三心通信 2017年10月、11月

三心通信 2017年10月、11月

 

例年通り、10月6日から8日まで、ペンシルバニア州ピッツバーグの在家の禅グループ、スティル・ポイント サンガが主催する週末の接心がありました。今年もオハイオ州との州境にあるカトリックのリトリート・センターで行われました。このグループとの接心は1995年、私がまだミネソタ禅センターで教えていた頃からですので、20年以上続いています。在家得度式も2回行いました。最初に来た時にいた人たちがまだ2、3人続けて参加してくれています。この辺りは禅や仏教に関しては後進地域なのですが、小さなグループで、長年静かに坐り続けている人たちがいます。私の願いは、大きな禅センターをつくることではなく、そのような地道に坐り続けている人たちを支援することです。ただ気になるのは、参加者の高齢化です。ほとんどが、50代以上の人たちです。30代・40代の人たちはちらほら、20代の人はほとんどいないような状態です。

 今回も、私が訳した「道元禅師和歌集」から3首について話しました。和歌を使って話すのは、道元禅師の教えの様々な方面を「正法眼蔵」や「永平広録」ほどには難しくない言葉で表現されていますので、いい方法だと考えています。

 この接心から帰ると、11月の眼蔵会の準備に追われました。今回は拙訳の「正法眼蔵葛藤」を講本にいたしました。「葛藤」という言葉は中国語や日本語の常用語としても、あるいは仏教用語、禅語としても否定的な意味でしか使われていません。

一般語としては、一人に人の中に互いに矛盾した二つあるいはそれ以上の願望があり、どちらとも決めかね、悩んでいる状態、あるいは家族や職場などでの対人関係で、絆があって離れられないけれども、常に対立しているような状態のなかでのおたがいの心理的状態、という意味で使われます。仏教語としては、愛結つまり煩悩に基づいた執着のことを指します。禅語としての独特の意味は、言語、概念、論理を使った思考、表現、対論などを否定的に指す場合に使われます。別の仏教語で言えば戯論や虚妄分別のことです。それら執着や概念的思考を断ち切って、自由になることが悟りだと言われます。

 しかし、「眼蔵葛藤」で道元禅師は「嗣法」という禅の伝統の中ではもっとも重要で肯定的な、師弟関係、兄弟弟子の関係をさして「葛藤」と呼ばれています。一般的には否定的な意味で使われる表現を肯定的に使うのは道元禅師のある意味では常套手段です。「空華」「画餅」「夢中説夢」などがその例ですが、巻名にはなっていなくても、同じような手法を使われているところはいくつもあります。読者に通常の常識的な概念的思考を断念させ、思いがけない世界に目を開かせるためなのでしょう。

 しかし、「葛藤」の場合は、嗣法ということについて、通常連想するような師資一体、一器の水を一器に移すような、ただただ親しい関係というだけではなく、否定的な意味での「葛藤」も裏面から透かして見えるようにしておられるのだと私には思えます。その例として、パーリのサミュッタ・ニカーヤ16、Kassapasamyuttaに含まれる、摩訶迦葉とアナンダの葛藤の物語を、「葛藤」の巻の最初の文、「釈迦牟尼仏正法眼蔵無上菩提を証伝せること、霊山会には迦葉大士のみなり。嫡嫡正証二十八世、菩提達磨尊者にいたる。」について話す時に紹介しました。

 それと、「葛藤」の巻の主題は、ダルマから法を継いだ4人の弟子たちが全て平等にダルマの仏法を継いだのであって、一般に理解されているように、皮肉骨髄の間に深浅の差別はないということなのですが、それでは、釈尊の法を継いだのは摩訶迦葉だけだとどうして言わなければならないのかという疑問も提出しました。釈尊初転法輪の時、まず陳如尊者が釈尊の教えを理解した時、英語訳ではthe pure, immaculate vision of the truth (清浄法眼)を得て阿羅漢になったと言われています。他の4人の比丘についても同じことが言われ、その時この世界に6人の阿羅漢が存在するようになったと言われています。最初期においては釈尊と弟子たちの間に、そして阿羅漢となった弟子たちの間に上下の区別は無かったようです。釈尊の入涅槃のあと、500人の阿羅漢があったと言われています。その人たちはみんな清浄法眼を得ていたはずです。道元禅師が「葛藤」の巻で主張されている論理を使えば、摩訶迦葉と他の阿羅漢との間にも差別は無かったはずです。なのに、道元禅師はどうして、釈尊の法を伝えたのは、摩訶迦葉だけで、ダルマの場合は4人の弟子が平等だと言われるのでしょうか?

 古い禅のテキストでも伝法を表現する時「清浄法眼」を得たといわれていたのが、「正法眼蔵」という表現にかえたのは9世紀にできた「宝林伝」からだと言われています。これは禅の伝燈を他の仏教諸宗の伝統よりも価値づけ、釈尊から伝法されたのは摩訶迦葉だけで、それを受け継いでいるのは禅宗だけだと主張するためだったように思えます。

 道元禅師がこの巻で、4人の弟子が深浅の差別のないダルマの法を平等に継いだのだといわれるのは、歴史的にダルマの門下でおこったことについていわれているだけではなく、道元禅師ご自身の弟子たちへのメッセージだと私には思えます。あるいはすでにご自分のサンガの中に、三代争論に至る不和合の萌芽を察知されていてのかもしれないと。

 「葛藤」の巻が1243年の7月7日に、興聖寺での最後の著作として書かれたことの意味も考えなければならないと思います。7月16日、越前に旅立たれる9日前です。7月15日に夏安居が円成した解制の翌日、17日の如浄禅師の忌日も待たずに興聖寺を離れられたのには、余程逼迫した事情があったような気がします。

 11月の眼蔵会は、5月と同じくTibetan Mongolian Buddhist Culture Centerの施設をお借りして行いました。参加者は約30名でした。三心寺では収容できない人数です。2018年は三心寺創立15周年ですので、それを記念して、特別な眼蔵会を予定しております。私以外に2人の講師をお呼びして、「眼蔵行仏威儀」を講本にそれぞれ3回ずつの講義をする予定です。

 11月27日に東京の宗務庁で催されるシンポジウムに発表者の一人として参加するために明後日、23日に東京に出発します。曹洞宗国際センターの20周年と曹洞宗の翻訳事業である「傳光録」英語訳完成を記念してのシンポジウムです。

 

11月21日

奥村正博 九拝