三心通信 2019年9月

 

今年も早、秋のお彼岸が過ぎてしまいました。木々は少しづつ、紅葉、黄葉を始めています。毎年のように地面は落ち葉に覆われ始めました。いくら掃き掃除をしても次の日に見ると元通りになっています。胡桃の木はすでに半分以上落葉し、実もあらかた地面に落ちています。リスたちがこれまた例年通りあちらこちら走り回っては、胡桃の実をくわえて走り回っています。毎年見る同じ風景ですが、毎年新鮮に感じるのは、こちらの年齢や体力、知力、考えること、気になることが変わっているからなのでしょう。

 

9月の3日間の接心は、5日(木曜日)午後6時の夕食から始まりました。8人の参加者がありました。金曜日と土曜日は朝4時から夜9時まで14炷の坐禅、8日(日曜日)は午前11時まで差定通り坐りました。開静のあと、禅堂その他の清掃、各自の荷物の整理などがあり、11時30分からミーティングがありました。参加者の一人一人に今回の接心の感想を聞かせてもらいました。私の感想は、1969年の正月の接心にはじめて安泰寺の接心を坐らせてもらってから50年が経ちましたが、その間、この接心が楽だと思ったことは一度もなかたということでした。20歳代は20歳台なりの問題を抱え、71歳になった今でも、それなりの問題を抱えながら、それでも坐禅に任せて、3日なり5日なりを坐ってきました。私の今回の人生はただそれだけだったという気がしています。

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良寛についての文章を書き終えてからは、十一月の眼蔵会で参究する「正法眼蔵説心説性」の下準備として宋代の禅宗、特に大慧宗杲の看話禅と宏智正覚や真歇清了の黙照禅との対論、その歴史的背景の勉強を始めています。「説心説性」で道元禅師は大慧の「説心説性」についての発言を強い言葉で批判しているからです。書棚から鏡島元隆先生、石井修道先生などの学術書を取り出して久しぶりに目を通しました。英語ではMarten Schlutter という学者のHow Zen Became Zan: The Dispute over Enlightenment and the Formation of Chan Buddhism in Song-Dynasty Chinaを無理無理読み通しました。エール大学でStanley Weinstein先生の教えを受け、駒澤大学で石井修道先生の指導を受けた人です。私の安泰寺以来の友人であり、私をブルーミントンに来るようにと声をかけてくれた、John McRaeさんともWeinstein先生のもとでの同門になります。Weinstein先生には、宗務庁の宗典翻訳委員会の会議でなんどもお目にかかりました。

 

同書で議論されている基本的資料は石井修道先生の「宋代禅宗史の研究」や「道元禅の成立史的研究」にすでにあるものでしたが、大慧や宏智その他の人たちの言説を英語訳で読めるので助かりました。中国語の原文や日本語の書き下しや現代語訳で読んで理解したつもりになっても、それを英語にどう訳し、説明すればいいのか、途方にくれるばかりですから。特に、宋代の禅宗がどれだけ時の政治権力と密接に結びつき、支持されていたと同時に支配されていたかが改めてわかりました。看話禅と黙照禅の対立も単に宗学的な、あるいは修行方法についての理念的、実践的な論争ではなくて、一面からいえば、士大夫階級の人たちをどちらがより多く取り込めるかの競争だったということが理解できました。大慧や宏智からおよそ一世紀足らずあと、臨済宗の看話禅が一人勝ちしてしまった後で入宋した20代の道元禅師に、その当時の中国の禅宗がどのように見えたのか、勉強を続けます。比叡山にいた時に、指導者から、「先づ学問先達にひとしくよき人となり、国家に知られ、天下に名誉せん事を教訓」(「随聞記」5−7)されたことに反発して建仁寺に移って禅の修行を始めた道元禅師から見ると、宋朝禅宗の有様は日本の朝廷と比叡山延暦寺のあり方と本質的に変わらないように見えたと思います。

 

また、看話禅の陣営と黙照禅の陣営との相互の論争というよりは、大慧禅師から黙照禅への一方的な攻撃だったようで、黙照禅から看話禅を攻撃した例は私が読んだ限りではありません。道元禅師のみが著作の中で大慧宗杲禅師をなぜあのように批判というより、むしろ攻撃するのか、考えたいと思います。こういうことはおそらく、今回の眼蔵会の講義の中では話せないと思いますが、その点についての自分の理解をある程度はっきりさせておく必要を感じています。

 

70歳を過ぎてから、一日一日があっという間に過ぎていくように感じます。今年ももう秋の彼岸が過ぎてしまったとは信じられないくらいです。また、体力の低下も顕著です。この10年ほどYMCAのメンバーになり、出来るだけ毎日通うようにしています。お寺からYMCAまで歩き、1時間ほどジムの中を歩いたあと、10−15分ほどストレッチをしています。通い始めた頃、三心寺からYMCAまで10分で歩けたのですが、最近は15分ほどかかります。途中にちょっとした坂道があります。つい最近まで感じなかったのですが、この頃上り坂を上りきると息が荒くなっています。ジムの中は真っ平らですので呼吸の乱れは感じませんが、それでも自分より年配の人か障害のある人以外にはどんどんと追い抜かれていきます。毎日のように「我は昔の我ならず」と感じています。私より12歳年上の秋山洞禅さんから、75歳でまたガクンと体力、気力、脳力が落ちると聞いております。どういうことになっていくのか、興味津々でもあります。

 

2019年9月27日

 

奥村正博 九拝