三心通信 2021年9月

 

f:id:sanshintsushin:20210928213906j:plain


お彼岸も過ぎ、朝夕は冷んやりと感じるようになりました。境内の小さな草原には昨年も紹介した、snakeroot(丸葉藤袴)と goldenrod(背高泡立草)が今を盛りと咲いています。夏の間、鹿たちの毛は、明るい茶色でしたが、秋になって灰色がかった暗い茶色になりました。まだ大部分緑ですが、気の早い木々の黄葉、落葉も始まっています。

f:id:sanshintsushin:20210928214003j:plain

 

今年は中秋の名月が八年ぶりに満月だったとのことが報道されていました。中秋の名月が満月とは限らないということが初めて理解できました。旧暦の8月15日、16日、あるいは17日に満月になる可能性があるのだそうです。「永平広録」によると、道元禅師は中秋の日に上堂されていました。1240年から1252年までの13年間に9回の中秋上堂が記録されています。記録されていない4年のうち、1243、44年は越前移転以後、大仏寺での安居が始まる以前で上堂ができなかった時期です。1247年は鎌倉に行かれていた年です。

第10巻の偈頌81から86までは、8月15日から17日までの3日間、おそらく2年間にわたって会下の僧たちと共に、如浄禅師の中秋の上堂を9句に分けて、一年目には最初の3句、次の年には4句目から6句目までについて、ご自分の偈頌を作られています。道元禅師だけではなく、僧衆たちも偈を作ったのでしょうか? 中秋(十五夜)、十六夜、十七夜と満月の可能性があるとすれば、3日間、月見の詩の会を続けられたことも分るような気がします。しかし、9句完結するはずの3回目は記録されていません。

1252年、最後の中秋上堂(521)はかなりの長文で、力を込めて示衆しておられるように感じます。それからあとは10回の上堂があり、おそらく、同年の臘八上堂(506)が最後の示衆だったのだと思われます。翌月、1253年の1月6日には「八大人覚」を執筆されましたが、その時にはこれが最後の著作だと自覚しておられたのでしょう。とすれば、中秋の日の僧たちとの詩会が2回だけしかなく、未完に終わっているのは、1253年の中秋の日には永平寺にはおられなかったからではないでしょうか。つまり、初めての中秋の詩会は1251年、2回目は1252年に行われたのではないかと想像します。

「建撕記」によると、1253年のその日に、「御入滅之年八月十五日夜、御詠歌に云」の前書きがある和歌を作っておられます。

 又見んと 思ひし時の 秋だにも 今夜の月に ねられやはする

今年は中秋が満月だとのニュースを読んで、晩年の道元禅師のことについて想像をたくましくしました。何も資料がないので、単なる推測に過ぎません。もしもそうだとすれば、100巻の「正法眼蔵」の構想が未完に終わったこととともに、如浄禅師の中秋上堂についての偈頌が完結しなかったことも残念に思われていたことでしょう。それにしても、現在の私よりも20歳も若くして亡くなられたことを今更ですが、残念に思います。もしもあと20年長く生きておられたら、宗門の歴史がどう変わっていたかは想像することもできませんが。

宗務庁版英訳「正法眼蔵」本文の校正は8月末に完了し、現在訳注にある日本文の校正をしています。毎朝、最初の1時間ほどをこの仕事にあてています。現在、春秋社版「道元禅師全集」第1巻の半分強が終わったところです。今年中にということですが、完了できるかどうか自信がありません。

拙著、Realizing Genjokoanの日本語訳、「現成公按」を現成する:「正法眼蔵」を開く鍵、がもうすぐ春秋社から刊行されます。訳者の宮川敬之さん、有益なアドバイスをいただいた鈴木龍太郎さんに厚く御礼を申し上げます。

11月の眼蔵会の講本として「正法眼蔵梅華」の翻訳を作りました。第1稿としてつくったものを、聖元・Hartkemyerさんに添削してもらいました。聖元さんは、何十年も前にフランスで弟子丸泰仙師に得度を受けた人です。語学の専門家で長年学校の先生をしていましたが、先年引退しました。三心寺ではもう15年ほど、静かに坐ることと、仏法の参究だけを地道に続けています。僧籍登録とか、嗣法とか、教師資格には全く興味がない人です。アメリカに来て出会った本物の坐禅人のうちの一人です。

 

f:id:sanshintsushin:20210928214039j:plain

良寛さんの漢詩について書いた、Ryokan Interpretedも編集作業は完了し、10月に予定している刊行を待つばかりです。これは出版社からではなく、Dogen Instituteからの自己出版です。19日の日曜日に、ミネアポリスミネソタメディテーション・センターと三心寺との両方を結んで、オンラインの法話をしました。出版間近ですので、この本を紹介し、時期は不明ですが五合庵で書かれたとおぼしい漢詩一首について話しました。その当時の托鉢と坐禅の生活を転描したものだと思います。

 荒村乞食了(荒村、乞食を了わり)
 帰来緑岩辺(帰り来る、緑岩の辺)
 夕日隠西峰(夕日、西峰に隠れ)
 淡月照前川(淡月、前川を照らす)    
 洗足上石上(洗足して、石上に上り)
 焚香此安禅(香を焚いて、此に安禅す)
 我亦僧伽子(我も亦た僧伽の子)
 豈空流年渡(豈に空しく流年を渡らんや)
 (私訳)
 Finished with begging in a desolate village,
 I return to my hermitage with its mossy green rock.
 As the evening sun sets behind the western ridge,
 The pale moon is reflected in the stream before my hut.
 I wash my feet and ascend the rock,
 Burn incense, and sit peacefully in zazen.
 Also a child of the sangha,
 How can I spend the passing years in vain?

 

1981年にバレー禅堂から京都に戻って、旧安泰寺の近くの清泰庵で留守番をさせていただいていた3年間、最低限の生活を支えるために月に2、3回の托鉢をしておりました。托鉢が終わって、清泰庵に帰って、足を洗い、一人で坐禅したことが何回もありましたので、その頃から心に残っている漢詩です。山中の小庵にただ一人、住んでいた間も、自分は僧伽の子だと自覚されていたことを明確にされています。日没後の、しかしまだ明るい情景の描写は、「回光返照」という道元禅師の坐禅そのものの提示だということを話しました。

MZMCから法話を依頼されたのは、来年に、創立50周年を迎えるからです。私が日本からミネアポリスに移転した1993年に20周年がありました。あれからすでに30年近くがたってしまいました。今回の法話の準備をしている間に、創立者の片桐大忍老師が、1972年、ミネアポリスに移転される年の春頃、御家族とともに安泰寺に内山老師を訪問された折に、お会いしていることを思い出しました。私が大学を卒業して安泰寺に安居し始めた頃でした。つまり50年近く前のことです。その次には、バレー禅堂にいて、友人を訪ねてボストンに行ったおり、たまたま片桐老師がボストンのシャンバラというチベット仏教のセンターで公開の講演をされました。御講話を聞いた後、お部屋に伺って、少し話をしました。宝鏡寺を建立する予定の広大な土地を買収して、これから僧堂を建立するという構想を話しておられました。1978年だったかと思います。歳をとって、自分の思い出もすでに歴史の1ページになってしまっているように感じています。

 

f:id:sanshintsushin:20210928214018j:plain

Ryokan Interpreted と長円寺本随聞記の英訳と道元禅師和歌集の英訳と解説とを一冊の本にした、Dogen’s Shobogenzo Zuimonki: the New Annotated Edition; also Included Dogen’s Waka Poetry with Commentary はすでにAmazonで紹介されています。その表紙の写真を添付します。

 


2021年9月25日

奥村正博 九拝