三心通信 2023年月 最終回

 

4月の三心通信で、創立してすぐに植えた桜の木が数えるほどしか花をつけず、葉もまばらについているだけなので、20周年を前に枯れかけていると、写真付きでお伝えしましたが、その後、葉は例年とほぼ同じくらいに出揃いました。早まったかなと思っています。しかし、幹を見るといかにも痛々しいので、あとどれくらいもつのか心配です。何年か前に一度暖かくなった後で、ひどい寒波に襲われ、幹がかなり深く長く割れました。その部分が何かに感染したのではないかと思います。境内の小さな草原では、例年のようにさまざまな草花が競うように成長しています。夕暮れ時になると蛍が飛びかう季節になりました。



5月24日から29日までロスアンゼルスに行きました。瑩山禅師700回大遠忌予修法要と北アメリカ国際布教並びに両大本山北米別院禅宗寺創立100周年記念行事に参加するためです。日本の宗務庁、両本山の代表の方々をはじめ、多数の方々がおいでになりました。古くからの友人知人にお会いできました。中でも、半世紀以上も前の1968年に駒沢大学に入学した時に英語を教わった小笠原隆元先生が最も長くご縁のあった方でした。86歳というご高齢で、杖をついておられましたが、禅宗寺で働かれた開教師の人たちのお名前を刻んだ石頭の除幕式の法要の導師を勤められました。

 

ロスアンゼルスから帰ると、直ぐに6月の接心が始まりました。私はもう接心は坐われませんが、副住職の法光と今回の夏期安居の首座でオーストリアから来ている心光はブルーミントンに帰った翌日から5日間の接心で大変だったと思います。

 

17日、18日の週末には心光の首座法戦式がありました。曹洞宗国際センター所長の建仁・Godwin師と書記の西村全機師に御随喜いただきました。17日(土)の本則行茶には助化師のGodwin師に「従容録」第20則「地蔵親切」について話していただきました。これまでは法戦式の本則については、私が話してきたのですが、今回初めて女性の所長に来ていただくことになったので、本則の提唱をお願いしました。

 

首座の心光がヨーロッパから来ていることもあって、法戦式にはヨーロッパから正珠・Mahlerとそのお弟子さん、黙祥・Depreayと奥さんが随喜し、20周年の行事が終わるまで1週間以上滞在してくれました。また、いつも三心寺の建物の世話をしている発心さんは、坐禅堂の内装の仕事にかかりきりでした。これまで禅堂の天井は石膏ボードのままだったのですが、今回木板を張り付けてくれました。その他の改良もあって、全く違った雰囲気になっています。



次の週末、23日(金)、24日(土)、25日(日)には、三心寺創立20周年、私の退任と法光の就任の式がありました。摂心が終わってから、法戦式をはさんでほぼ3週間、法光や行事を計画し、準備し、実行した人々にとっては大変忙しい日々だったと思います。私は坐禅も作務も免除されていましたので、Buddhadharmaという仏教雑誌に「無情説法」についての記事を書くことができました。また、毎月連載している「道元漢詩」の文章も書けました。ただ、「菩薩戒の参究」の原稿書きに戻ることはできませんでした。

 

行事は23日午後5時からの歓迎レセプションから始まりました。懐かしい人々がアメリカ各地、南アメリカ、ヨーロッパ、日本から集まってくれて賑やかでした。そのあと、三心寺で2007年に受戒した著名なピアニストYael Weiss氏が32 Bright Cloudsと題したコンサートをしてくれました。Bright Cloudsというのは「教授戒文」の第九不瞋恚戒についての戒文にある「光明雲海」からとられたものです。

 

24日(金)には、午前中に三心寺の歴史と将来の展望とその課題について5人の人がそれぞれのテーマで発言し、パネルディスカッションが行われました。午後には、道元インスティテュートのディレクターであるデヴィッド・トンプソンの司会でこの記念行事のために作られたAdding Beauty to Brocade(錦上に花を添える)について3名が発言しました。この本は「正法眼蔵四摂法」についての私が以前曹洞宗国際センターの機関紙「法眼」に連載した註解を最初の部分に掲載し、四摂法の布施、愛語、利行、同事について三心ネットワークの出家者16名が寄稿したエッセイ集です。「錦上に花を添える」はこの巻についての永平寺五世、義雲禅師の著語です。

 

その日の午後4時半からは、私の退董式がありました。北アメリカ国際布教総監部から、秋葉玄吾総監老師、懐浄・マクマレン賛事、軽部真生師が臨席されました。秋葉老師には、直前に日本から帰られたばかりでお疲れのところ、この行持のためだけにブルーミントンにお越しいただいて、申し訳なく、ありがたく存じました。三心寺創立の際にお手伝いいただいた片桐大忍老師の法嗣の貞静・ミュニック師、南米コロンビアに大心寺を創立しこの2月に晋山式を行ったばかりの弟子伝照・キンテロにそれぞれ祝辞をのべていただきました。

 

25日(日)朝には、家内の優子がお袈裟について発表をおこないました。11時から法光の就任式があり、そのあとの昼食会で3日間にわたった行事は円成しました。

 

2003年に三心寺の活動を開始してから、日常の坐禅、内山老師が始められた坐禅だけに専注する5日間、あるいは3日間の摂心、道元禅師の著作をはじめとした仏法の参究を中心に地味に、ささやかに修行を続けてきました。70名ほどの人が受戒し、私から得度した人と、師僧替えした人をあわせて28名が私の弟子になり、そのうち13人が嗣法しました。嗣法予定のものがあと数名あります。それぞれ北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、日本などの各地で活動を続けております。10冊以上の著作が出版され、そのうちの何冊かはイタリア語、フランス語、ドイツ語、日本語などに翻訳されました。大勢の人々に支えられながら、チビチビとしてきた活動が少しずつ実を結んだものです。これまで生きてこられたことに感謝せずにはおれません。

 

6月24日をもちまして、20年間続けてきた三心寺住職から退任させていただきました。私は、内山老師から習った坐禅道元禅師の仏法をなるべく何も足さず、何も引かずに伝えていくことを誓願としてきました。これからは、法光の指導で今までとは違った、アメリカ人のための三心寺として成長していくことを期待しております。

 

先月号にも書きましたが、この「三心通信」は三心寺日本事務局として創立のときからご支援いただいている鈴木龍太郎氏のおすすめで2006年からほぼ毎月書かせていただきました。三心寺は成長してもはや私の活動ではなくなりましたので、今月分をもって終わらせていただきます。これまでのご支援に感謝いたします。。

 

三心寺で得度した日本人4人の方々に、何らか別の方法で三心ZCからの日本語での発信を引き継いでいただくようにお願いしています。「三心禅コミュニティ通信」という名前で近いうちに始められるとのことです。

 

三心ネットワークの活動が世界各地で地道に続いていくように願っております。

 

 

2023年6月29日

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2023年

 

眼蔵会が終わると、初夏になっていました。庭の花壇には、芙蓉や白や紫のジャーマン・アイリスの大きな花が咲いています。境内の小さな草原は、いまのところ名前を知らない黄色い花に占拠されています。最近外を歩くのは殆どYMCAへの往復だけですが、まだそれほど暑くはなく、晴れた日は快適です。5月がアメリカの学校の学年末ですので、インディアナ大学も夏休みになりブルーミントンの街は学生たちが戻って来る8月末まで静かになります。逆にYMCAは子供たちのためのサマーキャンプ、その他のプログラムがはじまって、にぎやかになります。

4日から8日までの5日間の眼蔵会が終わって2週間以上が経ちました。しかし、まだなんだか気力が戻っていません。今までも、眼蔵会が終わって、2、3日は休憩しないと次の仕事が始められませんでしたが、今回は5日間の眼蔵会が一つ終わったというよりも、20年間続いた、責任としての眼蔵会がようやく完了したという感じです。

 

これまでは、ひとつ眼蔵会が終わると次の眼蔵会が目の前に立ち塞がる壁のように待っていて、走り続けなければならないような感じでした。それからの解放感と同時に、目標の喪失感のようなものが混じり合っています。達成感というのは薬にしたくてもありません。これまでも、自分の参究の過程を人々とシェアするというつもりで続けてきましたので、これが正しい「正法眼蔵」の読み方だなどと思ったことはありません。まだまだ分からないことだらけなので、やり方は違っても「正法眼蔵」の参究はこれからも続けていかなければなりません。

 

退任してからは、これまでの眼蔵会があった、5月と11月に10日間のスタディ・リトリートを計画しています。1日2回の講義はもう無理なので、1日1回の講義を10日間しようかと思います。とりあえず、今年の11月には「正法眼蔵坐禅箴」の参究をしようと考えております。「坐禅箴」はこれまでも何回か講義してきて、そのトランスクリプションをもとに本を作る計画が進んでいたのですが、この5年間手をつける時間がありませんでした。もとになった講義も、それをもとに補訂した原稿もかなり前のものですので、その後で刊行された本にすでに同じ引用や例えや話題が使われていたり、私の理解や表現が変わっている部分もありますので、もう一度講義をして、最新のものにしたいと願っております。そのあと、来年からは「正法眼蔵」に限らず道元禅師の著作や大切な仏教書を参究するつもりでおります。後何年続けられるかは分かりませんが。

 

毎月Dogen Instituteのサイトに連載している「道元漢詩」の7月分は、「句中玄」の第66首、「永平広録」では巻4の第338上堂に出る詩です。偶然ですが、「坐禅箴」で論じられる「磨塼作鏡」に関する詩です。

 

參禪求佛莫圖佛 (參禪して佛を求むるに佛を圖ること莫かれ。) 

圖佛參禪佛轉踈  (佛を圖って參禪せば、佛轉た踈かなり。)

甎解鏡消何面目 (甎解け、鏡消えて何の面目ぞ。) 

纔知到此用功夫  (纔かに知りぬ、此に到りて功夫を用いることを。)

 

「磨塼作鏡」の話は、「正法眼蔵古鏡」(1241年)、「坐禅箴」(1242年記、1243年、吉峯寺示衆)で論じられています。「永平広録」の中でも上堂で7回取り上げられています。すべて永平寺ができてからの上堂で、最初の4回(270、277、279、281)は1248年、次の2回(338、345)は1249年、最後(453)は1251年です。そのほかに巻9の「頌古」第38、そして巻10に収録されている「与野山忍禅人」と題した詩でも取り上げられています。道元禅師の坐禅についての基本表現の一つです。

 

1233年の「天福本普勧坐禅儀」では「磨塼作鏡」と「薬山非思量」の話からとられた表現はなく、「流布本普勧坐禅儀」(執筆時期不明)、「正法眼蔵坐禅儀」(1243)には入っています。「坐禅箴」が書かれたあとに、「莫図作仏」、「思量箇不思量底。不思量底如何思量。非思量」が坐禅についての基本的表現として定着したのだと思われます。

 

この詩では、仏になることを求めて坐禅修行をすることはかえって仏から遠ざかることだとまず述べられます。「求める」ということ自体がまだ仏ではないということの証明です。その対象が自己中心的な欲求を満足させることであっても、もしくは欲求満足の生き方が三界輪廻の苦しみを生むことが分かって、自分の欲求から自由になり、より良い自分になるように、悟りや涅槃や成仏を求めることであっても、つまり欲求の方向が違っていても、現在の自分に何か足りないことがあるから、なにがしかの努力をして欲しいものを手に入れたいという行動様式であることに変わりはありません。そのことに気がついて、悟りや成仏も求めることなく、ただ(只管)修行することが仏行としての坐禅だということです。塼(五蘊の集まり、業生の自分)も鏡(目標としての仏の悟り)もなくなった後に本当の坐禅修行が始まるのだといわれています。これは長円寺本「随聞記3−17」での教説と同じ趣旨です。

 

南岳の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するには非る也。坐はすなわち仏行なり。坐は即ち不為也。是れ即ち自己の正躰也。此の外別に仏法の可求無き也。

 

「随聞記」は懐奘が興聖寺僧団に入り、道元禅師に参学をはじめた1234年から36年ころまでの夜話の記録ですから、そのころから坐禅についての教えは変わってはいなかったことがわかります。「天福本」を書き直して「流布本」「眼蔵坐禅儀」を書かれることによって道元禅師の坐禅についての理解が変わったのではなく、「坐禅箴」を執筆し薬山の「非思量」や南岳の「磨塼作鏡」を深く味わうことによって、よりふさわしい表現を獲得されたのだと思います。

 

24日から29日までロスアンゼルスに参ります。

令和5年度総監部現地法人総会・北アメリカ曹洞禅連絡会議

アメリカ国際布教総監部現職研修会

大本山總持寺開山太祖瑩山紹瑾禅師700回大遠忌予修法要

アメリカ国際布教並びに両大本山北米別院禅宗寺創立100周年記念行事

という盛り沢山の行事に参加するためです。

パンデミックによる旅行の制限もなくなったようで、今回は日本の宗務庁、両本山の代表の方々をはじめ、多数の方々がおいでになるようです。北アメリカの宗侶も含めて100人以上になるとのことです。

 

ロスアンゼルスから帰ると、直ぐに6月の接心が始まります。その後は、首座法戦式、続いて三心寺創立20周年、私の退任と法光の就任の式と続き、7月初めの禅戒会、受戒会で夏期安居が終わるまで三心寺での行持が続きます。

 

以前からの予定通りに、来月6月24日をもちまして、創立以来20年間続けてきました三心寺住職から退任させていただきます。この「三心通信」は三心寺日本事務局として創立のときからご支援いただいている鈴木龍太郎氏のおすすめで2006年からほぼ毎月書かせていただきましたが、来月6月分で終わらせていただきます。これまで本当に有難うございました。

 

三心寺は、新しい指導者によって、アメリカ人のためのアメリカの坐禅道場になります。三心寺で得度した日本人4人の方々に、何らか別の方法で三心ZCからの日本語での発信を引き継いでいただくようにお願いしています。来月にはそのインフォメーションも書かせていただけると思います。引き続き、よろしくお願いいたします。

 

三心寺創立20周年、私の住職退任式、法光の就任式は、6月23日(金)、24日(土)、25日(日)に行われます。その案内は以下のリンクでアクセス可能です。

https://www.sanshinji.org/platinumcelebrationinjapanese.html

 

 

2023年5月24日

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2023年

 

 

新緑の季節になりました。YMCAに行く途中のモンテソーリの学校の前の芝生にスミレやタンポポの花が咲いて、良寛の和歌を思い出すような光景もありましたが、すでにタンポポはほとんど綿毛になっています。三心寺の境内の小さな草原も緑を回復しています。

 

4月の中旬には暖かくなり、25℃を超える日もあって、半袖の Tシャツで外を歩いても汗をかくくらいでした。しかし、この数日は、また温度が低くなり、今朝の最低温度はマイナス1℃、午後でも10℃より少し上程度でした。この気温の変化と湿度の影響か、腰や足の付け根が痛くなり、この2、3日、椅子に長く座るのもつらくなりました。椅子に座ってデスクトップのコンピューターで仕事をしたり、立って机の上でラップトップを使ったり、寝ころんだりと、ひんぱんに姿勢を変えなければなりません。5月3日からの眼蔵会まで、10日ほどしかありませんので、それまでに立ち直れるように願っております。

 

残念なことに、三心寺ができてすぐに植えた桜の木が枯れる寸前になりました。花もあちらこちらにちらほらとしか咲かなくて、新しい葉もごくわずかしかありません。数年前から、幹が割れ、その部分が何かの病気にかかったようでしたが、昨年まではなんとか枝枝の全体に花を咲かせていました。植えてから2、3年後、2006年の若木で元気だった頃の写真を添えます。これまで20年間、いかにも春らしく、境内を飾ってくれましたが、無常の姿ですからしようがありません。私の退任があと2ヶ月に迫っていますので、世代の交代を告げているのかもしれません。

今月は、眼蔵会の準備以外には、毎月Dogen Instituteのサイトに寄稿している道元禅師の漢詩の註解と三心通信のこの原稿を書くことだけしかしていません。面山瑞芳和尚が作った道元禅師の漢詩集である「洞上句中玄」(1759刊)には、「永平広録」に収録されている400以上の漢詩の中から150首を選んであります。「永平広録」の第10巻には、120首ほどの漢詩が集められていますが、その他は全体が漢文で書かれている大きな書物のあちらこちらに上堂の部分として収められています。序文には道元禅師の漢詩には、大蔵経の玄旨が表現されてあるのに、まだ漢文に慣れていない若い雲水たちが漢詩だけを読むことが難しいので、選集したと書かれています。

 

面山和尚は当時刊行されていた卍山本の「永平広録」から選んだのですが、現在、より多く読まれている門鶴本の詩とは違っている部分があります。句中玄の順番通りに註解をすすめていますが、漢詩は門鶴本を底本として、太源レイトン師と訳した全訳本Dogen’s Extensive Recordの英語訳を使っています。卍山本と違いがある場合は、その点を指摘しています。今月、65番目の1248年12月の上堂からの「謝監寺」と題した詩について書きました。まだ半分にも達していないので、今回の人生の間に完成できるかどうかわかりません。退任した後、時間に余裕があれば毎月一首ではなく、速度を上げて書けばできるかもしれません。現在進行中の3冊の本を書き上げなくてはなりませんし、どうなる事かわかりません。6月以降のことは、まだ考えないようにしております。

 

1月の「三心通信」に、「眼蔵佛性」の巻パート3の南泉と黄檗の「定慧等学、明見佛性」「不依倚一物」の問答についてちょっと書きましたが、黄檗の答えについて、道元禅師はコメントの中で、「依倚不依倚」と「依倚」と「不依倚」を並べて書いておられます。この場合、黄檗の発言の中での意味とは違って、「依倚」が否定され「不依倚」でなくてはならないと言われているのではないと思って、どういうことかと考え続けてきました。

 

私は、駒沢大学で勉強したことと、内山老師の提唱を聞いた以外、仏教も「正法眼蔵」もほとんど独学ですので、幅広い仏教学の知識もなく、いわゆる「伝統宗学」も理解できない部分の方が多いので、道元禅師が論じられていることについて、それほど複雑ではない初期仏教で何か言われていることはないかと探すようにしています。初期仏教の主なものは、パーリのニカーヤも含めて英語訳があるので、英語で話すのに便利だということもあります。「スッタニパータ」の「他に依るものは動揺す」という表現が出ている、「二種の観察」と呼ばれる部分を、二種の日本語訳と二種の英語訳で読んでみました。この経は短いものですが、釈尊の「縁起」についての、アビダルマ化される以前の教説の大要が書かれているものです。

 

経名になっている「二つの観察」というのは、十二支縁起の順観と逆観にあたるものです。四聖諦の苦諦(苦しみ)と集諦(苦しみの原因)を観じるのが一つ目の観察、滅諦(苦しみの止滅)と道諦(苦しみの死滅に至る道)を観じるのが、二つ目の観察です。宮坂宥勝訳では、

 

752: 依存しない者は〔心が〕動揺することがないが、依存している者は執われていて、このような状態から他の状態への輪廻を超えない。

753: 「もろもろの依存には大いなる恐怖がある」という、この煩いを知って、依存することなく、執われることなく、正しい想念をもって、行乞者は遍歴するがよい。

 

中村元訳の岩波文庫本は、

 

752:こだわりのない人はたじろがない。しかしこだわりのある人は、この状態からあの状態へと執着していて輪廻を超えることがない。

 

となっていて、内山老師の著書で引かれる「他に依るものは動揺す」と言う表現に長年親しんでいた私は、この個所を探し出すのに時間がかかりました。

 

我々は様々な外界の対象について、それについての快、不快、どちらでもない、などの自分の感受にもとづいて名前をつけ、好き/嫌い、意味/無意味、価値/無価値などの分別をし、それにこだわって、その物やそれについての分別に依存してしまいます。個人的な感受の経験に基づいた分別だけではなく、文化や伝統、また現時点での社会の潮流によって規定された価値観の枠組みのなかで、好ましいものは追いかけ、好ましくないものからは逃げようとして、浮いたり沈んだりの輪廻の生き方を始めてしまいます。ここで釈尊は「依存しない」という言葉を、そのような依存をやめるという意味で使われています。黄檗の「不依倚一物」も全く同じ意味だと分かります。

 

しかし、道元禅師の「依倚不依倚」はそう言う意味ではないように思います。この場合の「依倚」は大乗の縁起の相互依存、相依性のことで、私たちの心が何か対象物に固着するというせまい意味ではなく、一切の物事が相互に依存していると言う意味だと思います。すべてはインドラ網のなかで相依相関しているので、「不依倚」と言うことはあり得ません。むしろ、自分が誰にも、何にも依存していないと思うことが妄想になります。

 

しかし、道元禅師が「現成公案」で言われる、前後際断して、薪が薪の法位に住している長さのない絶対的現在には、「依倚」と言うことはありません。長さのない「今」だけです。それは、始めのない始めから、終わりのない終わりまでが切れ目のない、流れることのない永遠の時間とブッ続いています。それが「十二時中たとひ十二時中に所在せりとも、不依倚なり」と言われる意味だと思います。

 

同じことが、空間である、国土にも言えます。多数の場所のひとつとしての「ここ」と、距離も大きさもなく、位置だけしかない絶対の「ここ」と、全宇宙、全空間をひとつとしてその中に全てを含んだ、「尽時尽界尽法」の「ここ」も同じです。自己についても同じことが言えて、多数の人の中の一人の「個」としての自己と「無我」無実体の自己と、一切と繋がり一切を含む「尽一切自己」と全く同じものです。私はこれを1=0=∞と表現しています。1である、「今−ここ−自己」は万物と相互依存(依倚)するしか存在の仕方がありません。しかし0=∞は「不依倚」であり、内山老師の表現で言えば、「他との兼ね合いなし」です。これは、釈尊黄檗が言われる、私たちの心がこだわり、依存していると言う意味での「依倚」「不依倚」とは違うものです。道元禅師は佛性をそう言う意味での「諸法実相」として表現されているのではないかと考えています。

 

 

 

2023年4月24日

 

 

奥村正博 九拝

三心通信 2023年3月

 

 

2月の中旬にボゴタから帰ってきた時、すでに暖かく、クロッカスの花が咲き、水仙の芽が出ていて驚きましたが、それからも順調に、光も春らしく明るくなり、木蓮やその他の花も咲き始めました。先週、2、3日寒くなり、最高気温が0℃にならない日があり、咲き始めた花たちが、また凍てついて死んでしまうのではないかと心配しました。幸いに寒波は長続きせず、お彼岸になると、春らしく暖かになりました。今日は春の暖かい雨が降りました。いくつかの木々の枝先にうっすらと新緑が見られるようになりました。境内の小さな草原はまだ茶色いままで、竹の葉も茶色くなっていますが、水分を得て、芝生はきれいな緑になりました。

 

3月1日から4日まで、ロスアンゼルスに行きました。今回は仏教関係ではなく、娘の葉子が演出した初めての長編映画が出来上がって、その試写会があり、家内と息子と3人でそれに参加するためでした。Unseenというタイトルですが劇場映画ではなく、ネット配信ですので、日本で見られるかどうかは分かりません。アメリカの映画界でも有色人差別や、性差別が問題になっている折から、日本人女性が監督し、主役2人も日系人女性俳優ということで、少し話題になっているようです。

 

1993年ですから丁度30年前に家族で日本からミネアポリスに移転した時、葉子は5歳で、幼稚園からアメリカ生活を始めました。よく育ってくれたものだと思います。自分が75歳になって、老化していくのも当然だと、納得しております。三心通信に書くことも、過去の思い出が多くなりました。愚痴や後悔は書かないように努力しておりますが。未来のことについては、この6月に退任するということまでしか見えておらず、その後のことは書こうとしても、何を書けばいいのか途方に暮れます。今回の人生、未来よりも過去の方が圧倒的に長くなったことは確かです。

 

7日から12日まで、内山老師のメモリアル接心がありました。私自身はそういう意味での信仰心がなくて、両親の年忌も師匠の年忌もしたことがなかったのですが、今年から、法光が始めてくれました。内山老師は1998年3月13日に、86歳で遷化されました。今年が遷化されて25年目になります。老師が亡くなられた夜が満月だったそうで、旧暦では2月15日、釈尊のご入滅、涅槃会の日でした。

 

当時私は、ロスアンゼルスに住んで、北アメリカ開教センター(現、国際センター)の仕事をしておりました。Dharma Rain Zen Centerと Zen Community of Oregonが共催した、涅槃会接心に講師として参加するためにオレゴン州の州都であるポートランド郊外のリトリート・センターにおりました。その時の涅槃会についての私の講義のなかで、内山老師の「生死法句詩集」から、「光明蔵三昧」と題した法句詩を紹介して話したことを覚えています。

 

「光明蔵三昧」

 

貧しくても貧しからず

病んでも病まず

老いても老いず

死んでも死なず

すべて二つに分かれる以前の実物―

ここには 無限の深さがある

 

大通・Tom Wrightさんと私の英語訳は;

 

Samadhi of the Treasury of the Radiant Light

 

Though poor, never poor

Though sick, never sick,

Though aging, never aging

Though dying, never dying

Reality prior to division –

Herein lies unlimited depth

 

「遺教経」の釈尊の最後の説法に「今より已後、我が諸の弟子、展轉して之を行ぜば、則ち是れ如來の法身、常に在して滅せざるなり。是の故に當に知るべし、世は皆無常なり。會うものは必らず離るること有り。憂悩を懐くこと勿れ、世相是の如し。 當に勤め精進して、早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸の癡闇を滅すべし。 世は實に危脆なり、牢強なる者無し。」とあります。内山老師のこの詩は同じことを表現されているのだと思います。

 

無常の世界のなかに無常の五蘊の組み合わせである身体で生きて、今ここ、無常に目覚める修行のなかに如来の常在不滅の法身が常にあって滅することはないというのが、釈尊の入般涅槃という、まさに無常の真ん中で教えられたことでした。逆に言えば、我々が修行しなければ不滅の法身などはないということでしょう。そのことについて、seeing impermanence, realizing eternity (無常を観じ、永遠を現成する)を中心として話したのでした。

 

その接心が終わって、ロスに帰ると京都の鷹峰道雄さんからの留守番電話が入っていて、内山老師が遷化されたということでした。すぐにこちらからお電話をすると、すでにご葬儀が終わったところだということでした。その翌月だったと思いますが、老師追悼の5日間の接心をしました。ロスからそれほど遠くないオーハイに住んでいた、安泰寺の頃からの友人のArthur Bravermanさん始め、数名の人々が一緒に坐ってくれました。

 

その年の6月22日に私は50歳になりました。仕事で日本に滞在中でしたが、その日は何も予定を入れずに、京都に行きました。それまでは、たとえお訪ねすることはできなくても、京都に行けば老師がおられるということが、ある種確実なこととして、心の支えとなっておりました。これからは京都に来ても老師はおられないと思うと、私の世界が永遠に変わってしまったような気がしました。そして、私の今回の人生で仕事ができるのは75歳くらいまでだろう。その生産的な時間の3分の2はすでに過ぎてしまった。あと25年間はできるだけ仏法のために働かしてもらって、75歳になれば引退して、老師のように自分の生死を真っ直ぐに見つめる生活をしようと決めました。ミネアポリスの禅センターでの任期を終えて、老師に教えられた坐禅修行と仏法の参究ができる道場を創立するために三心禅コミュニティを1996年に創立しましたが、その道場の候補地を探し始めたばかりの時に、ロスに移転して開教センターの仕事を始めることになりましたので、三心寺創立の計画はまだ軌道に乗らない頃でした。

 

それから、早くも25年がたって、あと3ヶ月、その時に決めた通り75歳になる今年の6月に三心寺の住職を退任できることになりました。2003年に三心寺が出来て20年間、一緒に坐禅修行をし、仏法の参究をし、三心寺を支えていただいた、アメリカ、日本、その他の、すべての方々に感謝しなければなりません。

 

今回の接心の最後の日、12日の日曜日に法話をしました。2006年から16年ほど、日曜坐禅会の法話では、Opening the Hand of Thoughtについて話しています。毎回パラグラフ1つずつ位、ゆっくりと話しています。今回が私の記録では244回目でした。現在は、最後の第8章The Wayseekerの話をしています。これは、内山老師が1975年の2月に安泰寺での最後の提唱として話され、後に柏樹社から「求道者」という題で刊行された本に収録されたものの英語訳です。もともと、バレー禅堂にいた頃に一緒に坐禅していた人たちの希望で私が訳したものでした。このなかで、老師の「思いの手放し」という表現をなんとかletting go of thoughtという普通の英語を使わずに訳したいと思って使ったのが、opening the hand of thoughtでした。Tom Wrightさんも Arthur Bravermanさんも、これは英語ではないと言って、賛成してもらえませんでした。それが、1993年に出版される時にはこの本のタイトルとなるとは、私自身想像もしていませんでした。

 

退任する前に、この本についての話を完了できれば丁度良い区切りになると考えていたのですが、私が法話をする機会が減ったので、それは不可能になりました。7項目について話された中の1番目、「人情世情でなく、ただ仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと」の部分があと1回で終わるところです。引退後も、もうしばらく続きそうです。法話のあとに、老師のご遷化、25周年の法要がありました。久しぶりに導師を勤めました。

5月の眼蔵会の準備はまだ進行中です。幸に今までの眼蔵会より時間の余裕があるので、これまで調べることができなかった細かいところまで、可能であれば、なるべく原典にまで遡って調べています。添付の写真は、今月の三心寺のニュース・レターに掲載された昨年のvirtual genzo-eの私の講義の様子です。禅堂では、テクニカル・サポートの人と数名のブルーミントン在住の人々だけが聴講しました。眼蔵会だけではなく、坐禅だけの摂心も、Zoomを通じて世界中どこからでも参加できるようになっています。アイスランドから、今月の接心に参加して、三心寺の坐禅堂で坐っているように感じたという手紙をもらいました。坐禅堂がスタジオのようになっています。パンデミックの前には考えられなかったことですが、コロナ禍の置き土産として、これからも多かれ少なかれこのようなやり方が続いていくようです。

 

2023年3月23日

 

 

奥村正博 九拝

 

三心通信 2023年2月

 

 

今月9日に出発して14日まで、5日間南アメリカ、コロンビアのボゴタに滞在しました。帰りのフライトがインディアナポリスの空港に着いたのが15日の午前12時頃でしたので、空港の近くのホテルに一泊し、お昼前に三心寺に帰り着きました。気温はボゴタと同じくらいに暖かく、すでにクロッカスの花が咲き、水仙の芽が出ていました。例年だと、3月に入るまで新しい緑は見えないのですが、今年は春が半月ほども早いようです。もっとも。このまま順調に暖かくなるという保証はありません。

 

何年か前、3月後半、桜の花が咲き始めてから、最高気温が0℃に達しない日が数日続いて、勿論花も芽も凍りついてしまいました。それまで順調に育っていた桜の木が下の方の数本の枝を残して枯れてしまいました。前にも書きましたが、西のロッキー山脈と東のアパラチア山脈の間は、山らしい山はほとんどありませんので、中西部には北風も南風も遮るものが有りません。気圧の加減によって北極からの風もメキシコ湾からの風も吹き通しです。風が北から吹くか、南から吹くかで気温が大きく変わります。この2、3日、最高気温は15℃ほどになって、YMCAまで歩くのにも防寒のジャケットは要らないくらいです。何か良くないことが起こる予兆ではないかないかと、心配になるくらいです。

 

ボゴタは人口800万人ほどある、南米では3番目の大都市です。赤道に近く、亜熱帯にありますが、標高2500メートル以上の高地ですので、気候は年中穏やかで、気温も季節による変動はあまりないようです。雪が降ることも氷が張ることもないとのこと。最高気温も年間を通して20―25℃。極端に寒くなることもなく、熱帯夜もない。サンフランシスコのように住みやすい気候のようです。もっとも私は、きちんと四季があるところに住みたくて、サンフランシスコからブルーミントンに移りました。

 

9日の午前10時前に、アーカンソー州に行仏寺を創立した正龍さんと一緒に三心寺を出発しました。正龍さんは伝照さんとは、宗務庁の特別安居で一緒だった頃から親しい間柄です。インディアナポリス発のフライトでテキサス州のダラスについたのが午後2時ころ、午後6時過ぎ発のフライトが1時間ほど遅れて、ボゴタの空港についたのは10日の午前2時頃でした。ホテルにチェックインして、眠りについたのは午前3時頃になりました。ビジネスクラスの席を取ってくれていたので、エコノミーの座席よりは随分と楽でしたが、坐骨のあたりの痛みは避けようがありませんでした。

 

正午まではホテルの部屋で休んで、伝照さん、南アメリカの総監老師、国際布教師の方々と昼食を取りました。そのあと、大心寺に拝登して、伝照さんやサンガの人々に会いました。夕食は大きなレストランで南アメリカの国際布教師の方々と一緒でした。ずいぶんとにぎやかな音楽が演奏されていて、旅の疲れや睡眠不足もあったのでしょうが、人々と話をしたことも、どんなものを食べたかの記憶もさだかには残っていません。

 

11日午前中は、南アメリカの人々が総監部の会議をされている間、私と正龍さんは、ホテルの部屋で休みました。「佛性」の巻の準備も少しできました。ホテルのレストランで昼食の後、大心寺に行き、首座入寺式、本則行茶がありました。このような儀式には慣れていないので、なるべく目立たないように、人々の邪魔にならないようにしているしかありません。12日午前中には、晋山式、首座法戦式があり、そのあと、場所を移して日本でいう祝斎がありました。行持はすべて無事に円成しました。南アメリカの国際布教師さんたちがほとんど参加されていて、盛会だったと思います。私の著作を読んだり、講義の動画などを見ている人たちもいて、会ったことがないのに旧知の人のような感じがしました。

13日は、昼ころまでホテルの部屋で休息し、大心寺のサンガの20名ほどの人たちとレストランで昼食を取りました。その後、大心寺に戻り、伝照さんの通訳でサンガの人たちと話し合う機会がありました。まず、三心寺から持っていった沢木老師の揮毫の絵皿を見てもらいました。揮毫は道元禅師の和歌、「守るとも思わずながら、小山田の、いたずらならぬ、僧都(かかし)なりけり」とともに、田んぼの中に笠をかぶって立っている行脚中の僧のように見える案山子(かかし)の絵が書かれたものでした。

 

この絵皿は、小山一山さんが博多の明光寺を送行する時に、同寺で参禅されていた九州大学の西村重雄氏からいただいたものを、三心寺で保存するようにと持ってきてくれたものでした。もとは、1966年12月、沢木老師の1周忌の折に内山老師が参会者への記念品として作られたもので、西村先生が受け取られて50年以上手元に置かれていたものだとのことでした。この絵皿のことは全く知らなかったのですが、沢木老師の揮毫は、私が、「宿無し法句参」を英語訳して、1990年に京都曹洞禅センターから出した時に表紙に使ったのと同じものでした。「守るとも思はないカカシのような坐禅」が道元禅師から、沢木老師、内山老師を通じて伝えられてきたものだと考えたからでした。

 

ボゴタの大心寺の晋山式に出ると決まったとき、この絵皿が伝照及び大心寺サンガへの贈り物としてふさわしいと思って、一山さんにそうしてもいいかと訊ねて、了承をえました。そういう由来を話したあと、この絵皿と「守るとも思はないカカシのような坐禅」を末長く大心寺で守り続けてほしいとお願いしました。

 

そのあと、何人かの人々の質問に答えて、気がつくと、2時間ほどが過ぎていました。若い人々が多く、この人たちが将来の希望なのだと思いました。儀式の間は、いるというだけで大して役にも立てなかったのですが、こうして、サンガの人たちと話すことができて、ボゴタにきた甲斐があったと思いました。

 

ボゴタから帰ってすでに10日ほどが過ぎ、やっと旅行の疲れがとれて、また「佛性」の巻の参究に戻ることができそうです。

 

5月末に最後の眼蔵会が終わった後、また禅宗寺に行きます。瑩山禅師700回忌の予修法要と、禅宗寺創立と曹洞宗アメリカ開教100周年の記念、それに宗務庁宗典翻訳事業の「正法眼蔵」の英語訳の完成を記念した正法眼蔵シンポジウムがあるそうです。6月の退任の式まで、忙しくなりそうです。

 

 

2023年1月23日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

 

三心通信 2023年1月

 

 

昨年末に厳しい寒波が来ましたが、それ以降、気温は平年並みで、曇りや雨降りの日が続きました。きれいに晴れる日は数日に一回という感じでした。昨日からまた寒くなり、昨夜から今朝にかけて雪が降りました。今年初めての雪景色になりました。苔庭に吊り下げてあるバード・フィーダーに赤いカージナルがひまわりの種を食べに来ていました。写真の左隅に写っている小さな赤い点がそうです。大きな写真はWikipediaから拝借したものです。

この鳥は1985年までは単にcardinalと呼ばれていたそうですが、現在では正式にはnorthern cardinalと呼ぶのだそうです。Red birdとも呼ばれています。日本語名を調べるとショウジョウコウカンチョウ(猩々紅冠鳥)というながったらしい名前でした。ショウジョウ(猩々)というのは中国の古典に出る架空の動物で、猿に似ていて、酒が好きだそうです。オランウータンだという説もあるそうです。その架空の動物とこの赤い鳥とどういう関係があるのか気になって調べてみました。

 

能に「猩々」という演目があって、赤い着物を着ているところから、赤い色と関連して使われるとのこと。猩々のように赤い色をしていて、紅色の冠のようなとんがった頭をしているという外観から付けられた名前のようです。英語のCardinalはカトリック枢機卿という意味ですが、枢機卿は赤い衣を来ているから、この言葉は「赤」の代名詞として使われていて、オスの色からこの鳥の名前になったのだそうです。高位の聖職者である枢機卿と酒好きの猩猩とが繋がって面白いと思いました。メスは赤みがかったオリーブ色です。アメリカの中西部では広く親しまれている野鳥です。以前は愛玩用に鳥籠の中で飼われていたこともあったそうですが、現在では禁止されています。インディアナ州はじめ7つの州の州鳥でもあります。カージナルスという大リーグの球団の名前としても知られています。

 

年末から、今月初めにかけては、曹洞宗国際センターの「法眼」誌に連載している「正法眼蔵観音」の原稿を書きました。その連載第7回で、最終回になります。眼蔵会で「観音」の巻を講本としたときの講義のトランスクリプションに訂正加筆して、読めるものにしました。まだセンターから依頼をいただいていないのですが、例年2月末が締め切りなので、今回は早い目に書いておこうと決めました。2月に南米のコロンビアに行く予定があるからです。私の原稿を弟子の正龍にエディットしてもらわなくてはなりませんので、少なくとも2週間は余分にみておかなければなりません。

 

「法眼」誌は曹洞宗国際センター(元の名称は北アメリカ開教センター)が設立されて、私が所長になった1997年に創刊されました。年に2回の発行で、現在50号まで刊行されています。何年か前に紙での刊行は停止され、現在はオンラインのみです。曹洞宗のサイトである、sotozen-net.or.jp からアクセス可能で、プリントもできます。最初、私が開教センターの活動として始めた「現成公案」の講義のトランスクリプションをもとにして作った原稿を掲載していました。その連載は11回続き、それをもとにRealizing Genjokoanという本ができWisdom社から出版されました。後に宮川敬之師によって日本語に訳されて春秋社から2021年に出版されたものです。その後も、「正法眼蔵」の中の比較的短い巻を選んで連載を続けてきました。これまで「菩提薩埵四摂法」、「摩訶般若波羅蜜」、「全機」、「一顆明珠」、そして「観音」と、ほぼ25年間連載を続けてきました。今年の6月に三心寺住職を退任するのを機会として、今回を最後にしていただくようにお願いしております。

 

2月のコロンビア訪問は、弟子のQuintero伝照の晋山式に出席するためです。伝照は、若い頃にフランスで坐禅をはじめ、得度も受けたのですが、その頃は日本の宗務庁との関係がなく、僧籍登録はされませんでした。曹洞宗の僧侶になることを希望して、2001年に兵庫県の安泰寺で時の住職の宮浦信雄師の得度を受けました。宮浦師の遷化の後、2005年に師僧替えをして私の弟子になりました。ブラジルの両本山南米別院仏心寺で伝照が首座法戦式をさせていただいた折には、采川道昭総監のお招きで、「教授戒文」の講義をさせていただきました。私から嗣法もし、教師資格もできて、本格的にお寺の創立のために努力するようになってすでに10年以上が経過しました。長年の努力が実って、創立した大心寺が曹洞宗の海外寺院として認可され、晋山式を行う運びになりました。

 

5月の眼蔵会の準備として「正法眼蔵佛性」パート3の参究を続けています。現在、私の分科では第11章の南泉と黄檗との、「定慧等学、明見佛性」の部分を調べています。よく分からないのは、「南泉曰く、醤水錢且致、草鞋錢教什麼人還。(南泉曰く、「醤水錢は且く致く、草鞋錢は什麼人をしてか還さしめん」。)という言葉の意味です。昔の解釈本「お聞書抄」から始まって、岸沢維安老師の解釈でも、定慧等学と醤水錢、明見佛性と草鞋錢とが結びつけられ、一方が「不管(免除する)」、もう一方は「誰をして返還させる」のか、とされています。私にはどうしてそういう結びつきが可能なのかがわかりません。10月号に紹介した唐子正定さんの本も岸沢老師の解釈を踏襲されているようです。

 

私にはこの言葉は、「定慧等学、明見佛性」ではなく、黄檗の言った「十二時中不依倚一物始得。(十二時中一物にも依倚せずして始得ならん)」についての南泉の批判的追及とした方が理解しやすいと思います。1日中、何物にも依存しないという黄檗の答えはたいしたものだけれど、そういう見処を得られるようになったのも、師匠である百丈や、この南泉の道場で修行、参学できたからだろう。叢林は仏道修行の後継者を育てるための場所だから、安居中の食費を返せとは言わないけれども、これまで何年も行脚してきた草鞋代、その他、一般の人々から受けてきた恩義はどうして返すのか?「不依倚一物」などといっても、人々に支えられ、依存していなければ仏道修行もできないだろう、という詰問だと理解した方が納得できるのではないかと思います。

 

釈尊が「他に依るものは動揺す」と言われ、「犀の角のように一人歩め」、と言われながら、食糧、衣類、その他生活するのに必要なものは完全に人々、あるいは社会からの喜捨に依存され、またそうすべきだと教えられていたこととの関係はどういうことなのか。私にとっては、内山老師の「自己ぎりの自己」、「他との兼ね合い以前の自己」とは何なのか、全てのものが相互依存しているインドラ網の中で、「不依倚一物」などということがあり得るのか、あり得るとしたら、それはどういうことなのか」との問いかけだと思います。

 

数日前に、低いところにあるものを取ろうとして膝を曲げ、腰をかがめた時に左側の膝に、激痛というほどではありませんでしたが、かなりの痛みを感じました。これまで、坐禅をしたり、正座で座る時には両膝とも痛かったのですが、それ以外の生活行動の中では、右膝には痛みがありましたが、左膝はそれほどでもなかったので、心配になりました。現在のところ、真っ直ぐに立っている分には、歩いても大丈夫なようで安心しました。しかし膝を曲げて、体重をかけるような姿勢はしないほうがいいようです。2月のコロンビアへの旅行に支障がないように願っています。

2023年1月23日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

三心通信 2022年12月


今日は冬至です。現在の気温は6℃ですが、天気予報によると明日の最低気温はマイナス22℃です。この寒さが数日続き、過去40年で一番寒いクリスマスになるかも知れないということです。北極からの寒気団がアメリカ合衆国の半分くらいに影響するようです。ミネアポリスの現在の気温はすでにマイナス23℃ということです。ミネアポリスに住んでいた頃、マイナス20℃になるのはそれほど珍しくはありませんでしたが、マイナス30℃を超えたことが一度だけありました。その時には、さすがに学校や公共施設が閉鎖になりました。当地ではそれほど寒くなることはありませんが、降った雪が溶けて、道路がアイススケート場状態になり、自動車の運転が大変危険になります。ミネソタではほとんど半年の間、道路が雪や氷におおわれていますので、人々もそう言う条件で運転するのに慣れていますが、この辺りの人々は慣れていないので、事故が多くなるようです。

日本でも、同じように寒波がきていて、大雪になるとのこと。大きな被害が出ないように祈るほかありません。ウクライナもかなり寒い土地だと言うことですが、このような天候の中で、野外で戦っている人たち、ロシアの攻撃によって電気も、飲み水も、暖房もなく過ごしている人たちが何百万人もいることに心が痛みます。人間が人間に対してこのようなことができるのは狂気の沙汰としか思えませんが、それを冷徹な計算でできる人たちが存在するのも事実です。地獄を作り出すのは人間自身のようです。


先月のロスアンゼルス禅宗寺に於ける北アメリカ開教100周年記念の授戒会で、説戒した折の写真が、三心寺のニュースレターに載りました。私はこんな年寄りではないだろうというのが最初の感想でした。如法衣でないお袈裟を着て、きれいに荘厳されている大きな須弥壇の前で話す姿は、いかにも場違いという感じがします。

11月30日から12月7日まで例年通り、1日14炷坐禅だけに専注する臘八摂心がありました。身体的に坐禅ができなくなりましたので、私は、2020年の臘八摂心を最後に接心は坐らなくなりました。63歳になった時に、膝が痛く足を組んで坐れなくなったので、椅子に坐りはじめました。10年間椅子坐禅を続けましたが、足の付け根、坐骨、腰などが痛み始めて、できるだけ努力して坐り続けましたが、これ以上坐るのは坐禅ではなく、一種の意味のない苦行だと思うようになりました。1970年の12月8日、摂心が終わった日に得度していただいた時から、ちょうど50年になるのを一期として、接心からは引退することにしました。それから、半年ほどは、日曜坐禅会には坐っていましたが、最近では、デスクトップ・コンピューターの前で椅子に座って仕事をするのも、1時間以上続けるのが難しくなっています。それで机の上に低いテーブルをおき、その上にラップトップをおいて、立って仕事をするのと、交互にするようにしています。立ち仕事も長く続けると階段を降りる時に、膝の痛みを感じます。なるべく、頻繁に姿勢を替えるように努力しています。

釈尊パーリ語の「涅槃経」の中で、「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、恐らくわたしの身体も皮紐の助けによってもっているのだ」といわれています。80歳になるまでにはまだ何年かあり、釈尊よりも余程楽な生活をしながら、恐れ多いのですが、その感じは味わえるようになりました。12歳年上の秋山洞禅さんによると、75歳からまたガクッと違ってくるということですので、今感じているのは実感ではなく、全く予感に過ぎないのかも知れませんが。

1993年に再度アメリカに来てから、三心寺ができる2003年までのほぼ10年間は、ミネアポリスの禅センターで指導したり、開教センターで仕事をしていて自分の坐禅堂がなかったので、内山老師が始められた摂心ができない期間が続きました。その間、アメリカ各地の禅センターで、様々な法系の人々と、様々なやり方の摂心を経験しました。それぞれのやり方に良いところがありましたが、私にとっては安泰寺で身についた、全ての活動を休息して、毎日三度の食事とその後の短い休み以外は坐禅だけに専念する摂心が本当に「摂心」と呼べるものでした。

三心寺で再び安泰寺と同じ摂心ができるようになりましたが、この摂心をするためには坐禅の意味を深く理解していないと、一度や二度、あるいは1年や2年は自分のガンバリでできても一生坐り続ける事は不可能だと思い、摂心は年に5回と決め、眼蔵会を2回、禅戒会を2回、それと坐禅と講義や作務を合わせたリトリートを2回することにしました。状況によってさまざまな変更もありましたが、戒、定、慧を主として行じる摂心と眼蔵会と禅戒会という基本はこの20年間守ることができました。

今回の臘八接心も、出入りはありましたが、12人が三心寺の坐禅堂で坐わり、他にZoomで参加した人たちもありました。7月の禅戒会の最終日には8人の人たちが受戒しました。5月と11月の眼蔵会は数名が三心寺で、80名ほどの人たちがリモートで参加しました。眼蔵会は仕方がありませんが、戒、定、慧のバランスを取りながら修行してゆくことは、私が引退してからも続けていくことができるように願っております。現在でも、もはや半分隠居状態で、私には眼蔵会や禅戒会の講義と必要のある時に日曜坐禅会の法話をすることだけが三心寺の坐禅堂での活動です。殆どの活動は副住職の法光を中心として何人かの人々が分担して進めてくれております。

12月7日の深夜まで、7日間坐った次の日、8日の午後3時から2人の在米の日本人女性が出家得度を受けました。一人はカリフォルニア、もう一人はニューヨークに住み、それぞれ10年ほど、坐禅を続けている人たちです。この日に得度式をしたいと言うのは得度を受けた人の希望でした。沢木老師も、内山老師も、私も12月8日に得度を受けました。私は摂心を坐らなかったので何も難しい事はありませんでしたが、摂心を坐った翌日に式をするのは、得度を受ける本人たちだけでなく、式で様々な役をする人たちも疲れたことと思います。私が受業師としてする最後の得度式になりました。その2日後に、ドイツ人女性が法光から出家得度を受けました。

来年5月の最後の眼蔵会は「正法眼蔵佛性」のパート3を参究します。私の分科ですと、第8章衆生有佛性から最後までです。以前はなんとか本文を読みこなそうとするのが精一杯でしたが、今回は時間に余裕があることもあって、あちらこちら寄り道をして興味があることを調べながら、まあ言えば少し楽しみながら参究しています。

第1点は、第7章の龍樹までは、馬鳴や龍樹のインドの祖師、四祖、五祖、六祖の中国の南岳系と青原系に分かれる以前の祖師方の佛性に関する発言についてのコメントでしたが、塩官の有佛性、潙山の無佛性以降はすべて南岳・馬祖系の祖師方の言説のみが取り上げられ、青原・石頭系については全く取り上げられないのが何故なのかが、疑問になりました。青原、石頭の系統には佛性について取り上げるほどの言説がないからなのでしょうか?

この点に興味が出て、「佛性」で取り上げられている馬祖の弟子(百丈、塩官、南泉)と孫弟子(潙山、黄檗、趙州)の3世代の人々と石頭系の同じ3世代の人々にどれくらい「佛性」についての問答があるか、「景徳伝灯録」を調べてみました。最初に驚いたのは、その人数の違いです。以前からなんとなくそのような印象はありましたが、実際に人数を数えたのは初めてでした。南岳系の3世代は「伝灯録」の第6巻から第10巻までの4巻を占め、名前だけで、伝記も言葉も記録されていない人もかなりありますが、合計256人です。「佛性」の語がでる問答は12です。それに対して、青原系の3世代は第14巻の1巻だけにおさまり、人数は45人で、5分の1以下です。「佛性」と言う言葉が出る問答はわずかに2つです。「景徳伝灯録」という1つの文献の中での数字というだけで、何か意味があるのかどうか、それらの問答の意味も調べてみないと、なんとも言えないのですが、青原系の人たちの中には、道元禅師が「佛性」巻で取り上げたいと思われるような問答は皆無であると言うことだけは分かりました。

第2点は、第8章の塩官の言葉「衆生有佛性」と第9章の潙山の「衆生無佛性」の言葉は、同じ一つの公案にでてくるもので、その公案は「真字正法眼蔵」の第115則として収録されているにもかかわらず、「佛性」巻の中では、その公案には全くふれられないのはなぜかということです。また註解全書の中にも、「拈評三百則」を作った指月慧印が、潙山の言葉が三百則の第115則に出ていると書いた以外、そのことを指摘したものが見当たらないのはなぜか、と言うことです。一般には、「三百則」が道元禅師の著作とは認められていなかったからなのでしょうか?

これは私の推測に過ぎませんが、道元禅師が取り上げなかったのは「真字正法眼蔵」の第115則では、潙山の弟子の仰山が、両腕で円相を作って、それを後ろに投げ捨てると言う場面があるからではないかと思います。道元禅師は、第7章の龍樹の身現円月相の部分で、「円相」を批判したばかりでした。円相の一つの起源は南陽慧忠国師の弟子の耽源応真ですが、仰山は潙山に参ずる前に耽源から円相について学んだということです。

22日に書き始めましたが、23日の午前11時現在、気温はマイナス21℃です。このような寒さが後4、5日は続きそうです。降雪量はたいしたことはなく、せいぜい2、3センチでしょうか。

2022年は、パンデミックに加えて、ウクライナでの戦争が始まり、それが一因となって世界中の経済状況も良くないようです。核兵器の使用の可能性が議論されたり、気候変動や、その他もろもろ、私などには理解できないほどの問題があって、人間文明の終わりの始まりにいるのではないかとさえ感じてしまいます。内山老師が言われるように「人類に最後の智慧が働いて」、2023年が新しい希望が持てる年になるように願わずにいられません。


2022年12月23日


奥村正博 九拝