三心通信 2021年3月

YMCAに行く道から見えるあちらこちらの家や保育園の庭に水仙の花が今を盛りと咲いています。外を歩くのにもジャッケットは必要なく、天気の良い日には薄着でも汗をかくようになりました。木々に新芽がでて、点々と緑が見えてきました。三心寺の庭の桜の花も咲き出し、苔庭にも小さな雑草がそこら中に芽を出し始めました。毎年と同じように草取りを始めなければ、苔庭とは思えなくなってしまいます。お彼岸も過ぎましたので当たり前のことなのですが、近年は「異常なのが当たり前」のような感じがしていますので、普通のことが普通に起こるだけで、ホッとするようになりました。

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苔庭の草取りは、以前なら何時間かかっても1日で終わっていた仕事ですが、膝や腰をかがめてする仕事は15分程度が限界になり、草取り作務でさえ億劫になりました。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」いう漢詩の言葉を思い出しております。外でする作務だけではなく、椅子に坐ってコンピュータに向かって仕事をするのでさえ、一時間以上同じ姿勢でいることが難しくなりました。立ったり、座ったり、横になったりをくりかえしております。「応に憐むべし、半死の白頭翁」。まだ「半死」と言うには修行がたりませんが、この言葉が実感になりつつあります。

昨年、3月16日にヨーロッパから帰ったその日から、三心寺は閉鎖になりました。すでに1年以上が経ちました。最初の3ヶ月は、オンラインで副住職の法光と何人かの人々が中心になって行っている朝の坐禅と朝課、毎週の坐禅会や勉強会の活動とは別に、一人で坐禅堂で坐り、朝課も一人でしました。その後は、坐禅堂もZOOMでつながって、自宅で坐る他の人たちとも一緒に坐り、朝課をしました。昨年の臘八接心までは、そのように坐禅を続けていました。そのあと、椅子に坐るときに、椅子の表面に当たる部分と足の付け根の部分が痛くなり、坐禅は休んでおります。椅子に坐るのを始めたのは、63歳になった時ですので、すでに10年近く椅子坐禅を続けております。毎日の坐禅や摂心で坐るだけでなく、毎日数時間机の前で仕事をする時も同じ姿勢でじっとしておりますので、尻から腰、足の付け根辺りに負担がかかっているのでしょう。

宮川敬之さんが日本語訳を作っておられる拙著Realizing Genjokoan (「『現成公按』を現成する」)の日本語版前書きに、「生命の実物」という言葉について書く準備として、内山老師の著作、1965年発行の「自己」から1972年発行の「生命の働き」までの9冊の本と1975年の「現成公按意解」、1987年の「現成公按を味わう」を、「生命の実物」という表現に絞って読み直してみました。英語の拙著にReality, あるいはrealityという言葉を300回以上使っていて、それらの多くを「生命実物」と訳していただいているからです。老師の「生命実物」と云う表現は、もともとは、「随聞記」の「坐禅は自己の正体なり」を説明するために長年にわたって、考察された結果だったのだと思います。1965年の「自己」はそれ以前に書かれた文章を集めたものですが、「生命の実物」という表現はまだ使われていません。むしろ、「随聞記」の「坐禅は自己の正体なり」の「自己の正体」を現代語でいかに表現するか苦労されています。「思い以上の私」という表現が使われています。

1965年12月に沢木老師が遷化されて、安泰寺の堂頭になられてすぐに、安泰寺で修行する坐禅を示すために書れた「正しい坐禅のすすめ:ほんとうのホトケさまをする仕方」という小冊子にはじめて、「自己の正体」の現代的表現として「自己の実物」、「現在実物」、「実物としての自己」、「完結した自己」、「生命の自己」、「自己ぎりの自己」、「自己の生命の実物」などの表現の一つとして初めて使われています。

その後も思索を続けられ、1971年の「生命の実物」で「生命の実物」の定義をされました。「生命の実物」という表現が老師の基本的用語となり、縦横無尽に使われるようになるのはこの「生命の実物」執筆以降です。1987年の「現成公按を味わう」では、「生命の実物」ではなく、「生命実物」と四字熟語としておよそ150回以上使われます。

老師は、宗門の人たちが「仏法」という言葉に慣れすぎてしまって、すでにわかっているように思い、意味を吟味しないで、符牒のように使うようになったと批判されています。それと同じように、老師の学人としては、正確な意味を考えないで、不用意に「生命実物」という表現を使うようになる危険性が出てきたと思います。私のRealityの使用法はその弊害を示しているのではないかと愕然としました。老師が伝統的仏教用語で、「生命実物」と同じとされている真如、法性、法身、等の用語の表現や説明が英語では、確立していないのと、私の英語の語彙力の貧弱さによって、Reality、reality をやたらに使いすぎているように思います。老師が、長年かかって、厳密な考察によって確立された「生命の実物」、「生命実物」という表現の意味が水増しされて、意味が広くなりすぎ、結局何の意味もない言葉として使っているのではないかと心配になりました。

Dogen Instituteのウェブサイトに「句中玄」の順番で道元禅師の漢詩の解説というか感想を毎月連載しています。「永平広録」第10巻、偈頌の部分の最初の50頌は1226年から1227年に日本に帰られるまで、天童山で修行されている頃の漢詩です。今月まで「句中玄」でいうと35番目から39番目の5つの漢詩について書きました。35、36番は、観音の霊場である補陀洛迦山に参詣された時のもの、37番から39番は、中国人の在家参禅者であろう役人と詩の交換をされたものです。

これらの漢詩の意味を考えていて、気がついたのは、道元禅師のこれら50の漢詩は、道元禅師の伝記にも、道元禅師の著作や思想についての研究にもほとんど注目されていなかったのではないかということでした。私自身もこれらの漢詩について勉強しようなどとはこれまで思ったこともありませんでした。著作や思想としては「普勧坐禅儀」が最初のものとされてきたと思います。面山師によって「句中玄」に選ばれた3種の漢詩はどれも三教一致の思想を積極的に主張しているとは云えないまでも、少なくとも否定はしていないように見えます。また天童山に出入りしていたであろう、士大夫たちとも詩の交換などの交流をされています。三教一致を否定して基本的に儒者である士大夫の人たちと親しむことは不可能だったでしょう。1225年に明全和尚が亡くなって以後、「随聞記」にも語られているような道心を持った同参の修行僧たちとともに厳しい坐禅修行に専念し、如浄禅師との仏法や修行について個人的な参学を許されて、1226年はおそらく道元禅師にとっては非常に充実した時期であったでしょう。

「辧道話」には「大宋国には、いまのよの国王大臣・士俗男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。武門・文家、いづれも参禅学道をこころざせり。こころざすもの、かならず心地を開明することおほし。これ世務の、仏法をさまたげざる、おのづからしられたり」と書かれています。また「永平広録」巻8、法語1、には「予は亦た山林を希わず、人里を辞すること無し。、、、如かず、鄽市街頭に游んで、以て名相の閫域を超えんには」とあります。興聖寺を開かれる頃には、如浄禅師会下の天童山のような道場を創ることを理想とされていたのではないでしょうか。深草から越前に移転される頃には、在家人の得道や三教一致思想も厳しく批判されるようになりますけれども。


3月28日

奥村正博 九拝