三心通信 2020年1月

 

元旦から少し寒くなったこともありましたが、概ね穏やかな天気が続いています。本格的な降雪はまだありません。むしろ、何回か雨が降りました。水分を十分に吸って苔庭の苔の緑が鮮やかです。

 

今年も正月1日と2日は年頭のご挨拶を書き、宛名書きと署名をし、封筒に住所を印刷し、投函する作業をして過ごしました。1993年ですから、30年近く前に日本からアメリカに移転してから、特に御用のない限り、日本の皆様には年頭のご挨拶と、暑中のお見舞いだけがつながりとなりました。毎年同じような味も素っ気もない文面の近況報告で、申し訳ありません。私の歩みの中の様々な局面でご縁があった方々、三心寺を創立する際に物心両面でご支援していただいた方々に、三心寺が今なお存続し、坐禅修行と仏法の参究を続けているということをお知らせさせていただくことは、私自身が糸の切れた凧になってしまうことを防いでくれています。

 

9日(木)夕方から12日(日)昼食までの接心には大体いつもどおり10名ほどの参加者がありました。今年も静かな接心で新しい年を始めることができて有り難いことでした。

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2016年に法光が副住職になって最初の2年間は、副住職はハーフタイム、あとの半分はオフィスでの仕事を担当してくれていました。2018年に事務仕事担当の人を雇用することができて、法光はフルタイムの副住職になりました。それ以降、接心の指導を担当し、毎朝の坐禅、朝課の導師を分担し、毎月のニュースレターを作成し、毎週木曜日のディスカッション・グループを指導し、アメリカ国内やヨーロッパ、南アメリカに在住する三心関係の道場と連絡をとって、三心禅コミュニティのネットワークを構築する仕事、ボード(理事会)のメンバーと緊密に連携して三心寺の運営を円滑に進めること、など多方面の活動をしています。

 

私が引退する2023年まで、7年間を住職交代の準備期間とする計画でしたが、丁度半分の3年半が経過しました。この移行期間の計画は順調に進んでおります。私が少しずつ退いていき、法光がサンガの指導者として認められるようになり、またお寺の運営を彼女の理想通りにしていける体制を作りつつあります。私はお寺の運営、経営、経済面には全く興味も関心も、知識も能力もないものですから、坐禅修行と仏教、道元禅師の宗乗の参究だけを進めてきました。1975年にバレー禅堂に行く際に、内山老師からお金や人を集めようとするな、静かに坐禅修行だけをするようにと言われたことを実践してきたつもりです。私自身も自分のミッションは内山老師から教えられたこと、日本で道元禅師の宗乗として学んだことをなるべく、何も足さず、何も引かず、そのまま伝えることだと考えておりました。私のやり方を受け入れるかどうか、受け入れた後、どう変えていくかは、私の弟子たちの仕事だと考えてきました。ですので、三心禅コミュニティは修行や宗乗の勉強の面では成長してきたものの、組織の運営面は余り進歩しないままでした。お寺の組織、運営面では、法光が本当の意味での創立者となることと思います。

 

Dogen Instituteでは、これまで私の講義のトランスクリプション、レコーディングしたものを編集しオンラインで入手可能にすること、三心寺の記念事業としての「生死法句詩抄」、Boundless Vows, Endless Practice の刊行など主に私の仕事をまとめ、人々に提供することを活動としてきました。現在、国際布教師でCedar Rapid Zen Center の住職である瑞光Redding 師に「正法眼蔵八大人覚」の解説の執筆をしていただいております。同じく国際布教師で、もとMilwaukee Zen Centerの住職だった洞燃O’Coner 師に私の良寛詩の講義と随筆、洞燃師と法光が昨年、越後の良寛さんゆかりの場所を訪問したおりの感想文、写真を一緒にして一つの本にする企画も進んでおります。他の禅センターで指導する人たちの協力も得て、一般の出版社が手を出さないような曹洞禅に関する本を作っていけるようにと願っています。印刷した本を自分たちで流通経路に載せなくても、オンデマンドにするか、電子書籍としてオンラインで提供することも可能ですから。こういう方面では私は役立たずなので、法光、Dogen InstituteのディレクターのDavid Thompson、その他の有志の人たちにお任せです。

 

新訳の「長円寺本・正法眼蔵随聞記」および「道元禅師和歌集」の英訳と解説とを合わせて一冊の本としてWisdom社から出版されることになりました。両方ともすでに原稿は出版社に送りました。2021年には出版される予定です。内山老師が「生命の実物」の中で紹介されたカボチャの話をもとに、子供のための仏教絵本を作る企画もDavid と有志の人たちの協力で作成されたものです。Wisdom社からSquabbling Squashesというタイトルで出版されることになり、契約を完了しました。

 

2月にはサンフランシスコ大学の哲学の教授がオーガナイズされるCoastal Zenというコンファレンスに参加します。初日には学生たちも参加するということで、一番最初に話をさせてもらうようにお願いしました。近年、あちらこちらの禅センターに行っても、参加者の大概は中年以上の人たちで、若いと言っても30歳台の人たちというのが普通です。今回は大学生に向かって話ができるので、なんとか聞いて興味を持ってもらえるような話にしたいと願っております。私が出家した70年代は安泰寺の雲水も大多数が20歳代でした。75年にアメリカに行った頃もほとんどが若い人たちでした。最近の若い人たちはすることが多すぎ、忙しすぎて、「何にもならない」坐禅をしている暇はないようです。

 

その後、21日から23日までの週末にIntro Dogen (道元入門)と題した週末のリトリートがあります。まだ眼蔵会で正法眼蔵を勉強する準備はできていない人たちのために、道元禅の基礎知識を提供するための講座です。道元禅師の教えの中の戒、定、慧について、基本的な知識と勉強の仕方などを話す予定にしています。

 

その2日後、2月25日からヨーロッパに行きます。今回はイタリア、ギリシア、フランス、イギリスの4カ国、5つのセンターを訪問し、法話や講義、接心をします。無事に責任を果たすことができるように願っております。

 

 

1月26日

 

奥村正博 九拝

三心通信 2019年12月

 

例年、クリスマスを挟んだ24日、25日、26日は休みにしております。今日はもはやクリスマス・イヴです。多くの人たちは家族に会いに旅行をしています。私たち家族にとっては、訪問者もなく、静かな休日です。この冬、2、3回雪が降りましたが、この数日は比較的暖かく、雪は日陰に少し残っているだけです。窓から見える空は青く澄んでいます。穏やかなクリスマスになりそうです。

 

11月30日から12月8日朝までの臘八接心は例年のように、10人ほどの人たちが参加しました。ドイツから、西海岸のベイ・エアリアやロスアンゼンルス、そしてシカゴ、アリゾナ、などから、1日14炷、坐禅だけの接心を坐るために仕事を休み飛行機に乗って、あるいは半日自動車を運転して来てくれる人たちには頭が下がります。この接心を続けている限り、三心寺は大きな禅センターになることはあり得ないと思います。しかし、誰も来なくなるということもないと思います。静かに坐禅だけ、つまり仏様と自分だけに向き合うことでのできる接心はあまり他所ではありませんので、いつでも少数の人たちは来てくれると思います。私としてはそれで十分です。もちろん、眼蔵会のように50人近くの人たちが来てくれれば、それに越したことはありませんが、おそらくそれは少なくとも当分の間はないでしょう。

 

先月の三心通信にも書きましたが、現在では副住職の法光が接心の指導を担当してくれています。私も坐りますが、指導者としてではなく、一参禅者としてです。いつものように、昼食後、YMCAに行って1時間ほど歩き、ストレッチをし、シャワーを浴びて2時頃にお寺に帰り、1時間ほど休息して禅堂に戻ります。ですので私は12炷しか坐れません。椅子に長時間坐っていて楽なのは膝だけです。上半身を尻と腰だけで支えなければならないので、足を組んで結跏あるいは半跏で坐っているよりも坐相のバランスを維持するのが難しく、腰が疲れます。長時間のフライトで、狭い座席に坐っていると下肢の血流が悪くなり、静脈に血栓ができて様々な問題が起きるエコノミークラス症候群というのがあるということですが、1日に14時間坐ると、インディアナポリスから、日本に飛行機でいくのと大体同じ時間坐っていることになります。7日間の接心では日本まで3回半往復するほどの時間になります。50分ごとに経行があり、上半身を真っ直ぐにしておくことが可能ですので、また、食事が機内食よりも随分ましなので、エコノミークラスの長時間のフライトほど苦痛ではありませんが、長時間座るのには、坐蒲の上で足を組んでいる方がずっと楽です。それでもとりあえず、7日の深夜12時まで坐ることができました。12月8日は私が得度して49回目の記念日でした。

 

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12月8日が日曜日だったので、成道会の法要は次の日曜日、15日になりました。昨年は道元禅師の成道会にちなむ漢詩について話しましたが、今年は再びパーリ語のニカーヤで釈尊が成道の前後で何が変わったかを話されているお経を取り上げました。サミュッタ・ニカーヤの2−57、英語訳ではPhases of the Clinging Aggregates, 増谷文雄さんの日本語訳では、「五取蘊の四転」と訳されています。釈尊は、「この生に取著する五つの要素の四つの変化の相を、既にあるがままに、十分に証知することをえた」だから「最高の正等覚を実現したと称するのである。」と言われています。4つの変化の相というのは、五蘊のそれぞれが何であるか、色の場合では、色とは何か、その生起、その滅尽、その滅尽に至る道を如実に知ることです。これは四聖諦の苦、苦の原因、苦の滅、苦の滅に至る道と同じ論理だと思います。釈尊の成道が五取蘊つまり私たちの身体と心の働きをそのままに見る、そして私たちの身体と心のそれら自身への取著から解脱することだということは、釈尊の悟りが現在の私たちとは無関係なものではないことが分かります。私たちも釈尊と同じ五蘊(身体と心)なのですから。

 

臘八接心が終わってから、来年の眼蔵会の準備のために「正法眼蔵無情説法」の翻訳をしました。5月の眼蔵会には「諸法実相」を参究する予定ですが、「諸法実相」は十年ほど前に一度眼蔵会でしたことがありますので、英語訳は既にあります。「無情説法」は8月のサンフランシスコ禅センターでの眼蔵会で参究する予定です。11月の眼蔵会では「仏経」の巻を読もうと考えております。これはまだ翻訳しておりませんので、これから訳さなければなりません。

 

「無情説法」英訳の第1稿ができてから、曹洞宗国際センターのニュースレター「法眼」に連載している「正法眼蔵」の解説の続きとして、「観音」の巻の解説の第1回を書いています。この連載では以前の眼蔵会の講義のトランスクリプションに加筆訂正しているのですが、ほとんど全面的に書き直さなければならず、思ったよりも時間がかかりました。その第1稿ができたもので、この三心通信を書いております。もう少し寝かしてから、再度点検して、英語を添削してくれる弟子の正龍・ブラッドレイに送ります。

 

また一年が過ぎてしまいました。お寺の運営や坐禅その他の活動のことは副住職の法光やその他の人たちが中心になってやってくれていますので、私は自分の坐禅と、講義の準備、翻訳や原稿書きが主な仕事になっています。ですので、反省するべきことも、自分の仕事が随分と遅くなっていることと、知識や理解が曖昧で、しょっちゅう調べ直さなければならないこと、相変わらず下手な英語しか使えないことくらいです。若い頃と違って、いくら努力してもこれらが改善される可能性はほとんどありませんので、あきらめて、受け入れる意外にしようがありません。

 

来年は2月末からほぼ1ヶ月、ヨーロッパの4カ国を訪問し、5つのセンターで話をしたり、接心をしたりする予定です。体力が続くように願っております。

 

 

2019年12月24日

 

奥村正博 九拝

 

 

 


三心通信 2019年11月

 

11月6日(水)夕方から11日(月)昼食まで5日間の眼蔵会がありました。眼蔵会が円成した日の午後から雪が降るということで、ミネソタ州ミシガン州など北の方から自動車で来た人たちの中には、昼食も食べずに帰りを急いだ人たちもありました。ブルーミントンでは降雪量は大したことはありませんでしたが、夕方までには雪景色になっておりました。気温が低いので、その雪が今日(14日)に至るまであちらこちらに残っております。眼蔵会の間に晩秋は終わり、冬が到来いたしました。木々の葉は全て散ってしまい、今日は青空が大きく広がっています。

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今回の眼蔵会は17年以来はじめてブルーミントン市内にあるTMBCC (Tibetan Mongorian Buddhist Culture Center)の施設を借りて行いました。三心寺で行うには禅堂、食堂、台所、洗面所などの関係で22名が受け入れの限度ですが、今回は50名近くの参加者がありました。TMBCC内で宿泊する人たち、三心寺の禅堂やドームで宿泊する人たち、市内のB&Bなどに宿泊して通う人たちと様々でした。アメリカ国内の西海岸、東海岸ミネソタ州フロリダ州、カナダからの人たち、それにヨーロッパのドイツ、オーストリア、オランダから4人の人たち、また昨年の11月の眼蔵会に引き続いて4人の曹洞宗のお坊さんたちが日本からこられました。それぞれお寺を持ち、お忙しい中で、眼蔵会が始まる日に日本から到着し、最終日の講義が終わってすぐに、昼食も食べずにインディアナポリスの空港に出発するという強行日程で参加されました。幸か不幸か、悪天候のせいで帰りのフライトがキャンセルされ、ブルーミントンに戻ってこられたので、何人かの参加者たちとも一緒に夕食をとり、少し話をすることもできました。それにしても時差呆けと戦いながらの坐禅や英語の講義の聴講は大変な苦行だったと思います。

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「説心説性」の巻で道元禅師が書かれている論点をアメリカの人たちに理解してもらうために、ダンマパダからはじめ、パーリのニカーヤでの自性清浄心、そして大乗経典、如来蔵系統の経典、そして「楞伽経」、「起信論」、「円覚経」、「首楞巌経」に至るまでの唯識のアラヤ識と如来蔵心を結びつけた「心」と「心性」についての理解の仏教思想史のなかでの変遷、そして中国禅の中でのその受容について最初の3回の講義で話しました。それから「説心説性」の本文に入ったので、正直5日で全巻読めるかどうか疑問でしたが、なんとか終えることができました。

 

私が言いたかったのは、南宋の看話禅と黙照禅は理論的な基礎はどちらも「起信論」の本覚と始覚の構造の上に置かれているのに対して、道元禅師の教えはその基礎を釈尊から龍樹につながる非有非無の「中道」と「法華経」の諸法実相の縁起論に置かれているのではないかということでした。

 

それにつけても、体力の減退を感じさせられました。夜よく眠れればいいのですが、夜中に目が覚めて眠れなかった次の日には、一日中頭がボーッとしていて、丁度時差ぼけの最中のような状態になってしまいます。自分と外の世界との間にうすい膜があるようで、何か起こっていることにも、自分がしている行動や会話にもう一つ現実感がないのです。眼蔵会や接心の直後は、頭脳が全く機能しない感じです。

 

11月14日

 

以上を書いてから約2週間が経ちました。あの時の雪が溶けてからは比較的暖かい日が続いていますが、ブルーミングトンの街は初冬の風景です。今年はサンクスギビングの休日が遅く、今週の28日(木)になります。例年、サンクスギビングと次の日は坐禅も休みにしています。そのあと、30日(土)の夕方から7日間の臘八接心が始まります。例年、今年も全部坐れるかどうか気になって、一年中で一番緊張する時期なのですが、今年から副住職の法光が接心を担当してくれていますので、私は一参禅者として参加します。つまり、私が坐れなくてギブアップすることになったとしても、接心は問題なく続いていくということですので、昨年までとは緊張の度合いがやや違います。しかし、今年は1970年の12月8日に出家得度を受けてから49回目、その年の接心も含めれば50回目の臘八接心ですので、最後まで坐れるようにと願っております。

 

 

2019年11月26日

 

奥村正博 九拝

 

 


三心通信 2019年10月

 

日本では、台風の水害で多大な被害が出たとのこと、お見舞いを申し上げます。被災された人々の生活が早く元に戻るように願っております。

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当地では今年の秋もたけなわをやや過ぎた感じです。気温が下がったのと、昨日強い風を伴った雨が降って、大量の落葉がありました。添付した写真でご覧の通り、苔庭の苔が見えなくなるほど、いろんな色の落ち葉が地面を覆っています。「地に敷く錦」という感じです。これから境内の落ち葉掃きが大変です。

 

10月は、11月6日から始まる眼蔵会の準備に専念するために朝の坐禅も免除してもらっています。先月の通信にも書きましたが、今回は「説心説性」の巻を参究します。深草興聖寺を捨てて、越前に移転され、まだ新しい寺院もなく、吉峯寺や禅師峯で仮住まいをされていた頃に書かれたものです。示衆の日時は書かれてありませんが、75巻本では、先回、5月の眼蔵会で参究した第41巻「三界唯心」に続く第42巻になっています。大慧宗杲禅師を批判されるはじめての巻ですので、「説心説性」の巻の本文に入る前に、宋代の禅宗、特に大慧宗杲の看話禅と宏智正覚や真歇清了の黙照禅との対論、その歴史的背景の勉強から準備を始めました。およそ1ヶ月それに集中したのですが、本文の勉強を始めてから、それは徒労だったと悟りました。

 

大慧禅師が批判した「説心説性」している人たちというのは、曹洞宗で黙照禅の修行をしてい人たちではないように思えるからです。石井修道先生は「宋代禅宗史」に大慧禅師の「普説」を引いておられます。「学人を静坐させる者は、それゆえに悟門を説かない。さらに心と説き性ととく者も、悟門を説かないし、、、、」以下、5種類の人たちを揚げて、その人たちは悟り経験の必要性を説かないと批判しているのですが、最初の静坐させる人というのは黙照禅の指導者達だということは明白ですが、それと第2類の人たちとは別のグループだと思われます。「説心説性」のなかで道元禅師は大慧禅師の「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり」、という言葉を取り上げて批判されるのですが、黙照禅の修行者が得道するために、「説心説性をこのむ」ということはあり得ないことでしょう。黙して坐れば、それがそのまま照(証、「性」の発現)と信じて坐っている人たちが「心」とは何か、「性」とは何かと議論する必要はないからです。

 

もう一つは、よく言われることですが、ここでの大慧禅師の説心説性を批判する言葉は、道元禅師が以前に自分の文章の中で言われていたのとほとんど同じなのです。例えば、「学道用心集」(6)参禅可知事に、「首楞巌経」の文を引用して以下のように言われます。

「釈迦老子云、観音入流亡所知。即之意也。動静二相了然不生、即之調也。」

 

また同書(8)「禅僧行履事」にも趙州無字の公案を引いて、

趙州僧問、狗子還有仏性也無、趙州云、無。於無字上擬量得麼、擁滞得麼、全無巴鼻。請試撤手、且撒手看。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何。看来看去、自然動静二相了然不生。此不生時、不是頑然、無人証之、迷之惟多。参学人、且半途始得、全途莫辞。祈祷祈祷。

 

永平広録第1巻「上堂96」、同じく第8巻の法語5、11にも、説心説性を否定する言葉があります。1240年に書かれた「山水経」でも、「見性」と並んで「説心説性」が否定されています。

 

国際禅学研究所の「研究報告第3冊」での、松岡由香子さんのご指摘によると、「二相不生」ということを大慧禅師は言ったことがないとのことです。「もしかりに二相不生という表現あるいは内実があやまりなら、道元自身が自己批判すべきではなかろうか。、、、『説心説性』での大慧批判は、道元の勝手な思い込みというほかない。」「まず、確認すべきは、道元のこの大慧批判は、すでにあきらかにしたように事実の錯認であるということだ。」というお言葉にもうなずけるものがあります。

 

大慧禅師が黙照禅を攻撃しているのではないのに、道元禅師はどうして大慧の「説心説性」に対する批判説を批判しなければならなかったのか?今でもよく分かりません。あと十日足らずで眼蔵会が始まるのに、どうすればいいのか、思案に暮れています。

 

もう一つ気がついたのは、この巻に取り上げられる、洞山と僧密師伯との説心説性の問答も、達磨と二祖慧可の問答も、「祖堂集」(952)や「景徳伝燈録」(1004)などの古い灯史には存在せず、「宗門統要集」(1133)、「宗門連燈会要」(1189)などに初めて出る話だと言うことです。ですからこれらの公案についてのコメントも南宋の圜悟や大慧の否定的見解以前のものは見つけることができませんでした。道元禅師がこの巻を書かれた意図の一部分は、洞山大師や慧可大師の「説心説性」を救い出したいと言うことではなかったかとも思いました。

 

普通は、週5日、月曜日から金曜日まで午前四時半におきて、五時から七時まで坐禅、そのあと、略朝課と掃除がありますので、朝食を食べて、仕事を始めるのはどうしても9時前後になります。10月中は、早朝の坐禅を免除されていますので、今月はなるべく6時半までに起きて8時には仕事が始められるように努力しています。午前中眼蔵会の準備の仕事をして、昼食後に昼寝、そのあと、寝床の中で参考になる本を読み、3時頃に起き上がってYMCAに行って運動。4時半から5時ごろに帰宅して風呂に入り、一休みして夕食。夕食後は午前中の仕事のまとめをして、9時過ぎくらいには寝床に入ると言う、きわめて静かな生活です。

 

2019年10月27日

 

奥村正博 九拝

三心通信 2019年9月

 

今年も早、秋のお彼岸が過ぎてしまいました。木々は少しづつ、紅葉、黄葉を始めています。毎年のように地面は落ち葉に覆われ始めました。いくら掃き掃除をしても次の日に見ると元通りになっています。胡桃の木はすでに半分以上落葉し、実もあらかた地面に落ちています。リスたちがこれまた例年通りあちらこちら走り回っては、胡桃の実をくわえて走り回っています。毎年見る同じ風景ですが、毎年新鮮に感じるのは、こちらの年齢や体力、知力、考えること、気になることが変わっているからなのでしょう。

 

9月の3日間の接心は、5日(木曜日)午後6時の夕食から始まりました。8人の参加者がありました。金曜日と土曜日は朝4時から夜9時まで14炷の坐禅、8日(日曜日)は午前11時まで差定通り坐りました。開静のあと、禅堂その他の清掃、各自の荷物の整理などがあり、11時30分からミーティングがありました。参加者の一人一人に今回の接心の感想を聞かせてもらいました。私の感想は、1969年の正月の接心にはじめて安泰寺の接心を坐らせてもらってから50年が経ちましたが、その間、この接心が楽だと思ったことは一度もなかたということでした。20歳代は20歳台なりの問題を抱え、71歳になった今でも、それなりの問題を抱えながら、それでも坐禅に任せて、3日なり5日なりを坐ってきました。私の今回の人生はただそれだけだったという気がしています。

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良寛についての文章を書き終えてからは、十一月の眼蔵会で参究する「正法眼蔵説心説性」の下準備として宋代の禅宗、特に大慧宗杲の看話禅と宏智正覚や真歇清了の黙照禅との対論、その歴史的背景の勉強を始めています。「説心説性」で道元禅師は大慧の「説心説性」についての発言を強い言葉で批判しているからです。書棚から鏡島元隆先生、石井修道先生などの学術書を取り出して久しぶりに目を通しました。英語ではMarten Schlutter という学者のHow Zen Became Zan: The Dispute over Enlightenment and the Formation of Chan Buddhism in Song-Dynasty Chinaを無理無理読み通しました。エール大学でStanley Weinstein先生の教えを受け、駒澤大学で石井修道先生の指導を受けた人です。私の安泰寺以来の友人であり、私をブルーミントンに来るようにと声をかけてくれた、John McRaeさんともWeinstein先生のもとでの同門になります。Weinstein先生には、宗務庁の宗典翻訳委員会の会議でなんどもお目にかかりました。

 

同書で議論されている基本的資料は石井修道先生の「宋代禅宗史の研究」や「道元禅の成立史的研究」にすでにあるものでしたが、大慧や宏智その他の人たちの言説を英語訳で読めるので助かりました。中国語の原文や日本語の書き下しや現代語訳で読んで理解したつもりになっても、それを英語にどう訳し、説明すればいいのか、途方にくれるばかりですから。特に、宋代の禅宗がどれだけ時の政治権力と密接に結びつき、支持されていたと同時に支配されていたかが改めてわかりました。看話禅と黙照禅の対立も単に宗学的な、あるいは修行方法についての理念的、実践的な論争ではなくて、一面からいえば、士大夫階級の人たちをどちらがより多く取り込めるかの競争だったということが理解できました。大慧や宏智からおよそ一世紀足らずあと、臨済宗の看話禅が一人勝ちしてしまった後で入宋した20代の道元禅師に、その当時の中国の禅宗がどのように見えたのか、勉強を続けます。比叡山にいた時に、指導者から、「先づ学問先達にひとしくよき人となり、国家に知られ、天下に名誉せん事を教訓」(「随聞記」5−7)されたことに反発して建仁寺に移って禅の修行を始めた道元禅師から見ると、宋朝禅宗の有様は日本の朝廷と比叡山延暦寺のあり方と本質的に変わらないように見えたと思います。

 

また、看話禅の陣営と黙照禅の陣営との相互の論争というよりは、大慧禅師から黙照禅への一方的な攻撃だったようで、黙照禅から看話禅を攻撃した例は私が読んだ限りではありません。道元禅師のみが著作の中で大慧宗杲禅師をなぜあのように批判というより、むしろ攻撃するのか、考えたいと思います。こういうことはおそらく、今回の眼蔵会の講義の中では話せないと思いますが、その点についての自分の理解をある程度はっきりさせておく必要を感じています。

 

70歳を過ぎてから、一日一日があっという間に過ぎていくように感じます。今年ももう秋の彼岸が過ぎてしまったとは信じられないくらいです。また、体力の低下も顕著です。この10年ほどYMCAのメンバーになり、出来るだけ毎日通うようにしています。お寺からYMCAまで歩き、1時間ほどジムの中を歩いたあと、10−15分ほどストレッチをしています。通い始めた頃、三心寺からYMCAまで10分で歩けたのですが、最近は15分ほどかかります。途中にちょっとした坂道があります。つい最近まで感じなかったのですが、この頃上り坂を上りきると息が荒くなっています。ジムの中は真っ平らですので呼吸の乱れは感じませんが、それでも自分より年配の人か障害のある人以外にはどんどんと追い抜かれていきます。毎日のように「我は昔の我ならず」と感じています。私より12歳年上の秋山洞禅さんから、75歳でまたガクンと体力、気力、脳力が落ちると聞いております。どういうことになっていくのか、興味津々でもあります。

 

2019年9月27日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2018年8月

 

8月も下旬に入り、朝夕は涼しくなりました。毎年のことですが、胡桃の木が身をつけ始め、葉っぱも色づき始めました。気の早い胡桃の実は早地面に落ち始めました。境内の木々に住み着いているリスたちが胡桃を集めて、地面に穴を掘って隠す作業を始める時期です。先日、近くの公園を散歩していると、野球のグラウンドに20羽ほどの雁の一群が、休息していました。渡りの途中なのでしょう。生き物の世界ではすでに季節が動いているようです。

 

今月9日から14日まで家内と一緒にミネソタに行きました。主な目的は私の弟子の正道・SpringがはじめたMountains and Waters Zen Communityの農場でのリトリートに参加することでした。正道は2005年に私から出家得度を受け、5年間三心寺で修行して、嗣法したあと、ミネソタ州ミネアポリスから自動車で1時間ほどのところに17エーカーの農場を買い、Mountains and Waters Zen Allianceとして活動しています。私の「正法眼蔵山水経」の講義をもとにしたMountains and Waters Sutraの本をエディットしてくれた人です。弟子とはいえ私と同じ年齢です。

今回のリトリートは Land Care Retreatと呼ばれました。自然の中で、自然に学び、自然を世話する中で、坐禅を行じていこうという趣旨でした。早朝の坐禅と朝食の後、およそ2時間、それぞれ、自然の中を歩き(walking meditationとよばれました)、そのあと正道が短時間話をし、感じたことをグループに分かれて話し合いました。昼食前に1炷の坐禅をし、午後は作務がありました。

 

夕食後、私が「山水経」へのイントロダクションとして蘇東坡の「盧山の詩」と「永平広録」から宏智禅師と道元禅師の偈の話をしました。先月バレー禅堂でした話と同じ内容になりました。「山水経」はかなり長く、美しい文章ですが、わかりづらい内容ですので、基本的に何について書かれているのかを説明するのに、これらの3つの詩は便利だと思います。

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日曜日にリトリートが終わった後、家内と私はミネアポリスに行き、水曜日まで友人宅に宿泊させていただきました。片桐大忍老師の奥様、智枝さんにお会いしました。87歳になられて、片方の眼が半分見えないということでしたが、それ以外はお元気そうでした。

 

ミネアポリスから帰ってからは、先月書きました良寛詩の本のために、道元禅師と良寛さんについての原稿を書きました。良寛さんの仏教と当時の宗門の状況についての、基本的な考えを知るために、これまであまり英語では読まれていなかった「僧伽」「唱導詞」「読永平録」という3つの長い詩を訳し、それらについての解説を書きました。予定よりも随分長く30ページほどになりました。

 

最近あまり良寛について考えたことがなかったので、今回の文章を書くために「良寛全詩集」「良寛全歌集」をはじめ30冊ほどある日本語の良寛についての本と、10冊ほどある英語の本のほとんどに、精読する時間はありませんでしたが、目を通しました。もう一度良寛を見直すことができてありがたい機会でした。

 

 

 

2018年8月23日

 

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 三心通信 2018年7月

 

例年通り7月3日から8日までの禅戒会で4月8日から始まった3ヶ月の夏期安居が円成しました。今年は副住職の法光が禅戒会リトリートを指導し、最終日に授戒の戒師を勤めました。今年から2023年までの間、私と法光が1年おきに戒師を担当することになりました。私が住職から退き法光が引き継ぐ際に、法光から受戒し、法光を師とする人たちがいた方が、引き継ぎが円滑に進むだろうと考えたからです。今年は5人の人が法光から受戒して仏弟子となりました。来年はまた私が戒師を勤めます。

 

先年遷化した海鏡の弟子になることが決まっていた3人のうちヨーロッパの2人は法光が師僧となりました。一人はドイツ人の女性ですでに別の師匠から出家得度を受け、日本の僧堂にも安居していたのですが、尼僧堂で出会った海鏡の弟子になることを願い師僧替えの手続きをすることになっていました。今年の冬にアイオワ州の龍門寺の冬安居で首座を務めて法戦式を済ませ、師僧替えの手続きも完了しました。時期が来れば法光から嗣法することになります。もう一人はオーストラリア人の男性です。今年の3月に法光から出家得度を受けました。この二人はヨーロッパで協力しながら活動していきます。

 

海鏡はアメリカ人を父親とし、ベネズエラ人を母親として生まれました。坐禅を始めたのはベネズエラにおいてでした。ヨーロッパで活動された弟子丸泰仙師から出家得度を受け、嗣法もせず、宗門の教師資格も持たない人を師匠とし、出家得度を受けたのですが、アメリカ合衆国に移転して活動するうちに、それではダメだと思って私の弟子になりました。ベネズエラのサンガの人たちが曹洞禅のコムニティの一部として活動ができるようにするために曹洞宗の教師資格を取り、ベネズエラのサンガの人たちをより大きな曹洞禅の輪に入れたいと願っておりました。その中の一人が海鏡から出家得度を受けることが決まっていたのですが、海鏡のあまりにも早い遷化によって不可能になりました。この人は、ベネズエラの隣国コロンビアで活動している私の弟子の伝照に出家得度を受けることができました。先週のことです。早すぎた遷化で頓挫していた海鏡の誓願が実現したことを喜んでおります。

 

 19日から22日までマサチューセッツ州のバレー禅堂を訪問しました。1976年から1981年まで5年間住んだところです。1974年に市田高之さんがニューイングランドの森の中に5エーカーの土地を得て禅堂の建立を始められました。1975年内山老師が安泰寺から引退された年の12月、私と池田永晋さんがアメリカに出発しました。数週間カリフォルニアに滞在し、南部諸州を通って自動車でマサチューセッツまで旅行しました。バレー禅堂についたのは1976年の1月だったと思います。

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それから、高之さん、永晋さんと私、日本人の雲水3人が、森の中の何にもない土地を住めるようにするために屯田兵のような生活が始まりました。木を切り、根っこ掘りをし、畑を作るのが最初の作務でした。春の雪解け時から夏までかかりました。自然の真っ只中で生活するのは、都会育ちの私には初めてで、しんどいけれども楽しいことでした。5年ほどそのような生活をする間に、私は身体のあちこちが痛くなり、治療する費用もなかったので、1981年に日本に帰りました。

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今回の訪問は、15年ほど前に、それまで17年間バレー禅堂におられた藤田一照さんが日本に帰られる直前にお会いしに行った時以来でした。それまで長年ボストンに住まわれていた池田永晋さんが一照さんの後、バレー禅堂に復帰して今までずっと住職として坐禅指導をされています。40年ほども前に私たちが建てた坐禅堂がいまでも存在し機能していること、また、その当時一緒に建設の仕事をし、共に坐っていた何人かの人たちが今でも坐り続けていることに感銘を受けました。

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21日の日曜日の坐禅会に私は、昨年刊行された「山水経」の解説書 Mountains and Waters Sutraの紹介をかねて、蘇東坡の盧山の詩と、「永平広録」第9巻の「頌古」90則の第25則に引用されている宏智禅師の蘇東坡の詩を下敷きにした偈とそれについての道元禅師の偈頌について話しました。ニューヨーク市から小山一山さんのグループの人たち10人が来ておられて、合計40名ほどの人が集まり、小さな禅堂は満員になりました。

 

22日の月曜日に、永晋さんともう一人の人に送っていただいてボストンの空港に着きましたが、予定のフライトは悪天候のためにキャンセルになっており、ホテルもいくつかチェックしましたが全部満室か、宿泊費が高すぎるかで泊まることができず、やむなく空港で一夜を過ごして、翌23日に三心寺に帰り着きました。2、3日休んでようやく仕事をする気力が出てきたところです。

 

長円寺本「正法眼蔵随聞記」の英語訳は、原稿を作成する作業が終わり、Wisdom社に提出しました。こちらで原稿作成をしてくれていた道樹は大学院を1年休学して、6月から2ヶ月の予定で横浜の学校で日本語を勉強するために出発しました。そのあと、8月から岡山の洞松寺僧堂に6ヶ月間安居させていただく予定です。

 

道元禅師和歌集」の英訳と解説の加筆訂正は今まで、弟子の浄瑩に英語の添削をしてもらっていましたが、来週にも完成します。そのあと出版社を探すことになります。

 

私が随分前に、バークレーの禅センターでした良寛の詩についての講話をトランスクリプトしたものを基礎にして、ミルウォーキー禅センターの前の住職だった洞燃師がエディットしてくれています。洞燃師がこの5月に日本に行き、新潟県良寛に関係のある土地を訪ねた旅についてのエッセイと、その時の写真と、洞燃師のお弟子さんの絵画を素材にして本を作り、Dogen Instituteから刊行しようとするプロジェクトも進んでいます。他の材料はすでに準備ができているのですが、私の道元禅師と良寛さんについての章を今書き足しているところです。

 

 

2019年7月26日

 

 

 

奥村正博 九拝