三心通信 2020年5月

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このところ、温度が低く湿度が高く、曇天か雨が降り、肌寒いような日が続いていたのですが、今日は今年初めて初夏を感じる晴天になりました。散歩に出ると入道雲が見えました。樹木の葉はもはや新緑の爽やかな緑ではなく、威圧するような濃い緑になりました。三心寺の境内には白や紫のアイリスが大きな花をつけ、芙蓉の蕾も大きくなり始めました。
 
昨年もそうだったような記憶がありますが、まだ、苔庭に水をやらなくても、綺麗な緑です。それだけ、雑草が生えるのも早く、午後の散歩から帰った時に、膝と腰に負担がかからない程度に苔庭の草取りをしております。例年4月初旬に夏期安居が始まると、何人か参禅者が滞在しますので、苔庭の草取りも頼んでいたのですが、三心寺は依然として閉鎖中で、夏期安居も中止になりましたので、誰かを頼りにすることはできません。一通り草取りが済んだと思うと、最初にとりはじめた部分が元のようになっているのでそれこそいたごっこで、いつも負けています。日本のお寺の夏の草取り作務を思い出しております。4月1日から続けている一人だけの早朝の坐禅はまだ続いています坐禅と朝課のあと、一人で苔庭を見ながら朝食をとるのがこのところの楽しみです。前日に草取りをした部分の苔庭をみて、苔の緑が綺麗なのに満足しております。
 
4月の初旬は他の著作の仕事をしていましたが、中旬からは5月15日から19日までに予定されていたZoomを使ってのオンラインでの眼蔵会の準備に追われておりました。今回は拙訳の「諸法実相」の巻を講本にしました。Zoomというのがどういう仕組みのものなのかいまだに分かりませんが、私が三心寺の禅堂のコンピューターのモニターの前で話をすると、百人までが同時に視聴できるのだそうです。こちらの関係者の分がいくつか必要ですので、定員を90名にしましたが、それより多くの申込者があり、エイティングリストに何人か入ってもらったとのことでした。普通、三心寺の禅堂で行う場合には、禅堂や宿泊施設、台所などの大きさの制限があり、22名以上は参加してもらえませんでした。それで、数回、TMBCC(Tibetan Mongolian Buddhist Culture Center)の施設を使わせてもらいましたが、50名受け付けるのがせいぜいでした。参加者の数だけを考えれば、その倍近くの人に「正法眼蔵の講義が聞いていただけることになります。講義以外の坐禅などは、こちらで一応おすすめの差定を作りましたが、なにしろ、参加者の分布がアメリカ各地、ヨーロッパなどばらばらですので、時差の関係もあり、参加した人たちの都合で坐禅の時間は決めてもらうしかありませんでした。
 
講本は「正法眼蔵諸法実相」でした。2007年にサンフランシスコ禅センターで一度読んだのですが、今回もう一度参究し直したいと願っておりました。前回よりはまとまった話ができたように思います。この巻の前半は「法華経」の「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」とそれに続く十如是についての提唱で、道元禅師独特の難解な文体で書かれています。翻訳を作るときに全ての単語や引用の語句などを調べ、手元にある註解書を読んでみても分かりづらいのですが、後半は南宋禅林の三教一致思想や、臨済禅の応庵曇華という人の坐禅観への批判、それに続いて、如浄禅師と玄沙師備の「実相」という表現を使用した言葉の称賛で、明快な文体で書かれていて難解な点はほとんどありません。この鮮明な違いは「渓声山色」などにも見られます。
 
眼蔵会が始まる10日ほど前まで、前半の部分が明確に理解できているかどうかもう一つ自信がありませんでした。それで、参考書や資料などは脇に置いてその部分の原文だけを何度も何度も読み返し、今まではしたことがなかったのですが、日本語の現代語訳を作り、段落ごとの主要点を書き留めました。それでようやく道元禅師が諸法実相について何を言おうとしておられるのかが把握できたように思います。第一、この巻のテーマは「法華経」の諸法実相という仏教教学的な概念ではなく、最初の文にある「仏祖の現成」ということを諸法実相という言葉を使って表現されているのだと思い至りました。「仏祖の現成」とはつまり、身心脱落の坐禅の行ということだと思います。
 
ともあれ、最初の試みであるオンラインの眼蔵会は私の講義としてはある程度うまくいったと思います。私の目の前にいるのはコンピューターやビデオカメラの操作をしていた人と、家内との二人だけだったので、聞いている人たちの表情を見ることが難しく、私の話がわかってもらえているか今ひとつわからなくもどかしい点がありました。しかし、参加した人たちからの便りには、始まる前にはほとんど何も期待していなかったけれども、講義を聞いているときには同じ部屋にいるような感じがしたという人もいました。8月にはサンフランシスコ禅センターで7日間の眼蔵会がある予定だったのですが、8月にはまだあちらの禅センターは閉鎖中である可能性が高いので、次の眼蔵会もまたオンラインですることになりました。講本は「無情説法」の巻です。こちらの眼蔵会が終わって、2、3日休んでから、「無情説法」の巻の翻訳テキストの作成に取り掛かっています。
 
それにしても今年に入ってからの体力、脳力の衰え方に驚いております。辞書のページをめくっている最中に、さて何という言葉を調べていたのか、と思い出さなければならない体たらくです。特に、睡眠が十分足りていないと、いくらやる気を出そうとしてもエネルギーがどこからも湧いてこず、脳味噌が休眠状態になります。そういう場合には数分間でも休眠するより他に手がありません。
 
3月半ばにヨーロッパから帰ってからは、来客もほとんどなく、静かな日々が続いています。コンピューターに向かって仕事をしているか、疲れると本を読むか、昼食後は昼寝と散歩、そして苔庭の草取り、、、。世界中から届くコロナウィルス、その他の意気阻喪するようなニュースさえなければ、「すべて世は事もなし」のような静かな生活を楽しむことができていると思います。引退後の生活のリハーサルのようです。
 
「すべて世は事もなし」という句は、高校生の頃に読んだロバート・ブラウニングのものです。人間の記憶というのは本当におかしなもので、今辞書で調べようとしている語句でさえ忘れてしまうのに、50年以上も前に読んで以来思い出した事もなかった詩句がなんともなしに出てきます。19世紀の詩人はこんな脳天気な詩を作ることができたのだ、21世紀の詩人にはこんなことは書きたくても書けないだろうと思い、作者はどのような生活をしていたのだろうか、ウィキペディアで調べてみました。この句が含まれている詩は劇詩の一部で、殺人犯が、少女が歌うこの句を含んだ詩を聞いて後悔するというストーリーの中に使われるのだそうです。この詩人自身の現実の生活と心境を表現したものではないようでした。
 
英語の原文は、
God’s in his heaven - -
All’s right with the world.
この最後の2行までは全て忘れてしまい、元の劇詩の文脈から切り離され、上田敏の「事もなし」という訳語に引きづられて、私は仏教語の「無事」という意味に理解しておりました。「無事是貴人」の無事です。しかし英語を読むと、神様が天国から見ておられるので、地上には神の正義が完全に行われているというような意味ではないかと思いました。少女が歌うこの詩を聞いて後悔した犯人の耳には、これは「お天道様はお見通しだ」のように聞こえたのではないでしょうか。
 
もう一つ興味深かったのは、ブラウニングが現実の殺人事件をめぐって、10人の異なる証言で構成した物語詩『指輪と本』を書いたということ。そしてブラウニングのフアンだった芥川龍之介がそれからヒントを得て「藪の中」という短編小説を書いたのだということでした。このところ、数本の黒澤明の映画を見直して、芥川の「藪の中」を原作とした「羅生門」も見たところでした。ブラウニングから着想を得た芥川の小説が黒沢の映画を通して西洋人に日本映画の評価を変えさせたというのは面白いと思いました。この映画のテーマは戦災や自然災害や疫病よりも人間が信じられないことが、いちばん恐ろしい問題だということだと思います。ということで、一見「事もない」今の私の静かな生活から現在のパンデミックの状況下の一番深刻な問題に導かれました。まことに「すべて世は事もなし」などと言っていられる状況ではないようです。道元禅師が「諸法実相」で言っておられる事もそれとつながる事だと思います。
 
 
 
5月26日
 
奥村正博 九拝