三心通信 2019年10月

 

日本では、台風の水害で多大な被害が出たとのこと、お見舞いを申し上げます。被災された人々の生活が早く元に戻るように願っております。

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当地では今年の秋もたけなわをやや過ぎた感じです。気温が下がったのと、昨日強い風を伴った雨が降って、大量の落葉がありました。添付した写真でご覧の通り、苔庭の苔が見えなくなるほど、いろんな色の落ち葉が地面を覆っています。「地に敷く錦」という感じです。これから境内の落ち葉掃きが大変です。

 

10月は、11月6日から始まる眼蔵会の準備に専念するために朝の坐禅も免除してもらっています。先月の通信にも書きましたが、今回は「説心説性」の巻を参究します。深草興聖寺を捨てて、越前に移転され、まだ新しい寺院もなく、吉峯寺や禅師峯で仮住まいをされていた頃に書かれたものです。示衆の日時は書かれてありませんが、75巻本では、先回、5月の眼蔵会で参究した第41巻「三界唯心」に続く第42巻になっています。大慧宗杲禅師を批判されるはじめての巻ですので、「説心説性」の巻の本文に入る前に、宋代の禅宗、特に大慧宗杲の看話禅と宏智正覚や真歇清了の黙照禅との対論、その歴史的背景の勉強から準備を始めました。およそ1ヶ月それに集中したのですが、本文の勉強を始めてから、それは徒労だったと悟りました。

 

大慧禅師が批判した「説心説性」している人たちというのは、曹洞宗で黙照禅の修行をしてい人たちではないように思えるからです。石井修道先生は「宋代禅宗史」に大慧禅師の「普説」を引いておられます。「学人を静坐させる者は、それゆえに悟門を説かない。さらに心と説き性ととく者も、悟門を説かないし、、、、」以下、5種類の人たちを揚げて、その人たちは悟り経験の必要性を説かないと批判しているのですが、最初の静坐させる人というのは黙照禅の指導者達だということは明白ですが、それと第2類の人たちとは別のグループだと思われます。「説心説性」のなかで道元禅師は大慧禅師の「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり」、という言葉を取り上げて批判されるのですが、黙照禅の修行者が得道するために、「説心説性をこのむ」ということはあり得ないことでしょう。黙して坐れば、それがそのまま照(証、「性」の発現)と信じて坐っている人たちが「心」とは何か、「性」とは何かと議論する必要はないからです。

 

もう一つは、よく言われることですが、ここでの大慧禅師の説心説性を批判する言葉は、道元禅師が以前に自分の文章の中で言われていたのとほとんど同じなのです。例えば、「学道用心集」(6)参禅可知事に、「首楞巌経」の文を引用して以下のように言われます。

「釈迦老子云、観音入流亡所知。即之意也。動静二相了然不生、即之調也。」

 

また同書(8)「禅僧行履事」にも趙州無字の公案を引いて、

趙州僧問、狗子還有仏性也無、趙州云、無。於無字上擬量得麼、擁滞得麼、全無巴鼻。請試撤手、且撒手看。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何。看来看去、自然動静二相了然不生。此不生時、不是頑然、無人証之、迷之惟多。参学人、且半途始得、全途莫辞。祈祷祈祷。

 

永平広録第1巻「上堂96」、同じく第8巻の法語5、11にも、説心説性を否定する言葉があります。1240年に書かれた「山水経」でも、「見性」と並んで「説心説性」が否定されています。

 

国際禅学研究所の「研究報告第3冊」での、松岡由香子さんのご指摘によると、「二相不生」ということを大慧禅師は言ったことがないとのことです。「もしかりに二相不生という表現あるいは内実があやまりなら、道元自身が自己批判すべきではなかろうか。、、、『説心説性』での大慧批判は、道元の勝手な思い込みというほかない。」「まず、確認すべきは、道元のこの大慧批判は、すでにあきらかにしたように事実の錯認であるということだ。」というお言葉にもうなずけるものがあります。

 

大慧禅師が黙照禅を攻撃しているのではないのに、道元禅師はどうして大慧の「説心説性」に対する批判説を批判しなければならなかったのか?今でもよく分かりません。あと十日足らずで眼蔵会が始まるのに、どうすればいいのか、思案に暮れています。

 

もう一つ気がついたのは、この巻に取り上げられる、洞山と僧密師伯との説心説性の問答も、達磨と二祖慧可の問答も、「祖堂集」(952)や「景徳伝燈録」(1004)などの古い灯史には存在せず、「宗門統要集」(1133)、「宗門連燈会要」(1189)などに初めて出る話だと言うことです。ですからこれらの公案についてのコメントも南宋の圜悟や大慧の否定的見解以前のものは見つけることができませんでした。道元禅師がこの巻を書かれた意図の一部分は、洞山大師や慧可大師の「説心説性」を救い出したいと言うことではなかったかとも思いました。

 

普通は、週5日、月曜日から金曜日まで午前四時半におきて、五時から七時まで坐禅、そのあと、略朝課と掃除がありますので、朝食を食べて、仕事を始めるのはどうしても9時前後になります。10月中は、早朝の坐禅を免除されていますので、今月はなるべく6時半までに起きて8時には仕事が始められるように努力しています。午前中眼蔵会の準備の仕事をして、昼食後に昼寝、そのあと、寝床の中で参考になる本を読み、3時頃に起き上がってYMCAに行って運動。4時半から5時ごろに帰宅して風呂に入り、一休みして夕食。夕食後は午前中の仕事のまとめをして、9時過ぎくらいには寝床に入ると言う、きわめて静かな生活です。

 

2019年10月27日

 

奥村正博 九拝

三心通信 2019年9月

 

今年も早、秋のお彼岸が過ぎてしまいました。木々は少しづつ、紅葉、黄葉を始めています。毎年のように地面は落ち葉に覆われ始めました。いくら掃き掃除をしても次の日に見ると元通りになっています。胡桃の木はすでに半分以上落葉し、実もあらかた地面に落ちています。リスたちがこれまた例年通りあちらこちら走り回っては、胡桃の実をくわえて走り回っています。毎年見る同じ風景ですが、毎年新鮮に感じるのは、こちらの年齢や体力、知力、考えること、気になることが変わっているからなのでしょう。

 

9月の3日間の接心は、5日(木曜日)午後6時の夕食から始まりました。8人の参加者がありました。金曜日と土曜日は朝4時から夜9時まで14炷の坐禅、8日(日曜日)は午前11時まで差定通り坐りました。開静のあと、禅堂その他の清掃、各自の荷物の整理などがあり、11時30分からミーティングがありました。参加者の一人一人に今回の接心の感想を聞かせてもらいました。私の感想は、1969年の正月の接心にはじめて安泰寺の接心を坐らせてもらってから50年が経ちましたが、その間、この接心が楽だと思ったことは一度もなかたということでした。20歳代は20歳台なりの問題を抱え、71歳になった今でも、それなりの問題を抱えながら、それでも坐禅に任せて、3日なり5日なりを坐ってきました。私の今回の人生はただそれだけだったという気がしています。

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良寛についての文章を書き終えてからは、十一月の眼蔵会で参究する「正法眼蔵説心説性」の下準備として宋代の禅宗、特に大慧宗杲の看話禅と宏智正覚や真歇清了の黙照禅との対論、その歴史的背景の勉強を始めています。「説心説性」で道元禅師は大慧の「説心説性」についての発言を強い言葉で批判しているからです。書棚から鏡島元隆先生、石井修道先生などの学術書を取り出して久しぶりに目を通しました。英語ではMarten Schlutter という学者のHow Zen Became Zan: The Dispute over Enlightenment and the Formation of Chan Buddhism in Song-Dynasty Chinaを無理無理読み通しました。エール大学でStanley Weinstein先生の教えを受け、駒澤大学で石井修道先生の指導を受けた人です。私の安泰寺以来の友人であり、私をブルーミントンに来るようにと声をかけてくれた、John McRaeさんともWeinstein先生のもとでの同門になります。Weinstein先生には、宗務庁の宗典翻訳委員会の会議でなんどもお目にかかりました。

 

同書で議論されている基本的資料は石井修道先生の「宋代禅宗史の研究」や「道元禅の成立史的研究」にすでにあるものでしたが、大慧や宏智その他の人たちの言説を英語訳で読めるので助かりました。中国語の原文や日本語の書き下しや現代語訳で読んで理解したつもりになっても、それを英語にどう訳し、説明すればいいのか、途方にくれるばかりですから。特に、宋代の禅宗がどれだけ時の政治権力と密接に結びつき、支持されていたと同時に支配されていたかが改めてわかりました。看話禅と黙照禅の対立も単に宗学的な、あるいは修行方法についての理念的、実践的な論争ではなくて、一面からいえば、士大夫階級の人たちをどちらがより多く取り込めるかの競争だったということが理解できました。大慧や宏智からおよそ一世紀足らずあと、臨済宗の看話禅が一人勝ちしてしまった後で入宋した20代の道元禅師に、その当時の中国の禅宗がどのように見えたのか、勉強を続けます。比叡山にいた時に、指導者から、「先づ学問先達にひとしくよき人となり、国家に知られ、天下に名誉せん事を教訓」(「随聞記」5−7)されたことに反発して建仁寺に移って禅の修行を始めた道元禅師から見ると、宋朝禅宗の有様は日本の朝廷と比叡山延暦寺のあり方と本質的に変わらないように見えたと思います。

 

また、看話禅の陣営と黙照禅の陣営との相互の論争というよりは、大慧禅師から黙照禅への一方的な攻撃だったようで、黙照禅から看話禅を攻撃した例は私が読んだ限りではありません。道元禅師のみが著作の中で大慧宗杲禅師をなぜあのように批判というより、むしろ攻撃するのか、考えたいと思います。こういうことはおそらく、今回の眼蔵会の講義の中では話せないと思いますが、その点についての自分の理解をある程度はっきりさせておく必要を感じています。

 

70歳を過ぎてから、一日一日があっという間に過ぎていくように感じます。今年ももう秋の彼岸が過ぎてしまったとは信じられないくらいです。また、体力の低下も顕著です。この10年ほどYMCAのメンバーになり、出来るだけ毎日通うようにしています。お寺からYMCAまで歩き、1時間ほどジムの中を歩いたあと、10−15分ほどストレッチをしています。通い始めた頃、三心寺からYMCAまで10分で歩けたのですが、最近は15分ほどかかります。途中にちょっとした坂道があります。つい最近まで感じなかったのですが、この頃上り坂を上りきると息が荒くなっています。ジムの中は真っ平らですので呼吸の乱れは感じませんが、それでも自分より年配の人か障害のある人以外にはどんどんと追い抜かれていきます。毎日のように「我は昔の我ならず」と感じています。私より12歳年上の秋山洞禅さんから、75歳でまたガクンと体力、気力、脳力が落ちると聞いております。どういうことになっていくのか、興味津々でもあります。

 

2019年9月27日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2018年8月

 

8月も下旬に入り、朝夕は涼しくなりました。毎年のことですが、胡桃の木が身をつけ始め、葉っぱも色づき始めました。気の早い胡桃の実は早地面に落ち始めました。境内の木々に住み着いているリスたちが胡桃を集めて、地面に穴を掘って隠す作業を始める時期です。先日、近くの公園を散歩していると、野球のグラウンドに20羽ほどの雁の一群が、休息していました。渡りの途中なのでしょう。生き物の世界ではすでに季節が動いているようです。

 

今月9日から14日まで家内と一緒にミネソタに行きました。主な目的は私の弟子の正道・SpringがはじめたMountains and Waters Zen Communityの農場でのリトリートに参加することでした。正道は2005年に私から出家得度を受け、5年間三心寺で修行して、嗣法したあと、ミネソタ州ミネアポリスから自動車で1時間ほどのところに17エーカーの農場を買い、Mountains and Waters Zen Allianceとして活動しています。私の「正法眼蔵山水経」の講義をもとにしたMountains and Waters Sutraの本をエディットしてくれた人です。弟子とはいえ私と同じ年齢です。

今回のリトリートは Land Care Retreatと呼ばれました。自然の中で、自然に学び、自然を世話する中で、坐禅を行じていこうという趣旨でした。早朝の坐禅と朝食の後、およそ2時間、それぞれ、自然の中を歩き(walking meditationとよばれました)、そのあと正道が短時間話をし、感じたことをグループに分かれて話し合いました。昼食前に1炷の坐禅をし、午後は作務がありました。

 

夕食後、私が「山水経」へのイントロダクションとして蘇東坡の「盧山の詩」と「永平広録」から宏智禅師と道元禅師の偈の話をしました。先月バレー禅堂でした話と同じ内容になりました。「山水経」はかなり長く、美しい文章ですが、わかりづらい内容ですので、基本的に何について書かれているのかを説明するのに、これらの3つの詩は便利だと思います。

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日曜日にリトリートが終わった後、家内と私はミネアポリスに行き、水曜日まで友人宅に宿泊させていただきました。片桐大忍老師の奥様、智枝さんにお会いしました。87歳になられて、片方の眼が半分見えないということでしたが、それ以外はお元気そうでした。

 

ミネアポリスから帰ってからは、先月書きました良寛詩の本のために、道元禅師と良寛さんについての原稿を書きました。良寛さんの仏教と当時の宗門の状況についての、基本的な考えを知るために、これまであまり英語では読まれていなかった「僧伽」「唱導詞」「読永平録」という3つの長い詩を訳し、それらについての解説を書きました。予定よりも随分長く30ページほどになりました。

 

最近あまり良寛について考えたことがなかったので、今回の文章を書くために「良寛全詩集」「良寛全歌集」をはじめ30冊ほどある日本語の良寛についての本と、10冊ほどある英語の本のほとんどに、精読する時間はありませんでしたが、目を通しました。もう一度良寛を見直すことができてありがたい機会でした。

 

 

 

2018年8月23日

 

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 三心通信 2018年7月

 

例年通り7月3日から8日までの禅戒会で4月8日から始まった3ヶ月の夏期安居が円成しました。今年は副住職の法光が禅戒会リトリートを指導し、最終日に授戒の戒師を勤めました。今年から2023年までの間、私と法光が1年おきに戒師を担当することになりました。私が住職から退き法光が引き継ぐ際に、法光から受戒し、法光を師とする人たちがいた方が、引き継ぎが円滑に進むだろうと考えたからです。今年は5人の人が法光から受戒して仏弟子となりました。来年はまた私が戒師を勤めます。

 

先年遷化した海鏡の弟子になることが決まっていた3人のうちヨーロッパの2人は法光が師僧となりました。一人はドイツ人の女性ですでに別の師匠から出家得度を受け、日本の僧堂にも安居していたのですが、尼僧堂で出会った海鏡の弟子になることを願い師僧替えの手続きをすることになっていました。今年の冬にアイオワ州の龍門寺の冬安居で首座を務めて法戦式を済ませ、師僧替えの手続きも完了しました。時期が来れば法光から嗣法することになります。もう一人はオーストラリア人の男性です。今年の3月に法光から出家得度を受けました。この二人はヨーロッパで協力しながら活動していきます。

 

海鏡はアメリカ人を父親とし、ベネズエラ人を母親として生まれました。坐禅を始めたのはベネズエラにおいてでした。ヨーロッパで活動された弟子丸泰仙師から出家得度を受け、嗣法もせず、宗門の教師資格も持たない人を師匠とし、出家得度を受けたのですが、アメリカ合衆国に移転して活動するうちに、それではダメだと思って私の弟子になりました。ベネズエラのサンガの人たちが曹洞禅のコムニティの一部として活動ができるようにするために曹洞宗の教師資格を取り、ベネズエラのサンガの人たちをより大きな曹洞禅の輪に入れたいと願っておりました。その中の一人が海鏡から出家得度を受けることが決まっていたのですが、海鏡のあまりにも早い遷化によって不可能になりました。この人は、ベネズエラの隣国コロンビアで活動している私の弟子の伝照に出家得度を受けることができました。先週のことです。早すぎた遷化で頓挫していた海鏡の誓願が実現したことを喜んでおります。

 

 19日から22日までマサチューセッツ州のバレー禅堂を訪問しました。1976年から1981年まで5年間住んだところです。1974年に市田高之さんがニューイングランドの森の中に5エーカーの土地を得て禅堂の建立を始められました。1975年内山老師が安泰寺から引退された年の12月、私と池田永晋さんがアメリカに出発しました。数週間カリフォルニアに滞在し、南部諸州を通って自動車でマサチューセッツまで旅行しました。バレー禅堂についたのは1976年の1月だったと思います。

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それから、高之さん、永晋さんと私、日本人の雲水3人が、森の中の何にもない土地を住めるようにするために屯田兵のような生活が始まりました。木を切り、根っこ掘りをし、畑を作るのが最初の作務でした。春の雪解け時から夏までかかりました。自然の真っ只中で生活するのは、都会育ちの私には初めてで、しんどいけれども楽しいことでした。5年ほどそのような生活をする間に、私は身体のあちこちが痛くなり、治療する費用もなかったので、1981年に日本に帰りました。

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今回の訪問は、15年ほど前に、それまで17年間バレー禅堂におられた藤田一照さんが日本に帰られる直前にお会いしに行った時以来でした。それまで長年ボストンに住まわれていた池田永晋さんが一照さんの後、バレー禅堂に復帰して今までずっと住職として坐禅指導をされています。40年ほども前に私たちが建てた坐禅堂がいまでも存在し機能していること、また、その当時一緒に建設の仕事をし、共に坐っていた何人かの人たちが今でも坐り続けていることに感銘を受けました。

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21日の日曜日の坐禅会に私は、昨年刊行された「山水経」の解説書 Mountains and Waters Sutraの紹介をかねて、蘇東坡の盧山の詩と、「永平広録」第9巻の「頌古」90則の第25則に引用されている宏智禅師の蘇東坡の詩を下敷きにした偈とそれについての道元禅師の偈頌について話しました。ニューヨーク市から小山一山さんのグループの人たち10人が来ておられて、合計40名ほどの人が集まり、小さな禅堂は満員になりました。

 

22日の月曜日に、永晋さんともう一人の人に送っていただいてボストンの空港に着きましたが、予定のフライトは悪天候のためにキャンセルになっており、ホテルもいくつかチェックしましたが全部満室か、宿泊費が高すぎるかで泊まることができず、やむなく空港で一夜を過ごして、翌23日に三心寺に帰り着きました。2、3日休んでようやく仕事をする気力が出てきたところです。

 

長円寺本「正法眼蔵随聞記」の英語訳は、原稿を作成する作業が終わり、Wisdom社に提出しました。こちらで原稿作成をしてくれていた道樹は大学院を1年休学して、6月から2ヶ月の予定で横浜の学校で日本語を勉強するために出発しました。そのあと、8月から岡山の洞松寺僧堂に6ヶ月間安居させていただく予定です。

 

道元禅師和歌集」の英訳と解説の加筆訂正は今まで、弟子の浄瑩に英語の添削をしてもらっていましたが、来週にも完成します。そのあと出版社を探すことになります。

 

私が随分前に、バークレーの禅センターでした良寛の詩についての講話をトランスクリプトしたものを基礎にして、ミルウォーキー禅センターの前の住職だった洞燃師がエディットしてくれています。洞燃師がこの5月に日本に行き、新潟県良寛に関係のある土地を訪ねた旅についてのエッセイと、その時の写真と、洞燃師のお弟子さんの絵画を素材にして本を作り、Dogen Instituteから刊行しようとするプロジェクトも進んでいます。他の材料はすでに準備ができているのですが、私の道元禅師と良寛さんについての章を今書き足しているところです。

 

 

2019年7月26日

 

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 



三心通信 2019年6月


五月の後半から六月にかけて雨の日が多く、ジメジメとした天気が続いています。あっという間に清々しい新緑から、むしろ圧迫されるような深緑へと代わりました。おかげで、裏の苔庭は緑が綺麗で、まだ一度も水やりの必要を感じていません。境内には例年通り夕方になると蛍が飛びかうようになりました。昨年から、芝生の部分を少なくして、境内の半分くらい、この辺りに野生している草花を育てようとしています。冬の間にタネを蒔いたのですが、まだ雑草しか出ていません。

六月は例年通り5日間の接心から始まりました。1969年の一月に最初に安泰寺の接心をすわらせていただいてから、50年が経ってしまいました。22日に71歳になりましたが今でも曲がりなりにも接心ができることを感謝しています。ここ数年、膝の痛みのために足を組んで座れなくなりましたので、椅子坐禅です。椅子で坐るのが楽なのは膝だけで、一点で上半身を支えなければなりません。足を組んで座るときには、両膝と尻の3点で支えることができるので安定するのですが、バランスを取るのが難しく、またどうしても腰に負担がかかります。それで、昼食後すぐにYMCAに行き、1時間ほど歩き、ストレッチをし、シャワーを浴びて、午後2寺頃にお寺に戻り、3時まで休憩するようにしています。一日14炷のところ12炷だけ坐ることになります。それでも、5日間の接心が終わると、エネルギーの備蓄が完全に空っぽになります。2、3日何をする気力も出てきません。完全燃焼したようなもので、悪い気分ではありませんが、その間全く使い物になりませんので、他の人たちに申し訳なく思っています。

これでも坐らないよりましだろうと居直っています。私は内山老師のように、坐れないときには「南無観世音菩薩」の称名でいくということができません。椅子坐禅でも、一緒に坐っている人たちの邪魔になっているなと感じるまでは坐り続けようと願っています。もうそれほど長い年月がのこっているわけではありませんので。それにしても、アメリカに来てから25年以上経ちますが、今も、一緒に「正法眼蔵」の参究をし、坐禅を共に行じてくれる人があることを有り難く感じています。

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接心が終わった次の日曜日には、サンガ・ワーク・ディとして朝8時から1炷坐り、9時から5時まで、境内の整備、掃除、その他の作務をしました。15、16日の週末に首座法戦式があり、カリフォルニアから秋葉総監老師に助化師としてご来山いただき、その他の人々も各地から来てくれるからです。ニューヨークから小山一山さんのグループが合計4人、首座である黙祥Depreayの奥さんであるフランソワさんがベルギーから来られて1週間ほど滞在しました。フランスやポーランドからの人たちもありました。

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今回の法戦式の本則は「従容録」第2則「達磨廓然」でした。日本では法戦式の本則は「達磨廓然」が多いように思いますが、三心寺では、これまでほとんど毎年法戦式をしていますが、この則を取り上げるのは初めてでした。毎年、首座に本則を選んでもらっています。15日の本則行茶のときには、いつもどおり私が提唱をしました。「無功徳」「廓然無聖」「不識」は澤木老師の「何にもならない坐禅。Zazen is good for nothing.」の淵源ですので、耳にタコができるほどに聞かされている人たちには多くの説明は必要ないようでした。

秋葉総監老師は、本年総監部の書記の方がたには他の用事があるとのことで、お一人でおいでになりました。また、16日午後のフライトでカリフォルニアに帰らなければならないとのことで、昨年と同じく法戦式が終わり、集合写真を撮影すると、昼食も取らず、すぐにインディアナポリスの空港に出発されました。天平山の僧堂建立のためにご多忙のところ遠路お出でいただいて申し訳なく、ありがたく存じました。

7月に3日から8日まで、夏季安居最後の行事の禅戒会があります。例年通り、最終日には受戒の式があります。今年は副住職の法光が戒師になりますので、禅戒の講義も法光が担当します。これから私が引退する2013年まで私と法光が交代で戒師を務める予定にしております。法光が住職になったときに彼女から受戒した人たちがいるほうが、世代の交代をスムーズになるだろうと考えました。今回は5人の人が受戒します。

ミルウォーキー禅センターの前の住職だった洞燃・O’Connorさんに、私が何年も前にバークレイ禅センターで行なった良寛さんのいくつかの漢詩、和歌についての講義のトランスクリプションをしていただきました。それと、洞燃さんご本人がこの5月に新潟の良寛さんと関係のある場所を訪ねた経験について書いたもの、そしてそのときに撮影した写真を合わせてDogen Instituteから刊行することになりました。そのプロジェクトのために私は、「道元禅師と良寛さん」についてと、「良寛さんと子供たち」についてと2章書き加えることになりました。そのために良寛に関する本と、「全歌集」、「全詩集」を読み返しております。


先週の日曜日に私は71歳になりました。中期高齢者と言うのでしょうか。内山老師が最晩年に描かれた、「老いからの現地報告」が自分のこととして理解できる適齢期に入りました。

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                        ミネアポリスからの友人に受衣作法

 


6月27日

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 


三心通信 2019年4月、5月

 

五月も末になり、ブルーミントンの街は木々の緑に覆われています。春先からずっと雨が多く、温度も低くかったのですが、この数日ようやく初夏の日差しになり、外を歩くと汗ばむようになりました。庭の花壇には、芙蓉やジャーマン・アイリスなどの大きな花が咲いています。

 

4月7日の日曜座禅会に降誕会の法要を行いました。例年のように花御堂を作り、読経の後、参加した人たちが誕生仏に甘茶を注いで灌仏しました。今年は「永平広録」の中から1249年灌仏会における道元禅師の上堂を紹介しました。その締めくくりの言葉は、「諸仁者、たとえば、杓柄のなんじが手裏にある時はいかん。下下の人、上上の智あり。」私たちは上等な人間ではないけれども、誠を込めて仏への供養として修行するとき、そのなかに無上の智慧が現成しているのだという意味だと思います。

 

その翌日の4月8日から3ヶ月の夏期安居が始まりました。今年の首座はベルギー人の黙祥Depreayさんです。学校の先生をしていた人です。引退してから坐禅修行に専注し、ご両親から相続した家を禅堂にしました。昨年9月、その開単式に出席するためにベルギーに参りました。安居中は首座の人が日曜坐禅会の法話をすることになっています。黙祥さんは「信心銘」をテキストにしてこれまでに5回の法話をしました。6月16日の日曜日には、首座法戦式があります。例年のように秋葉玄吾北アメリカ国際布教総監老師に助化師としてご来山いただきます。カリフォルニアから遠路ブルーミントンまでこの式だけのためにおいでいただくのは申し訳ないのですが、助化師なしでは法戦式が宗門から公認されませんので仕方がありません。折角得度して宗門に僧籍登録をしても首座法戦式をしないと何年かのちには抹消されてしまいますので、得度した師匠の責任として、将来共に日本の宗門との関係を維持することを希望する弟子たちのために安居と法戦式を続けざるを得ません。

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3月のチャペルヒル・禅センターでの眼蔵会の後、私は5月の三心寺での眼蔵会の準備に専念しました。今回の眼蔵会では「正法眼蔵三界唯心」の拙訳を講本としました。仏教の経典としては一番古いものの一つとされているダンマパダの最初の偈頌に、

(1)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れたこころで話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。 ― 車を引く(牛)の足跡に車輪が付いていくように。

(2)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。 ―影がそのからだから離れないように。(岩波文庫

とあり、仏教において「心」が重要なことが説かれています。これから、パーリ語のアングッタラ・ニカーヤで自性清浄心が説かれ、大乗仏教の「八千頌般若経」に引き継がれ、それから如来蔵心や佛性の思想になっていったようです。一方では、唯識として、私たちが経験するものは全て、阿頼耶識が見分と相分に別れたものであって、識の自己展開に過ぎない。客観世界は絵師である「心」が描いたものに過ぎないという思想にも発展しました。それら二つの「心」に付いての教説が結びついて、本質的に清浄で、消滅しない自性清浄の「理心」(水)が無明の風に吹かれて、動き出したのが阿頼耶識「事心」(波)だという考えができてきました。「理心」は宿屋の主人であり、「事心」は状況によって現れたり消えたりする「客」のようなものだという意味で「客塵煩悩」という考えが「楞伽経」「大乗起信論」、「円覚経」、「首楞巌経」などで表明され、それが中国禅の基本的な教えになったのだと思います。道元禅師は「辧道話」や「正法眼蔵即心是仏」の巻きなどで、このような考えを批判しています。それでは道元禅師のいう「三界唯心」とはどういう意味なのかがこの巻を参究するポイントだと考えています。

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五月の眼蔵会が終わってからは11月の眼蔵会で読む「説心説性」の巻の英語訳に取り組んでいます。この巻もまた「心」を扱ったものですのでつながりがあります。これらの巻を越前に移転された直後に書かれたということの意味も考えたいと思います。三心寺での眼蔵会では、原則として75巻本の順序で読んでおりますが、ようやく京都から越前に移られてからのものを読んでいくことになりました。これまで、あまり丁寧に参究したことがない巻が多いので、準備に時間がかかります。今回も、カリフォルニア、ミネソタなどアメリカの遠隔地、またカナダ、フランス、日本など国外からの参加者もありました。三心寺の施設では22人が受け入れの限度で、ウエィティング・リストに入ってもらう人が何人かあります。それで次回11月から、近くにあるTMBCC (Tibetan Mongolian Buddhist Culture Center)を会場として再び使用させていただくことになりました。これは長期的な解決策ではありませんので、将来を見据えて、お寺の施設をどのようにするか検討をしています。

 

6月には私は71歳になります。引退まで後4年になりました。

本日の夕食から6月3日(月曜日)まで5日間の接心です。昨年から副住職の法光が接心の指導しており、私の責任ではなくなりましたので、翻訳、講義の準備、著作などがこれからの私の主な仕事になります。

  

 5月29日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

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三心通信 2019年2月、3月

 

この冬は、比較的暖かな冬でした。2度ほどかなりの寒波が来て、マイナス20℃ほどになりましたが、それ以外の時は雪もなく、むしろ雨が降ることが多い冬でした。今年も早お彼岸になってしまいました。三心寺の庭ではクロッカスの花が咲き始め、日々水仙の茎が成長しております。肌寒い日でも陽光の明るさはすでに春のものです。

 

2月10日にアイオワ州の龍門寺で首座法戦式があり、8日(金曜日)に出発し11日(月曜日)に三心寺に帰りました。丁度、厳しい寒波がアメリカ東北部を襲った時で、多くのフライトが遅れたり、キャンセルされたりしました。インデアナポリスからミネアポリスまでの飛行機はさいわい定刻に飛びましたが、ミネアポリスから龍門寺に一番近いミネソタ州南境のラクロスという空港までのフライトが大幅に遅れ、空港で6時間ほど待たなければなりませんでした。ラクロスの空港はミシシッピー川がまるで湖のように幅広くなっている部分にある島の中にあります。空港から龍門寺に行くときに橋を渡るのですが、あの大きな川が完全に凍結していました。

 

今回の龍門寺の冬安居の首座は鏡空というドイツ人の女性でした。もともとドイツ人の指導者のもとで得度し、名古屋の尼僧堂や岡山の洞松寺に安居した経験もある人です。昨年11月に遷化した私の弟子の海鏡Robynに尼僧堂で出会ったことが機縁となり、転師して海鏡の弟子になる手続きを始めたときに海鏡が遷化したのでした。それで、海鏡の依頼により、三心寺の副住職の法光が師僧になることになりました。ですから、私の孫弟子ということになります。孫弟子とは言ってもすでに還暦は超えている人です。海外では坐禅修行を始めるのが30代とか40代ですので、法戦式をしたり嗣法したりするのは60歳を過ぎてからという例が多くあります。

 

龍門寺では、法戦式の本則は「碧巌録」から選んだものを使います。片桐老師が「碧巌録」の提唱をされたそうです。その録音があるもので、片桐老師の提唱を聴いて本則の勉強をするそうです。助化師として行くときには、毎回、私が本則行茶の提唱をするのですが、「碧巌録」を使って、道元禅師の宗乗の話をするのが難しいことがあります。今回の本則は「百丈野鴨子」だったのですが、圜悟の評唱の中に、「而今有る者は道う、本と悟處無し、箇の悟門を作って此の事を建立すと。若し恁麼の見解ならば、獅子身中の蟲の自ら獅子の肉を食うが如し。」という部分があります。これはあきらかに臨済の看話禅から曹洞の黙照禅に対する批判なのですが、このようなところ、どう説明すればいいのか困ってしまいます。800年に及ぶ見性禅と黙照禅の間の論争にはあまり興味がありませんので。幸に「垂示」の最初に「遍界藏れず、全機獨露す。」という言葉がありましたので、道元禅師が「徧界不曽蔵」「全機」についてどのように言われたかということを中心にして話しました。本則の馬祖と百丈の野鴨についての問答の経緯や百丈の悟り経験とは焦点が違う話になったと思います。

 

私が龍門寺にいたあいだ、三心寺では8日と9日、2日間の涅槃会接心と10日には日曜参禅会と涅槃会の法要があったのですが、法光が中心となって無事に修行してくれました。接心の指導は法光がしてくれますので、これから2023年の私の引退までこういうことが多くなると思います。他出しても三心寺の行事のことを心配しなくても良いのはありがたいことです。

 

三心寺に帰ってからは2月の間毎日の坐禅も休ませてもらって、3月1日から6日までのノースカロライナ州、チャペルヒル禅センターでの5日間の眼蔵会の準備に専念させていただきました。先方から嗣法についての巻をという希望がありましたので、今回は「正法眼蔵面授」の巻の拙訳を講本にしました。参考として75巻本では次の巻になる「正法眼蔵仏祖」の巻も翻訳しました。「面授」については本文の読解だけではなく、江戸時代の宗学者たちの間の論争についても触れないわけにいかないので、準備に時間がかかりました。宗学のそういう面にはわたしはこれまでほとんど興味を持たず、勉強もしていなかったからです。

 

チャペルヒルに出発する2日前から風邪をひき、扁桃腺が腫れて唾を飲み込むたびに喉に痛みがありました。そのほかに、熱や頭痛などの症状はなかったので、とにかく出発しました。眼蔵会の間は、喉の薬やのど飴をもらったり、生姜湯を作ってもらったり、参加者の中におられたお医者さんに診察をしてもらったり、大変お世話をかけました。幸い喉の腫れは3日目に治りましたが、その代わりに咳が出るようになりました。大変に聴きづらい講義になったとおもいますが、皆さん熱心に聞いていただきました。

 

チャペルヒルから帰るとその日から三心寺の3月接心が始まったのですが、私は休養させていただき、3日間ベッドの中におりました。

 

そのあとは、5月の眼蔵会の講本として「正法眼蔵三界唯心」の翻訳をしてそれが出来上がるとお彼岸ということになっておりました。これから、その講義の準備をしなければなりません。次の11月の眼蔵会に参究する予定の「正法眼蔵説心説性」とともに道元禅師の「心」についての教説を「即心是仏」その他の巻とも関連させて参究したいと願っております。

 

 

3月22日

 

奥村正博 九拝