰って翻訳の仕事を始め、アップルのマッキントッシュが初めて売り出された時に購入して、コンピューターで原稿をタイプできるようになったのは、この時の経験があったからでした。京都曹洞禅センターから出版された、英語訳の本は、日本でコンピューターを使って原稿を書き、手書きの原稿なしで、それをそのままディスケットから印刷した本としてはかなり早いものだったと思います。

ともあれ、私の三心寺住職の任期はあと2年弱で、これからは、月に1回法話をする予定ですので、話す機会はそれほど多くありません。できればそれまでにこの第8章を話し終わって、Opening the Hand of Thoughtを完結したいと願っております。

「生命の実物」は私が得度していただいた1970年ごろに執筆されたものです。その頃たくさん参禅に来ていた西洋の人たちにも分かるような坐禅の入門書を執筆しているといただいたお手紙に書かれていたのを思い出します。最初から英語に訳されることを想定して書かれたものです。最初の英語訳がApproach to Zenというタイトルで出版されたのは1973年でした。バレー禅堂にいたころ、英語の曹洞禅のテキストがあまりなく、私たちも英語で十分に仏法の話を出来なかったもので、この本をたくさん買って、坐禅にくる人に読んでもらいました。その後、絶版になったので、1981年に私がアメリカから京都に帰ってから、トム・ライトさんと訳し直したものです。ですので、私の坐禅の理解と実践は、得度してから今まで、ひとえにこの本に依っています。

三心寺住職から解放された後、どうするのかは、まだ明確な予定はありません。私個人としては、翻訳や著作や、残された体力と能力に見合った分だけ講義などをして、三心寺に骨を埋めたいと願っております。


2021年7月28日

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2021年6月

あれほど騒がしかった17年ゼミの声も先週あたりからパタリとなくなり、静けさが戻ってきました。苔庭の草取りをしながら、何百という抜け殻や遺体を箒で掃いてバケツに入れてコンポストの山に捨てました。それ以外の芝生のうえに落ちていたものは、芝刈りの時に刈り取られた草にまぎれて、どこに行ったのかきれいになくなりました。あれだけ大量に発生したものが、後も残さずに消えてしまうのは、見事なものだと思います。十七年後にまた発生する子孫を残して、その遺体も土壌を肥やすのに役立てて、自分たちは跡形もなく消えていく、生命の営みの潔さに感動を覚えました。

私たちもそうありたいものですが、人間の文明は自然に対してはヤラズブッタクリのように見えます。秋山洞禅さんから、17年ゼミについてのNHKのニュースのDVDをおくっていただきましたが、それによると、気候変動が原因で17年ゼミのなかで、17年より何年か前に成虫になるものが出てきているのだそうです。地球温暖化が人間の営みにによって引き起こされているものならば、セミたちが何万年、あるいはそれ以上の時間をかけて作ってきた生き残りの戦略を狂わせてしまうのは、地球上に生息する同じ生き物としては、正常な生命活動ではないと思います。

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17年ゼミに代わって、夕方には蛍が見えるようになりました。境内の小さな草原には、昔からこの辺りにあった様々な植物が成長し花をつけ始めました。蜂やその他の昆虫が蜜を集めに来ています。当たり前の自然の共生の姿ですが、これがいつまでも続くのかどうか心配にもなってきます。

ワクチンの摂取が進んで、YMCAでマスクをつけなくても良くなったことは先月お知らせしました。それに伴って、再び多くの人たちが来るようになりました。特に、毎年夏休みに行われるサマーキャンプで、子供たちが沢山集まっていますが、マスクをつけている子は余りいません。また学校も休みになって、中学生や高校生たちがバスケットの練習にくるようになりました。今日YMCAに行くと、駐車場が一杯になっていました。人々が巣ごもりから解放されて、以前のような賑わいが戻りつつあります。

パンデミックでお寺が閉鎖されている間を利用して、半地下にある坐禅堂の改装が、ワーク・リーダー(直歳)の発心さんを中心にして行われています。釈尊をお祀りしている、仏壇が完成しました。これを内側に引くと、非常用の出口になります。坐禅堂の中の壁のペンキの塗り替えも行われています。(写真参照)

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最近の理事会のミーティングで、このままパンデミックが収束に向かうようであれば、8月の初旬から、ブルーミングトン在住の人たちのためのお寺での活動を再開することが決まりました。市外、州外、国外から人々が参加する接心やリトリートをいつから始めるかはまだ決まっていません。様子を見ることになります。できれば、2022年からは平常の活動が再開できるように願っています。

7月16日(金)から19日(日)には、ニューヨーク州にあるZen Mountain Monastery の金曜日から日曜日午前中までの週末リトリートでオンラインの講義をします。今回は「句中玄」の最初、「閑居偶作」2首、「山居」7首の9つの漢詩について話す予定で準備をしております。眼蔵会ではなくて、週末の短いリトリートでは、ここ数年、「道元禅師和歌集」で翻訳、解説したものを教材に使ってきました。大切なところがワンポイントで、簡潔に、そして美しく表現されていますので良い方法だと思っております。道元禅師の漢詩について話すのは今回が初めてですが、どのように受け取ってもらえるか楽しみにしております。

その次の週末、24日(土)には、イタリアのBuddhist Union主催のオンライン・セミナの一つとして、「道元禅師の清規」について1時間半の講義を行います。英語で話してイタリア語への通訳が入りますので、また質疑応答の入ると言うことですので、実際に話すのは1時間弱になるようです。

先月の通信で、宗務庁の宗典翻訳事業の「正法眼蔵」の英語訳が完成に近づいたので、日本語原文の校正をするように依頼されたことを書きましたが、あれから、毎日、朝食後の最初の1時間ほどは、1日に「道元禅師全集」のおよそ10ページを校正することを目標に進めています。校正作業をする場合には、意味を考えていると、誤字、脱字、句読点の違いなどに注意が行かず、見逃してしまいますので、意味を考えずに、ひたすら字面だけを追っていくようにしています。最初はこのような読み方は時間の無駄だと思って抵抗があったのですが、1月以上続けていると、こういう読み方にも意味があるように思えてきました。また、毎朝、この1時間が楽しみにもなってきました。翻訳をする場合や、眼蔵会の講義の準備をする場合には、一字、一句おろそかにせず、はっきりと理解ができているかどうかを確かめ、少しでも疑問があれば、註解書、参考書、英和、和英、漢和、仏教辞典などを引きまくって、1ページ読むのに1日かかることもあります。

そうではなくって、解るか解らないかということを気にしないで、とにかく毎日10ページ読むことを続けるのは、いわばグーグル・マップで世界地図のあちらこちらを俯瞰的に見ていくような楽しさがあります。一つの街の一つのブロックにある、通りや、公共施設、その他の建物を一つ一つ、シラミつぶしに確認していくような読み方も「正法眼蔵」の場合は必要ですが、海洋や山脈や平野や大きな河川などがどのようになっているのかを見るのも意味があるように思えてきました。現在「道元禅師全集」第1巻が終わり、第2巻に入ったところです。本文の校正が終わると、脚注に引用されている日本文の校正をすることになります。何しろ、原稿がレターサイズで2000ページ以上ありますので、先は遠いです。今年中にと言う依頼ですので、まだまだ先の長い話です。

先頃お知らせした、内山老師が「生命の実物」のなかで紹介された、カボチャの話を題材にしたSquabbling SquashesがWisdom社から6月22日に発行され、その見本が届きました。本文の作成には私も少し関わりましたし、表紙の絵も知っていましたが、中の絵をみるのは初めてでした。アメリカの人たちはよくできていると言ってくれるのですが、日本の人たちにお勧めするのはちょっと気が引けます。お寺の前に鳥居があったり、お坊さんたちの衣が、どう見ても日本のものには見えないのです。子供の絵本だから無国籍でも良いかと、納得しています。

この本が刊行された日が、ちょうど誕生日で73歳になりました。昨年に続いて、誰も来ない、家族だけの誕生日でした。メールや郵便でバースディ・カードを何人かの人たちからいただきました。73回目になると、それほどめでたくもありませんが、これまで大きな病気もせず、おおむね健康で生きてこられたこと、また、この年になっても、するべき仕事が与えられていることに感謝せずにはいられません。三心寺の住職を退任するまでに二年を切りました。体力や脳力の老化には歯止めがかかりませんので、今後どうなっていくのかはわかりませんが、1日1日その日できることを大切にして参りたいと願っております。


6月29日

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2021年5

 

 

2003年に三心寺の建築ができて、ブルーミングトンに移転して来た翌年、蝉の大群が発生して、あちこちの木の幹に、樹皮が見えなくなるほど張り付き、鳴き声も町中どこにいても聞けるほどで、驚きました。決まって17年ごとに大発生する、17年ゼミというのだと知りました。周期ゼミ、素数ゼミとも呼ばれていて、北アメリカ特有の蝉なのだそうです。「静けさや岩にしみ入る蝉の声」という芭蕉の俳句のワビ・サビの世界とは縁もゆかりもないただ圧倒的な騒音の世界でした。

 

あれから17年経った今年、5月の半ば頃から、庭のあちこちに、2、3センチの団子を半分に切ったのような土の盛り上がりができて、なんだろうかと不思議に思っていました。その半円球の土の塊をのけると、結構深そうな穴が空いていました。そして、4、5日前から、蝉の声が聞こえ始めました。木の幹だけではなく、草花の葉や茎にも取り付いて羽化した後が見えます。羽化するのは夜間ですので其の過程は見られませんが、朝見ると、まだ飛ぶ準備ができていないのか、抜け殻のそばに成虫がじっとしているのをみることができます。6月末まで、アメリカ東部、中部で数億匹の17年ゼミが発生するのだそうです。そのうち、掃いて捨てるほどのセミの死骸がそこら中に散乱するようになります。今朝、写真に取りましたので、添付いたします。

 

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17年間、地中に暮らし、地上に出て成虫になってからは、せいぜい2週間ほど、生殖活動をし、卵をうみつけるとすぐに死んでしまうのは、なぜなのか、17年ゼミの視点から見ると、地球環境や、生命のあり方がどのように見えているのか、興味があります。地中での生活がメインなので、陽の光もみず、地上の空気を吸わず、樹木の根から樹液を吸うだけで生きているのがどのような感じのものなのか、見当がつきません。それなりの喜びや、生き甲斐があるのでしょうか? 科学者の説のよると、天敵に遭いにくいように、13年とか、17年とか長い素数年の間隔をおいて、しかも一度に大量に発生すれば、いくら鳥やリスなどの動物に食べられても、何割かは生殖を完了することができるだろうという生き残り戦略なのだそうです。どの動物や植物にも害を及ぼすことのない昆虫としては、何か可哀想な戦略のように思います。

 

ともあれ、三心寺もあれから17年、無事に坐禅の道場として生息し続けることができました。20人ほどが得度を受け仏弟子になりました。10人以上の人が嗣法し、自分のサンガを持っている人たちもいます。三心禅コミュニティのネットワークもアメリカ、ヨーロッパに広がりました。日本人で出家得度を受ける人も出て来ました。それぞれは小さなグループにすぎませんが、大きな禅センターを作るよりも、小さなサンガの繋がりに重点を置いて来ました。何冊かの翻訳や著作も出版することができました。多数の人々のご支援のおかげでここまで、活動を続けられて来れたことに感謝せずにはおれません。しかし、次の17年後を考えると、おそらく私はもう生存していないでしょう。三心寺がどうなっているのかは、次の世代の人々におまかせするよりありません。

 

先月の三心通信で、昨年の臘八接心以来坐禅を休ませていただいていることを書いた部分に、「これほど長く坐禅を休むのは、バレー禅堂から日本に帰って清泰庵に入らせていただくまでの半年ほど、体が痛み、また坐禅をする場所もなかった時以来です。1981年でしたから40年ほども前のことです。」と書きましたが、間違いであることに気がつきました。1992年の7月に園部のお寺を出て、翌年の7月にミネアポリスに移転するまで、京都の修道院附属のお家におらせていただきましたが、その1年間は、小さなお家に家族4人でおりましたので、毎日坐禅をする場所はありませんでした。大津の山水庵で月に一度、日曜日に坐禅会をさせていただいたのが、唯一の坐る機会でした。謹んで訂正いたします。といっても、それも30年ほども前のことですが。

 

4月の末まで、私が通っているYMCAでは、入場者全員の体温を測り、コロナの症状がないかどうか確認していましたが、5月になってそれをしなくなりました。また、館内では運動中も必ずマスクを着用するようにとの張り紙がそこらじゅうに張り出してありましたが、先週からそれらも撤去され、マスクの着用をしなくても良くなりました。ビジターの数は、パンデミックが始まる前に比べるとまだ少数で、密になる危険は感じません。グループで毎日のようにバスケットボールの練習をしている人たちが戻って来ました。活気はありますが、歩行禅をしようとするには、騒々しくなったと感じてしまいます。私も、4月に2回、コロナのワクチンの摂種を受けました。ワクチンの接種がかなり進んで、この辺りでは、パンデミックの出口が見えて来たようにも思えます。しかし、規制が緩むと、揺り戻しがあるのでは無いかと心配にもなります。

 

5月13日から17日まで、5日間の眼蔵会がありました。講本は「正法眼蔵法性」と「十方」の両巻でした。今回は、私の講義を録画録音するためにアイオワ・シティから来てくれた人と、家内との2人だけが、禅堂にいました。Zoomによる配信もありませんでした。これから、録画したものをどのように人々に見てもらえるようにするかを決めます。

 

正法眼蔵法性」と「十方」の両巻は、1243年に道元禅師が越前に移転されて、吉峯寺滞在中に書かれた多くの巻の中で、「諸法実相」「無情説法」「仏経」などと同じ主題のもので、比較的短く、論点もはっきりしていますので、眼蔵の中では分かりやすいものだと思います。9回の講義で、2巻とも購読することができました。

 

宗務庁の宗典翻訳事業の「正法眼蔵」の英語訳が完成に近づいたので、原文の校正をするように依頼されました。原文と英語訳を対照し、詳しい注釈をつけた大部なものになるようです。春秋社版の「道元禅師全集」第1巻、第2巻(1991年、1993年刊行)と、英語原稿に打ち込んである原文とを比較する作業を始めています。1995年に始まった翻訳事業ですので、四半世紀をかけた大きな事業です。私もいささか関わったことのある事業ですので、早く完成するように願っておりました。これで、日本国外における「正法眼蔵」の研究は、格段に違ったレベルに達することになると思います。出版されるのはまだ2年ほど先だとのことです。

 

私の、長円寺本「随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳並びに解説とを一冊の本にする作業、Dogen Instituteから発行予定の、良寛詩についての本、などのブックプロジェクトも進んでおります。京都の安泰寺の頃からの友人のハワード・ラザリーニさんが英語訳に取り組んでいる内山老師の「観音経を味わう」も、翻訳第1稿ができて、訳文の見直しをされている所です。

 

面白くもおかしくもない日常の毎日の精進が歴史を作っているのだと感じています。

 

5月25日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

三心通信 2021年4月

四月は、三心寺の庭にも町の中にも様々な花が次から次へと交代で咲いては散り、咲いては散りして、Bloomington(花咲く町)という名前がふさわしくなる時季です。日本では桜が咲く時期に寒の戻りがあるのを「花冷え」と呼ぶそうですが、今年はこちらでもありました。およそ1週間ほど急に寒さが戻ってきて、再び暖房を入れることもありました。その寒さも肌寒い程度ではなく、夕方から雪が降り始め、翌朝には、地面や家の屋根、花の上にも雪が積もっていました。その日の午後には溶けてしまいましたけれども。三心寺ではありませんが、近くの街に住む知人が庭の写真を送ってくれましたので、添付いたします。花冷えが過ぎると本格的な春になり、今は白やピンクのドッグウッド(ハナミズキ)が満開です。木々に新しい葉も出そろい、すっかり新緑の候となりました。

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                                                                    ©Jakushin Russell Flynn

 

昨年の臘八接心が終わってからですから、すでに5ヶ月近く坐禅を休ませてもらっています。前にも書きましたように、デスクトップのコンピューターの前で一時間も動かずに仕事をしていると、椅子に当たる尻の骨の部分が痛くなり、動かずにはいられなくなります。そうなると、仕事机の上に小さなテーブルを置いて、その上にセットしてあるラップトップで立って仕事をします。立ち仕事もそれほど楽ではなく、しばらくして歩こうとすると膝に痛みを感じます。そうなると、そばに敷いてあるヨガマットのうえに横になって、ストッレッチをしたり、本を読んだりです。それからまたデスクトップに戻ります。そんなことをしていると、2、3時間が経ち、昼食の時間になります。なにしろ、身体をだましだまし使わなければならず、仕事をしようとするとまず休まなければならないという体たらくです。63歳で椅子座禅を始めてからほぼ10年、週日は毎日朝2時間の坐禅、仕事もほぼ椅子に座ったままでした。摂心中は1日に約12時間、経行の時外は椅子の上にじっとしていました。ほぼ毎日、YMCAにいって1時間以上歩き、ストレッチをするようにしてきましたが、70歳を過ぎてからは、椅子に長く座っているだけで痛みを感じ始めました。

パンデミックでお寺が閉鎖されている間は坐禅を休ませてもらって、再開されたら、75歳で住職から退任するまでは、たとえ摂心は無理でも、毎朝の坐禅、日曜日の参禅会だけは坐りたいと願っております。これほど長く坐禅を休むのは、バレー禅堂から日本に帰って清泰庵に入らせていただくまでの半年ほど、体が痛み、また坐禅をする場所もなかった時以来です。1981年でしたから40年ほども前のことです

私は、内山老師のように坐禅ができない時には、「南無観世音菩薩」の称名でいくと言うことができませんので、ほぼ毎日、YMCAに行って歩くことが坐禅の代わりだと思っています。坐禅を始める前の子供の頃から、歩くことが好きでした。高校生のころ、休日にはよく、北摂や京都の山の中を一日中歩いていました。ブルーミントンに移ってから10年ほど、膝が痛くなるまでは、毎年秋の紅葉の頃にノースカロライナ州の山の中、アパラチアン・トレイルでウォーキング・メディテーション(歩行禅)のリトリートをしていたこともあります。アパラチアン・トレイルというのは、ニューイングランドメイン州から南部のジョージア州まで14州にまたがるおよそ3,500㎞の自然歩道です。リトリートの時に泊めてもらったのはトレイルを歩くハイカーたちの宿泊所でしたので、全行程を歩いた人たちに何人か会いました。踏破するのには少なくとも3ヶ月はかかるとのことでした。

YMCAのジムの中は、普通の時は毎日のように何組もの人々がバスケットボールの練習をしていて、目まぐるしく喧しいのですが、パンデミックになってから、YMCAにはあまり人が来なくて、いつも空いています。それほど気を散らさないで、速度は普通の歩行ですが、坐禅堂の中で経行をするようなつもりで歩いています。

三月の後半以降は、五月の眼蔵会の準備に集中してきました。昨年の3回の眼蔵会はZoomを通じて聴講のひとたちに同時に聞いてもらっていましたが、今回は、それを可能にするための様々な役割のひとたちの全体の動きをコーディネイトする人が都合でできなくなりました。中止になる可能性もあったのですが、なんとか、録画だけでもして、後から何らかの方法で人々に聞いてもらえるようにしたいとの私の願いを聞いてもらって、5月13日から17日まで、一人だけ三心寺の禅堂にきてもらって、私の講義を録画してもらうことになりました。講本は「正法眼蔵法性」と「十方」の両巻です。両方とも比較的短く、主題も近いものですので、5日間で話終えることができるであろうと楽観しております。両巻とも「現成公按」、「諸法実相」についてと同じことを法(現成、諸法、這裏)と法性(公按、実相、十方)の、修行・実践を通して表現される不一不二の関係を論じられているのだと理解しています。

長円寺本「随聞記」の英訳と「道元禅師和歌集」の英訳並びに解説とを一冊の本にするプロジェクトは現在、私の弟子でエディティングを担当してくれているDoju Layton(随聞記)とShoryu Bradley(和歌集)がWisdom社の編集者と最後の編集作業をしてくれています。今年中には出版できるように願っています。

Dogen Instituteから発行予定の、私の良寛詩についての講義と洞燃O’Connor師の良寛が住んだ越後を訪問した感想を綴った随筆、およびその時の写真、またO’Connor師のお弟子さんの絵画作品を一緒にしたRyokan Interpretedは現在、副住職の法光がブックデザインをしているところです。もうすぐ出来上がるはずです。

宮川敬之さんが日本語に訳してくださっているRealizing Genjokoanももう直ぐ出版社に提出する最終稿ができるとのことです。また、これは数年前に書いた物ですが、When Thinking Is Problemと題した論文集に寄稿したものも編集作業中ということです。

するべきこと、しておきたいことは沢山ありますが、薬山禅師が言われたように、「蔭蔭拳拳、羸羸垂垂、百醜千拙、(よぼよぼ、へなへな、へまばかり)」の方向に一方通行、とりあえず今日できることをしておくことしかないようです。


4月28日

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2021年3月

YMCAに行く道から見えるあちらこちらの家や保育園の庭に水仙の花が今を盛りと咲いています。外を歩くのにもジャッケットは必要なく、天気の良い日には薄着でも汗をかくようになりました。木々に新芽がでて、点々と緑が見えてきました。三心寺の庭の桜の花も咲き出し、苔庭にも小さな雑草がそこら中に芽を出し始めました。毎年と同じように草取りを始めなければ、苔庭とは思えなくなってしまいます。お彼岸も過ぎましたので当たり前のことなのですが、近年は「異常なのが当たり前」のような感じがしていますので、普通のことが普通に起こるだけで、ホッとするようになりました。

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苔庭の草取りは、以前なら何時間かかっても1日で終わっていた仕事ですが、膝や腰をかがめてする仕事は15分程度が限界になり、草取り作務でさえ億劫になりました。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」いう漢詩の言葉を思い出しております。外でする作務だけではなく、椅子に坐ってコンピュータに向かって仕事をするのでさえ、一時間以上同じ姿勢でいることが難しくなりました。立ったり、座ったり、横になったりをくりかえしております。「応に憐むべし、半死の白頭翁」。まだ「半死」と言うには修行がたりませんが、この言葉が実感になりつつあります。

昨年、3月16日にヨーロッパから帰ったその日から、三心寺は閉鎖になりました。すでに1年以上が経ちました。最初の3ヶ月は、オンラインで副住職の法光と何人かの人々が中心になって行っている朝の坐禅と朝課、毎週の坐禅会や勉強会の活動とは別に、一人で坐禅堂で坐り、朝課も一人でしました。その後は、坐禅堂もZOOMでつながって、自宅で坐る他の人たちとも一緒に坐り、朝課をしました。昨年の臘八接心までは、そのように坐禅を続けていました。そのあと、椅子に坐るときに、椅子の表面に当たる部分と足の付け根の部分が痛くなり、坐禅は休んでおります。椅子に坐るのを始めたのは、63歳になった時ですので、すでに10年近く椅子坐禅を続けております。毎日の坐禅や摂心で坐るだけでなく、毎日数時間机の前で仕事をする時も同じ姿勢でじっとしておりますので、尻から腰、足の付け根辺りに負担がかかっているのでしょう。

宮川敬之さんが日本語訳を作っておられる拙著Realizing Genjokoan (「『現成公按』を現成する」)の日本語版前書きに、「生命の実物」という言葉について書く準備として、内山老師の著作、1965年発行の「自己」から1972年発行の「生命の働き」までの9冊の本と1975年の「現成公按意解」、1987年の「現成公按を味わう」を、「生命の実物」という表現に絞って読み直してみました。英語の拙著にReality, あるいはrealityという言葉を300回以上使っていて、それらの多くを「生命実物」と訳していただいているからです。老師の「生命実物」と云う表現は、もともとは、「随聞記」の「坐禅は自己の正体なり」を説明するために長年にわたって、考察された結果だったのだと思います。1965年の「自己」はそれ以前に書かれた文章を集めたものですが、「生命の実物」という表現はまだ使われていません。むしろ、「随聞記」の「坐禅は自己の正体なり」の「自己の正体」を現代語でいかに表現するか苦労されています。「思い以上の私」という表現が使われています。

1965年12月に沢木老師が遷化されて、安泰寺の堂頭になられてすぐに、安泰寺で修行する坐禅を示すために書れた「正しい坐禅のすすめ:ほんとうのホトケさまをする仕方」という小冊子にはじめて、「自己の正体」の現代的表現として「自己の実物」、「現在実物」、「実物としての自己」、「完結した自己」、「生命の自己」、「自己ぎりの自己」、「自己の生命の実物」などの表現の一つとして初めて使われています。

その後も思索を続けられ、1971年の「生命の実物」で「生命の実物」の定義をされました。「生命の実物」という表現が老師の基本的用語となり、縦横無尽に使われるようになるのはこの「生命の実物」執筆以降です。1987年の「現成公按を味わう」では、「生命の実物」ではなく、「生命実物」と四字熟語としておよそ150回以上使われます。

老師は、宗門の人たちが「仏法」という言葉に慣れすぎてしまって、すでにわかっているように思い、意味を吟味しないで、符牒のように使うようになったと批判されています。それと同じように、老師の学人としては、正確な意味を考えないで、不用意に「生命実物」という表現を使うようになる危険性が出てきたと思います。私のRealityの使用法はその弊害を示しているのではないかと愕然としました。老師が伝統的仏教用語で、「生命実物」と同じとされている真如、法性、法身、等の用語の表現や説明が英語では、確立していないのと、私の英語の語彙力の貧弱さによって、Reality、reality をやたらに使いすぎているように思います。老師が、長年かかって、厳密な考察によって確立された「生命の実物」、「生命実物」という表現の意味が水増しされて、意味が広くなりすぎ、結局何の意味もない言葉として使っているのではないかと心配になりました。

Dogen Instituteのウェブサイトに「句中玄」の順番で道元禅師の漢詩の解説というか感想を毎月連載しています。「永平広録」第10巻、偈頌の部分の最初の50頌は1226年から1227年に日本に帰られるまで、天童山で修行されている頃の漢詩です。今月まで「句中玄」でいうと35番目から39番目の5つの漢詩について書きました。35、36番は、観音の霊場である補陀洛迦山に参詣された時のもの、37番から39番は、中国人の在家参禅者であろう役人と詩の交換をされたものです。

これらの漢詩の意味を考えていて、気がついたのは、道元禅師のこれら50の漢詩は、道元禅師の伝記にも、道元禅師の著作や思想についての研究にもほとんど注目されていなかったのではないかということでした。私自身もこれらの漢詩について勉強しようなどとはこれまで思ったこともありませんでした。著作や思想としては「普勧坐禅儀」が最初のものとされてきたと思います。面山師によって「句中玄」に選ばれた3種の漢詩はどれも三教一致の思想を積極的に主張しているとは云えないまでも、少なくとも否定はしていないように見えます。また天童山に出入りしていたであろう、士大夫たちとも詩の交換などの交流をされています。三教一致を否定して基本的に儒者である士大夫の人たちと親しむことは不可能だったでしょう。1225年に明全和尚が亡くなって以後、「随聞記」にも語られているような道心を持った同参の修行僧たちとともに厳しい坐禅修行に専念し、如浄禅師との仏法や修行について個人的な参学を許されて、1226年はおそらく道元禅師にとっては非常に充実した時期であったでしょう。

「辧道話」には「大宋国には、いまのよの国王大臣・士俗男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。武門・文家、いづれも参禅学道をこころざせり。こころざすもの、かならず心地を開明することおほし。これ世務の、仏法をさまたげざる、おのづからしられたり」と書かれています。また「永平広録」巻8、法語1、には「予は亦た山林を希わず、人里を辞すること無し。、、、如かず、鄽市街頭に游んで、以て名相の閫域を超えんには」とあります。興聖寺を開かれる頃には、如浄禅師会下の天童山のような道場を創ることを理想とされていたのではないでしょうか。深草から越前に移転される頃には、在家人の得道や三教一致思想も厳しく批判されるようになりますけれども。


3月28日

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2021年1月

 

 

一昨日まで10日ほど、寒波が続き、ブルーミントンでも最高気温が0℃に達しない真冬日が続きました。一番寒い日は最低気温マイナス17℃、最高気温がマイナス5℃でした。毎年のように大雪が降る北東部だけではなく、今回は雪が滅多に降らないテキサスのような南部でも雪や氷嵐(ice storm:すべてのものに氷を付着させる冷たい雨を伴った嵐)の被害があって、驚きのニュースでした。広範囲で停電し、水道も何日間か止まったとのことです。夏の暑さや風水害だけでなく、冬の天気も変化しつつあるようです。昨日午後には久しぶりに氷点を越える暖かい日になり、雪もかなり溶けました。

 

寒波のせいで、1週間ほどYMCAにも行かず、お寺に閉じこもっていました。曹洞宗のお坊さん四人が2018年、2019年と2年続けて日本から、三心寺の眼蔵会に参加されました。二度とも眼蔵会の始まる前の日に日本から到着して、終わるととんぼ返りという強行日程で驚きました。その中の一人の宮川敬之さんが、拙著Realizing Genjokoanを日本語に訳しておられます。この度、その第1稿ができて、送っていただきました。全部を読み、できるだけ手直しをさせていただきました。その過程で、自分の不注意の間違いや、あやふやな表現がいくつも見つかりがっかりしました。しかし、日本語訳が出版されてから、読者から指摘されるよりも、その前に自分で見つけられたことが救いです。

 

その一つは、内山老師が「自己」(1965)、「現代文明と坐禅」(1967)「生命の実物」(1971)などで引用されているダンマパダの第160偈、「自己の依りどころは自己のみなり」、という仏教全体としても最もよく知られている言葉です。高校生の時に「自己」を読み、ダンマパダのこの言葉はこうなのだと頭に刷り込まれていました。仏教の勉強を始めてから、パーリ語からの日本語訳も英語訳もほとんど、「依りどころ」ではなく、「主、master」だということは知っていましたが、頭の中では、内山老師の「依りどころ」で一貫していました。Realizing Genjokoanを執筆した時にも、当然のようにこの言葉を引用する時には、「自己の依りどころは自己のみなり」を英語に訳して、Self is the only foundation of the Self.と訳しました。その上で、これは日本語訳や英語訳とは違うので、内山老師は漢訳を使われたのだろうと想定し、註にそのように書きました。

 

今回、宮川師から、漢訳の典拠が確定できないといわれて、老師は典拠としてどの訳を使われたのだろうということが初めて疑問になりました。「法句経」の漢訳など自分でも読んだこともないことにも気が付きました。一度頭に刷り込まれてしまったことには、疑問を持つことさえ難しい事を思い知らされました。こちらでは調べようがないので困惑しましたが、宮川師の調べで、「南伝大蔵経」にその訳があると判明しました。また、内山老師が「大正新脩大蔵経」を見られていたこともわかりました。そう言えば、安泰寺の図書室のガラス戸のついた本棚に沢木老師が施本として作られた正法眼蔵のいくつかの巻の冊子などと共に「南伝大蔵経」も「大正新脩大蔵経」もあったことを思い出しました。他の場所には「国訳一切経」もありました。安泰寺に入ってからは、なるべく本は読まないと決めて、自分の本も東京から送った段ボールのまま押し入れに突っ込んだままにしていた私は、全く興味がなく、それらを読もうとしたことも、手にとってみたことも一度もありませんでした。ほかの人たちが読んでいるのを見た記憶もありません。紫竹林学堂の頃からの備品だったのかなと思った程度でした。内山老師がそれらを読まれていたことに思いが至りませんでした。著書や提唱の中ではおくびにも出されませんでしたが、老師が綿密な研究をされていたことと、自分の杜撰さに初めて気が付きました。

 

この寒波で閉じこもっていたおかげで、翻訳の第一稿をなんとか最初から最後まで読ませていただくことができました。完成原稿までまだいくらか時間がかかると思います。日本で出版ができるように願っております。宮川師がお忙しいなかで、時間をかけて訳していただいたことに感謝しております。

 

長円寺本「正法眼蔵随聞記」の英語訳と「道元禅師和歌集」の翻訳と解説とを一つの本にするというプロジェクトは既にWisdom社との契約が終わっていましたが、ようやく編集作業が動きはじめました。同社の編集者との実際のやりとりは「随聞記」は道樹・レイトンが、「和歌集」は正龍・ブラッドレイがしてくれるのですが、何か問題があれば私が決めなければならないことも出てくると思います。そのために、帰ってきた原稿を一度読み返さなければなりません。2冊分の原稿を続けて読むということも、パンデミックの閑居中だからこそできるのかもしれません。

 

30年以上前に面山本「随聞記」の英語訳を刊行した時、奈良康明先生から長円寺本の訳でないのが残念だと言われて以来、長円寺本の英訳をやってみたいと思っていました。当時は、面山本と長円寺本と、巻目の順序が違っていること、古い文字づかいが保存されているくらいは知っていましたが、両本の意味の違いを英語で表現出来る自信がなかったもので、それまで読み慣れていた、また意味も理解しやすい岩波文庫本を底本にしました。今回の長円寺本の翻訳は、前の訳をなるべく見ないで、少しずつ三心寺の週一回の勉強会のテキストとして初稿を作り、私が意味を説明した後、勉強会の出席者から、理解できる英語にするようにアドヴァイスしてもらったものをまとめたものです。3年間ほどかかったと思います。今回は、日本語長円寺本との対訳になります。

 

道元禅師和歌集」は、「長月の紅葉の上に雪ふりぬ、見ん人誰か、歌をよまざらん」から、タイトルを、White Snow on Bright Leavesとしました。これは、三心禅コミュニティのニュースレターに短い解説をつけて連載したものです。これまで、全和歌の英語訳は、私の知る限りでは、2つありましたが、翻訳だけで解説はありませんでしたので、ユニークな本になると思います。連載が終わってからも、ピッツバーグのスティル・ポイント・サンガのリトリートの際、何年間か、和歌をテキストにして講義をしました。「正法眼蔵」のように難しい文ではなく、短いので、道元禅師の教えを味わう教材としてはいいものだと思います。

 

三月の声を聞くと、水仙やクロッカスの花が咲き始めます。

何人かの知人から、コロナのワクチンを接種したとの連絡がありました。ワクチンが効力を発揮して、人々が早く普通の生活ができるように願っております。

 

2月22日

 

奥村正博 九拝

 

三心通信 2021年1月

 

昨年の冬もそうだったと思いますが、比較的暖かで、穏やかな日が続いています。最高気温が0℃に届かないような厳しい寒さはまだありません。雪が降っても地面をうっすらと白くする程度で、午後になれば陽が当たる部分は消えてしまいます。冬になっても、地中のモグラの活動は活発で、苔庭はそこら中がデコボコになっています。

 

11月3日の大統領選挙の日から1月20日の新大統領の就任式の日まで、アメリカのメディアは前大統領に振り回されていました。特に1月6日のトランプ支持者による議事堂占拠のあとは、無事に就任式が挙行できるかどうか大騒ぎでした。首都は厳戒体制で一般の人々は新しい大統領の就任を祝いたくても会場には近づけない状態でした。ともあれ、就任式が無事におこなわれて、ようやくパンデミックや経済の立て直しの方に人々の目が移ったようです。

 

先日、西海岸に住む知人から、コロナのワクチンの第1回の接種を受けたと知らせてきました。ワクチンが効力を発揮して、コロナ禍が収束し、普通の生活が早く戻ってくるように願わざるを得ません。三心寺も、昨年3月から閉鎖になり、少なくとも今年の6月まではこの状態が続きます。それ以降、平常のお寺の活動に戻れるのかどうかは、現時点では不透明です。副住職の法光と数名の人々が中心になってオンラインでの坐禅法話、勉強会、接心などを行っています。オンラインだと、普段の坐禅などの活動にも遠隔地の人々も参加が可能になりました。これは、おそらくパンデミックが収束してからも続くことになりそうです。

 

昨年の3月以来の私の活動は5月、8月、11月の眼蔵会のみでした。三心寺で行う眼蔵会では、施設の限界があって22人しか受け入れられません。それで何回かブルーミントン市内にあるTMBCC(Tibetan Mongolian Buddhist Culture Center)の施設をお借りして眼蔵会を行いましたが、約50名が限界でした。オンラインの場合、講義を聞いてくれる人たちとの直接の触れ合いがなく、話していても人々の反応が見えませんので、物足りない点はありますが、より多くの人々に話を聞いてもらうことができることは確かです。5月の眼蔵会は約90名、8月は約130名、11月は80名ほどの参加者がありました。アメリカ国内だけでなく、ヨーロッパ、南アメリカ、日本から参加していただいた人々もありました。

 

ともあれ、眼蔵会は2023年に三心寺住職を辞任する時点で終わりにするつもりです。「正法眼蔵」について英語で、5日間、1日に90分の講義を2回するのは体力的、脳力的に限界に近づいています。それ以降は、もし余力があれば、もうすこし緩やかな日程で、「正法眼蔵」だけではなく、他のテキストについても一緒に参究できるような会を続けたいと願っております。

 

昨年末に内山老師が1975年の2月、安泰寺から引退される際にされた提唱の日本語原文「求道者」(柏樹社刊「求道」、大法輪閣刊「禅からのアドバイス」に収録)と Opening the Hand of Thought の最後に収録されている英語訳を対照して、写経のつもりでコンピューターに入力しました。先月の三心通信に書きましたように、2006年からこの本をテキストにして日曜日の法話に毎回ほぼ一段落ずつ話してきました。14年経って230回以上話し、全8章のうちの第7章がほぼ終わるところまでたどり着きました。最後の第8章が「求道者Wayseeker」です。わたしが住職を辞めるまで、あと2年半ほどありますが、この第8章をその間に完了したいと願っております。

 

この本は老師の「生命の実物」と「現代文明と坐禅」を中心とし、「求道者」と老師が主に外国人を対象として話をされ、トム・ライトさんが通訳されたものを成文化したものを付け加えて一冊の本としたものです。「求道者Wayseeker」は私がバレー禅堂にいた頃に訳したものが初稿になりました。老師が話された7項目が英語に訳され、バレー禅堂の入り口のドアのそばの壁に額に入れてかけてありました。坐禅に来る人たちが項目だけではなく、実際に老師がそれらの項目についてどのようなことを話されたのか知りたいという要望にこたえて訳したものです。その訳の中で、老師の「オモイの手放し」という言葉をわたしは直訳してOpening the Hand of Thoughtとしました。しかし、一緒にこの本の翻訳の仕事をしたトムさんも、これは英語ではないと反対でした。それは本当ですが、私は、これまでの英語にはない思想を表現するのには、今までになかった英語表現にするのも仕方がないのではないかと思っていました。また日本語の味わいのようなものも残したいと思っていました。内山老師が、何年も坐禅した挙句に作り出された表現をletting go of thoughtという当たり前の英語に訳すると、内山老師が苦労して既成の仏教語では伝わらないことを表現しようとされた意図と努力、日本語での「アタマの手放し」という表現のユニークさが伝わらないと思いました。それで、トムさんにお願いして、The Wayseekerにだけは“Opening the Hand of Thought”を使わせてもらいました。それがどういうわけか本のタイトルになったのでした。私にとってはそういう思い出のある翻訳です。

 

その最後の提唱をされてすぐに老師は安泰寺を去られ岐阜県大垣市に移転されました。私も安泰寺を出て瑞応寺僧堂に半年間安居し、その年の12月に渡米しました。数週間カリフォルニアに滞在した後、数人でアメリカ大陸を自動車で横断して次の年の1月にバレー禅堂にたどり着いたのでした。それ以降、現在まで、この7項目を老師の遺言として心に刻んでまいりました。ですので、私の三心寺での法話をこの老師の最後の提唱で締めくくるのはふさわしいのでないかと思います。

 

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今日は1日雪が降りました。積雪は2、3センチですが、今年初めて白銀の世界になりました。午後には、雪の中YMCAまで歩いて行きました。

 1月27日

 

奥村正博 九拝

 追伸:今朝はマイナス六℃まで温度が下がり、最高気温もマイナス一℃とのことです。はじめての真冬日です。 1/28