三心通信 2019年10月

 

日本では、台風の水害で多大な被害が出たとのこと、お見舞いを申し上げます。被災された人々の生活が早く元に戻るように願っております。

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当地では今年の秋もたけなわをやや過ぎた感じです。気温が下がったのと、昨日強い風を伴った雨が降って、大量の落葉がありました。添付した写真でご覧の通り、苔庭の苔が見えなくなるほど、いろんな色の落ち葉が地面を覆っています。「地に敷く錦」という感じです。これから境内の落ち葉掃きが大変です。

 

10月は、11月6日から始まる眼蔵会の準備に専念するために朝の坐禅も免除してもらっています。先月の通信にも書きましたが、今回は「説心説性」の巻を参究します。深草興聖寺を捨てて、越前に移転され、まだ新しい寺院もなく、吉峯寺や禅師峯で仮住まいをされていた頃に書かれたものです。示衆の日時は書かれてありませんが、75巻本では、先回、5月の眼蔵会で参究した第41巻「三界唯心」に続く第42巻になっています。大慧宗杲禅師を批判されるはじめての巻ですので、「説心説性」の巻の本文に入る前に、宋代の禅宗、特に大慧宗杲の看話禅と宏智正覚や真歇清了の黙照禅との対論、その歴史的背景の勉強から準備を始めました。およそ1ヶ月それに集中したのですが、本文の勉強を始めてから、それは徒労だったと悟りました。

 

大慧禅師が批判した「説心説性」している人たちというのは、曹洞宗で黙照禅の修行をしてい人たちではないように思えるからです。石井修道先生は「宋代禅宗史」に大慧禅師の「普説」を引いておられます。「学人を静坐させる者は、それゆえに悟門を説かない。さらに心と説き性ととく者も、悟門を説かないし、、、、」以下、5種類の人たちを揚げて、その人たちは悟り経験の必要性を説かないと批判しているのですが、最初の静坐させる人というのは黙照禅の指導者達だということは明白ですが、それと第2類の人たちとは別のグループだと思われます。「説心説性」のなかで道元禅師は大慧禅師の「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり」、という言葉を取り上げて批判されるのですが、黙照禅の修行者が得道するために、「説心説性をこのむ」ということはあり得ないことでしょう。黙して坐れば、それがそのまま照(証、「性」の発現)と信じて坐っている人たちが「心」とは何か、「性」とは何かと議論する必要はないからです。

 

もう一つは、よく言われることですが、ここでの大慧禅師の説心説性を批判する言葉は、道元禅師が以前に自分の文章の中で言われていたのとほとんど同じなのです。例えば、「学道用心集」(6)参禅可知事に、「首楞巌経」の文を引用して以下のように言われます。

「釈迦老子云、観音入流亡所知。即之意也。動静二相了然不生、即之調也。」

 

また同書(8)「禅僧行履事」にも趙州無字の公案を引いて、

趙州僧問、狗子還有仏性也無、趙州云、無。於無字上擬量得麼、擁滞得麼、全無巴鼻。請試撤手、且撒手看。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何。看来看去、自然動静二相了然不生。此不生時、不是頑然、無人証之、迷之惟多。参学人、且半途始得、全途莫辞。祈祷祈祷。

 

永平広録第1巻「上堂96」、同じく第8巻の法語5、11にも、説心説性を否定する言葉があります。1240年に書かれた「山水経」でも、「見性」と並んで「説心説性」が否定されています。

 

国際禅学研究所の「研究報告第3冊」での、松岡由香子さんのご指摘によると、「二相不生」ということを大慧禅師は言ったことがないとのことです。「もしかりに二相不生という表現あるいは内実があやまりなら、道元自身が自己批判すべきではなかろうか。、、、『説心説性』での大慧批判は、道元の勝手な思い込みというほかない。」「まず、確認すべきは、道元のこの大慧批判は、すでにあきらかにしたように事実の錯認であるということだ。」というお言葉にもうなずけるものがあります。

 

大慧禅師が黙照禅を攻撃しているのではないのに、道元禅師はどうして大慧の「説心説性」に対する批判説を批判しなければならなかったのか?今でもよく分かりません。あと十日足らずで眼蔵会が始まるのに、どうすればいいのか、思案に暮れています。

 

もう一つ気がついたのは、この巻に取り上げられる、洞山と僧密師伯との説心説性の問答も、達磨と二祖慧可の問答も、「祖堂集」(952)や「景徳伝燈録」(1004)などの古い灯史には存在せず、「宗門統要集」(1133)、「宗門連燈会要」(1189)などに初めて出る話だと言うことです。ですからこれらの公案についてのコメントも南宋の圜悟や大慧の否定的見解以前のものは見つけることができませんでした。道元禅師がこの巻を書かれた意図の一部分は、洞山大師や慧可大師の「説心説性」を救い出したいと言うことではなかったかとも思いました。

 

普通は、週5日、月曜日から金曜日まで午前四時半におきて、五時から七時まで坐禅、そのあと、略朝課と掃除がありますので、朝食を食べて、仕事を始めるのはどうしても9時前後になります。10月中は、早朝の坐禅を免除されていますので、今月はなるべく6時半までに起きて8時には仕事が始められるように努力しています。午前中眼蔵会の準備の仕事をして、昼食後に昼寝、そのあと、寝床の中で参考になる本を読み、3時頃に起き上がってYMCAに行って運動。4時半から5時ごろに帰宅して風呂に入り、一休みして夕食。夕食後は午前中の仕事のまとめをして、9時過ぎくらいには寝床に入ると言う、きわめて静かな生活です。

 

2019年10月27日

 

奥村正博 九拝