三心通信 2018年7月

 

例年通り7月3日から8日までの禅戒会で4月8日から始まった3ヶ月の夏期安居が円成しました。今年は副住職の法光が禅戒会リトリートを指導し、最終日に授戒の戒師を勤めました。今年から2023年までの間、私と法光が1年おきに戒師を担当することになりました。私が住職から退き法光が引き継ぐ際に、法光から受戒し、法光を師とする人たちがいた方が、引き継ぎが円滑に進むだろうと考えたからです。今年は5人の人が法光から受戒して仏弟子となりました。来年はまた私が戒師を勤めます。

 

先年遷化した海鏡の弟子になることが決まっていた3人のうちヨーロッパの2人は法光が師僧となりました。一人はドイツ人の女性ですでに別の師匠から出家得度を受け、日本の僧堂にも安居していたのですが、尼僧堂で出会った海鏡の弟子になることを願い師僧替えの手続きをすることになっていました。今年の冬にアイオワ州の龍門寺の冬安居で首座を務めて法戦式を済ませ、師僧替えの手続きも完了しました。時期が来れば法光から嗣法することになります。もう一人はオーストラリア人の男性です。今年の3月に法光から出家得度を受けました。この二人はヨーロッパで協力しながら活動していきます。

 

海鏡はアメリカ人を父親とし、ベネズエラ人を母親として生まれました。坐禅を始めたのはベネズエラにおいてでした。ヨーロッパで活動された弟子丸泰仙師から出家得度を受け、嗣法もせず、宗門の教師資格も持たない人を師匠とし、出家得度を受けたのですが、アメリカ合衆国に移転して活動するうちに、それではダメだと思って私の弟子になりました。ベネズエラのサンガの人たちが曹洞禅のコムニティの一部として活動ができるようにするために曹洞宗の教師資格を取り、ベネズエラのサンガの人たちをより大きな曹洞禅の輪に入れたいと願っておりました。その中の一人が海鏡から出家得度を受けることが決まっていたのですが、海鏡のあまりにも早い遷化によって不可能になりました。この人は、ベネズエラの隣国コロンビアで活動している私の弟子の伝照に出家得度を受けることができました。先週のことです。早すぎた遷化で頓挫していた海鏡の誓願が実現したことを喜んでおります。

 

 19日から22日までマサチューセッツ州のバレー禅堂を訪問しました。1976年から1981年まで5年間住んだところです。1974年に市田高之さんがニューイングランドの森の中に5エーカーの土地を得て禅堂の建立を始められました。1975年内山老師が安泰寺から引退された年の12月、私と池田永晋さんがアメリカに出発しました。数週間カリフォルニアに滞在し、南部諸州を通って自動車でマサチューセッツまで旅行しました。バレー禅堂についたのは1976年の1月だったと思います。

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それから、高之さん、永晋さんと私、日本人の雲水3人が、森の中の何にもない土地を住めるようにするために屯田兵のような生活が始まりました。木を切り、根っこ掘りをし、畑を作るのが最初の作務でした。春の雪解け時から夏までかかりました。自然の真っ只中で生活するのは、都会育ちの私には初めてで、しんどいけれども楽しいことでした。5年ほどそのような生活をする間に、私は身体のあちこちが痛くなり、治療する費用もなかったので、1981年に日本に帰りました。

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今回の訪問は、15年ほど前に、それまで17年間バレー禅堂におられた藤田一照さんが日本に帰られる直前にお会いしに行った時以来でした。それまで長年ボストンに住まわれていた池田永晋さんが一照さんの後、バレー禅堂に復帰して今までずっと住職として坐禅指導をされています。40年ほども前に私たちが建てた坐禅堂がいまでも存在し機能していること、また、その当時一緒に建設の仕事をし、共に坐っていた何人かの人たちが今でも坐り続けていることに感銘を受けました。

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21日の日曜日の坐禅会に私は、昨年刊行された「山水経」の解説書 Mountains and Waters Sutraの紹介をかねて、蘇東坡の盧山の詩と、「永平広録」第9巻の「頌古」90則の第25則に引用されている宏智禅師の蘇東坡の詩を下敷きにした偈とそれについての道元禅師の偈頌について話しました。ニューヨーク市から小山一山さんのグループの人たち10人が来ておられて、合計40名ほどの人が集まり、小さな禅堂は満員になりました。

 

22日の月曜日に、永晋さんともう一人の人に送っていただいてボストンの空港に着きましたが、予定のフライトは悪天候のためにキャンセルになっており、ホテルもいくつかチェックしましたが全部満室か、宿泊費が高すぎるかで泊まることができず、やむなく空港で一夜を過ごして、翌23日に三心寺に帰り着きました。2、3日休んでようやく仕事をする気力が出てきたところです。

 

長円寺本「正法眼蔵随聞記」の英語訳は、原稿を作成する作業が終わり、Wisdom社に提出しました。こちらで原稿作成をしてくれていた道樹は大学院を1年休学して、6月から2ヶ月の予定で横浜の学校で日本語を勉強するために出発しました。そのあと、8月から岡山の洞松寺僧堂に6ヶ月間安居させていただく予定です。

 

道元禅師和歌集」の英訳と解説の加筆訂正は今まで、弟子の浄瑩に英語の添削をしてもらっていましたが、来週にも完成します。そのあと出版社を探すことになります。

 

私が随分前に、バークレーの禅センターでした良寛の詩についての講話をトランスクリプトしたものを基礎にして、ミルウォーキー禅センターの前の住職だった洞燃師がエディットしてくれています。洞燃師がこの5月に日本に行き、新潟県良寛に関係のある土地を訪ねた旅についてのエッセイと、その時の写真と、洞燃師のお弟子さんの絵画を素材にして本を作り、Dogen Instituteから刊行しようとするプロジェクトも進んでいます。他の材料はすでに準備ができているのですが、私の道元禅師と良寛さんについての章を今書き足しているところです。

 

 

2019年7月26日

 

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 



三心通信 2019年6月


五月の後半から六月にかけて雨の日が多く、ジメジメとした天気が続いています。あっという間に清々しい新緑から、むしろ圧迫されるような深緑へと代わりました。おかげで、裏の苔庭は緑が綺麗で、まだ一度も水やりの必要を感じていません。境内には例年通り夕方になると蛍が飛びかうようになりました。昨年から、芝生の部分を少なくして、境内の半分くらい、この辺りに野生している草花を育てようとしています。冬の間にタネを蒔いたのですが、まだ雑草しか出ていません。

六月は例年通り5日間の接心から始まりました。1969年の一月に最初に安泰寺の接心をすわらせていただいてから、50年が経ってしまいました。22日に71歳になりましたが今でも曲がりなりにも接心ができることを感謝しています。ここ数年、膝の痛みのために足を組んで座れなくなりましたので、椅子坐禅です。椅子で坐るのが楽なのは膝だけで、一点で上半身を支えなければなりません。足を組んで座るときには、両膝と尻の3点で支えることができるので安定するのですが、バランスを取るのが難しく、またどうしても腰に負担がかかります。それで、昼食後すぐにYMCAに行き、1時間ほど歩き、ストレッチをし、シャワーを浴びて、午後2寺頃にお寺に戻り、3時まで休憩するようにしています。一日14炷のところ12炷だけ坐ることになります。それでも、5日間の接心が終わると、エネルギーの備蓄が完全に空っぽになります。2、3日何をする気力も出てきません。完全燃焼したようなもので、悪い気分ではありませんが、その間全く使い物になりませんので、他の人たちに申し訳なく思っています。

これでも坐らないよりましだろうと居直っています。私は内山老師のように、坐れないときには「南無観世音菩薩」の称名でいくということができません。椅子坐禅でも、一緒に坐っている人たちの邪魔になっているなと感じるまでは坐り続けようと願っています。もうそれほど長い年月がのこっているわけではありませんので。それにしても、アメリカに来てから25年以上経ちますが、今も、一緒に「正法眼蔵」の参究をし、坐禅を共に行じてくれる人があることを有り難く感じています。

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接心が終わった次の日曜日には、サンガ・ワーク・ディとして朝8時から1炷坐り、9時から5時まで、境内の整備、掃除、その他の作務をしました。15、16日の週末に首座法戦式があり、カリフォルニアから秋葉総監老師に助化師としてご来山いただき、その他の人々も各地から来てくれるからです。ニューヨークから小山一山さんのグループが合計4人、首座である黙祥Depreayの奥さんであるフランソワさんがベルギーから来られて1週間ほど滞在しました。フランスやポーランドからの人たちもありました。

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今回の法戦式の本則は「従容録」第2則「達磨廓然」でした。日本では法戦式の本則は「達磨廓然」が多いように思いますが、三心寺では、これまでほとんど毎年法戦式をしていますが、この則を取り上げるのは初めてでした。毎年、首座に本則を選んでもらっています。15日の本則行茶のときには、いつもどおり私が提唱をしました。「無功徳」「廓然無聖」「不識」は澤木老師の「何にもならない坐禅。Zazen is good for nothing.」の淵源ですので、耳にタコができるほどに聞かされている人たちには多くの説明は必要ないようでした。

秋葉総監老師は、本年総監部の書記の方がたには他の用事があるとのことで、お一人でおいでになりました。また、16日午後のフライトでカリフォルニアに帰らなければならないとのことで、昨年と同じく法戦式が終わり、集合写真を撮影すると、昼食も取らず、すぐにインディアナポリスの空港に出発されました。天平山の僧堂建立のためにご多忙のところ遠路お出でいただいて申し訳なく、ありがたく存じました。

7月に3日から8日まで、夏季安居最後の行事の禅戒会があります。例年通り、最終日には受戒の式があります。今年は副住職の法光が戒師になりますので、禅戒の講義も法光が担当します。これから私が引退する2013年まで私と法光が交代で戒師を務める予定にしております。法光が住職になったときに彼女から受戒した人たちがいるほうが、世代の交代をスムーズになるだろうと考えました。今回は5人の人が受戒します。

ミルウォーキー禅センターの前の住職だった洞燃・O’Connorさんに、私が何年も前にバークレイ禅センターで行なった良寛さんのいくつかの漢詩、和歌についての講義のトランスクリプションをしていただきました。それと、洞燃さんご本人がこの5月に新潟の良寛さんと関係のある場所を訪ねた経験について書いたもの、そしてそのときに撮影した写真を合わせてDogen Instituteから刊行することになりました。そのプロジェクトのために私は、「道元禅師と良寛さん」についてと、「良寛さんと子供たち」についてと2章書き加えることになりました。そのために良寛に関する本と、「全歌集」、「全詩集」を読み返しております。


先週の日曜日に私は71歳になりました。中期高齢者と言うのでしょうか。内山老師が最晩年に描かれた、「老いからの現地報告」が自分のこととして理解できる適齢期に入りました。

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                        ミネアポリスからの友人に受衣作法

 


6月27日

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 


三心通信 2019年4月、5月

 

五月も末になり、ブルーミントンの街は木々の緑に覆われています。春先からずっと雨が多く、温度も低くかったのですが、この数日ようやく初夏の日差しになり、外を歩くと汗ばむようになりました。庭の花壇には、芙蓉やジャーマン・アイリスなどの大きな花が咲いています。

 

4月7日の日曜座禅会に降誕会の法要を行いました。例年のように花御堂を作り、読経の後、参加した人たちが誕生仏に甘茶を注いで灌仏しました。今年は「永平広録」の中から1249年灌仏会における道元禅師の上堂を紹介しました。その締めくくりの言葉は、「諸仁者、たとえば、杓柄のなんじが手裏にある時はいかん。下下の人、上上の智あり。」私たちは上等な人間ではないけれども、誠を込めて仏への供養として修行するとき、そのなかに無上の智慧が現成しているのだという意味だと思います。

 

その翌日の4月8日から3ヶ月の夏期安居が始まりました。今年の首座はベルギー人の黙祥Depreayさんです。学校の先生をしていた人です。引退してから坐禅修行に専注し、ご両親から相続した家を禅堂にしました。昨年9月、その開単式に出席するためにベルギーに参りました。安居中は首座の人が日曜坐禅会の法話をすることになっています。黙祥さんは「信心銘」をテキストにしてこれまでに5回の法話をしました。6月16日の日曜日には、首座法戦式があります。例年のように秋葉玄吾北アメリカ国際布教総監老師に助化師としてご来山いただきます。カリフォルニアから遠路ブルーミントンまでこの式だけのためにおいでいただくのは申し訳ないのですが、助化師なしでは法戦式が宗門から公認されませんので仕方がありません。折角得度して宗門に僧籍登録をしても首座法戦式をしないと何年かのちには抹消されてしまいますので、得度した師匠の責任として、将来共に日本の宗門との関係を維持することを希望する弟子たちのために安居と法戦式を続けざるを得ません。

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3月のチャペルヒル・禅センターでの眼蔵会の後、私は5月の三心寺での眼蔵会の準備に専念しました。今回の眼蔵会では「正法眼蔵三界唯心」の拙訳を講本としました。仏教の経典としては一番古いものの一つとされているダンマパダの最初の偈頌に、

(1)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れたこころで話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。 ― 車を引く(牛)の足跡に車輪が付いていくように。

(2)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。 ―影がそのからだから離れないように。(岩波文庫

とあり、仏教において「心」が重要なことが説かれています。これから、パーリ語のアングッタラ・ニカーヤで自性清浄心が説かれ、大乗仏教の「八千頌般若経」に引き継がれ、それから如来蔵心や佛性の思想になっていったようです。一方では、唯識として、私たちが経験するものは全て、阿頼耶識が見分と相分に別れたものであって、識の自己展開に過ぎない。客観世界は絵師である「心」が描いたものに過ぎないという思想にも発展しました。それら二つの「心」に付いての教説が結びついて、本質的に清浄で、消滅しない自性清浄の「理心」(水)が無明の風に吹かれて、動き出したのが阿頼耶識「事心」(波)だという考えができてきました。「理心」は宿屋の主人であり、「事心」は状況によって現れたり消えたりする「客」のようなものだという意味で「客塵煩悩」という考えが「楞伽経」「大乗起信論」、「円覚経」、「首楞巌経」などで表明され、それが中国禅の基本的な教えになったのだと思います。道元禅師は「辧道話」や「正法眼蔵即心是仏」の巻きなどで、このような考えを批判しています。それでは道元禅師のいう「三界唯心」とはどういう意味なのかがこの巻を参究するポイントだと考えています。

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五月の眼蔵会が終わってからは11月の眼蔵会で読む「説心説性」の巻の英語訳に取り組んでいます。この巻もまた「心」を扱ったものですのでつながりがあります。これらの巻を越前に移転された直後に書かれたということの意味も考えたいと思います。三心寺での眼蔵会では、原則として75巻本の順序で読んでおりますが、ようやく京都から越前に移られてからのものを読んでいくことになりました。これまで、あまり丁寧に参究したことがない巻が多いので、準備に時間がかかります。今回も、カリフォルニア、ミネソタなどアメリカの遠隔地、またカナダ、フランス、日本など国外からの参加者もありました。三心寺の施設では22人が受け入れの限度で、ウエィティング・リストに入ってもらう人が何人かあります。それで次回11月から、近くにあるTMBCC (Tibetan Mongolian Buddhist Culture Center)を会場として再び使用させていただくことになりました。これは長期的な解決策ではありませんので、将来を見据えて、お寺の施設をどのようにするか検討をしています。

 

6月には私は71歳になります。引退まで後4年になりました。

本日の夕食から6月3日(月曜日)まで5日間の接心です。昨年から副住職の法光が接心の指導しており、私の責任ではなくなりましたので、翻訳、講義の準備、著作などがこれからの私の主な仕事になります。

  

 5月29日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

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三心通信 2019年2月、3月

 

この冬は、比較的暖かな冬でした。2度ほどかなりの寒波が来て、マイナス20℃ほどになりましたが、それ以外の時は雪もなく、むしろ雨が降ることが多い冬でした。今年も早お彼岸になってしまいました。三心寺の庭ではクロッカスの花が咲き始め、日々水仙の茎が成長しております。肌寒い日でも陽光の明るさはすでに春のものです。

 

2月10日にアイオワ州の龍門寺で首座法戦式があり、8日(金曜日)に出発し11日(月曜日)に三心寺に帰りました。丁度、厳しい寒波がアメリカ東北部を襲った時で、多くのフライトが遅れたり、キャンセルされたりしました。インデアナポリスからミネアポリスまでの飛行機はさいわい定刻に飛びましたが、ミネアポリスから龍門寺に一番近いミネソタ州南境のラクロスという空港までのフライトが大幅に遅れ、空港で6時間ほど待たなければなりませんでした。ラクロスの空港はミシシッピー川がまるで湖のように幅広くなっている部分にある島の中にあります。空港から龍門寺に行くときに橋を渡るのですが、あの大きな川が完全に凍結していました。

 

今回の龍門寺の冬安居の首座は鏡空というドイツ人の女性でした。もともとドイツ人の指導者のもとで得度し、名古屋の尼僧堂や岡山の洞松寺に安居した経験もある人です。昨年11月に遷化した私の弟子の海鏡Robynに尼僧堂で出会ったことが機縁となり、転師して海鏡の弟子になる手続きを始めたときに海鏡が遷化したのでした。それで、海鏡の依頼により、三心寺の副住職の法光が師僧になることになりました。ですから、私の孫弟子ということになります。孫弟子とは言ってもすでに還暦は超えている人です。海外では坐禅修行を始めるのが30代とか40代ですので、法戦式をしたり嗣法したりするのは60歳を過ぎてからという例が多くあります。

 

龍門寺では、法戦式の本則は「碧巌録」から選んだものを使います。片桐老師が「碧巌録」の提唱をされたそうです。その録音があるもので、片桐老師の提唱を聴いて本則の勉強をするそうです。助化師として行くときには、毎回、私が本則行茶の提唱をするのですが、「碧巌録」を使って、道元禅師の宗乗の話をするのが難しいことがあります。今回の本則は「百丈野鴨子」だったのですが、圜悟の評唱の中に、「而今有る者は道う、本と悟處無し、箇の悟門を作って此の事を建立すと。若し恁麼の見解ならば、獅子身中の蟲の自ら獅子の肉を食うが如し。」という部分があります。これはあきらかに臨済の看話禅から曹洞の黙照禅に対する批判なのですが、このようなところ、どう説明すればいいのか困ってしまいます。800年に及ぶ見性禅と黙照禅の間の論争にはあまり興味がありませんので。幸に「垂示」の最初に「遍界藏れず、全機獨露す。」という言葉がありましたので、道元禅師が「徧界不曽蔵」「全機」についてどのように言われたかということを中心にして話しました。本則の馬祖と百丈の野鴨についての問答の経緯や百丈の悟り経験とは焦点が違う話になったと思います。

 

私が龍門寺にいたあいだ、三心寺では8日と9日、2日間の涅槃会接心と10日には日曜参禅会と涅槃会の法要があったのですが、法光が中心となって無事に修行してくれました。接心の指導は法光がしてくれますので、これから2023年の私の引退までこういうことが多くなると思います。他出しても三心寺の行事のことを心配しなくても良いのはありがたいことです。

 

三心寺に帰ってからは2月の間毎日の坐禅も休ませてもらって、3月1日から6日までのノースカロライナ州、チャペルヒル禅センターでの5日間の眼蔵会の準備に専念させていただきました。先方から嗣法についての巻をという希望がありましたので、今回は「正法眼蔵面授」の巻の拙訳を講本にしました。参考として75巻本では次の巻になる「正法眼蔵仏祖」の巻も翻訳しました。「面授」については本文の読解だけではなく、江戸時代の宗学者たちの間の論争についても触れないわけにいかないので、準備に時間がかかりました。宗学のそういう面にはわたしはこれまでほとんど興味を持たず、勉強もしていなかったからです。

 

チャペルヒルに出発する2日前から風邪をひき、扁桃腺が腫れて唾を飲み込むたびに喉に痛みがありました。そのほかに、熱や頭痛などの症状はなかったので、とにかく出発しました。眼蔵会の間は、喉の薬やのど飴をもらったり、生姜湯を作ってもらったり、参加者の中におられたお医者さんに診察をしてもらったり、大変お世話をかけました。幸い喉の腫れは3日目に治りましたが、その代わりに咳が出るようになりました。大変に聴きづらい講義になったとおもいますが、皆さん熱心に聞いていただきました。

 

チャペルヒルから帰るとその日から三心寺の3月接心が始まったのですが、私は休養させていただき、3日間ベッドの中におりました。

 

そのあとは、5月の眼蔵会の講本として「正法眼蔵三界唯心」の翻訳をしてそれが出来上がるとお彼岸ということになっておりました。これから、その講義の準備をしなければなりません。次の11月の眼蔵会に参究する予定の「正法眼蔵説心説性」とともに道元禅師の「心」についての教説を「即心是仏」その他の巻とも関連させて参究したいと願っております。

 

 

3月22日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2019年1月

 

これまで比較的暖かい冬でしたが、今月10日から13日までの接心中に少し雪が降りました。そのあともそれほど寒くはなかったのですが、昨日夕方から雪が降り始め、初めて10センチほど積もりました。気温もマイナス16℃まで下がりました。積雪のため今日の日曜参禅会は数名しか参加者がありませんでした。ようやく本当の冬が来たという感じです。

 

正月の三ヶ日は例年休みにしています。元旦に日本の方々とアメリカやヨーロッパ在住の日本人の方々に念頭のご挨拶の手紙を書き、この3日で発送できるようにしております。それ以外には仕事はせず、なるべくゆっくりとするように努力しております。今年も娘の葉子とボーイフレンドのベネットが年末から来てくれて家族揃って新年を迎えることができました。

 

今回の接心は州外から来た二人をいれて合計8人ほどで坐りました。いつも通り、少人数で静かな接心で新しい年を始めることができました。毎年のように言っていることですが、1969年1月の接心が私の安泰寺での最初の接心でした。今年で50年になりました。20歳の大学生だったのが70歳の老人になったというだけで、坐禅しても何にもならないという澤木老師のお言葉の見本のようなものだと思います。それでも、この50年の間、一人だけで坐った接心は一度もありません。京都曹洞禅センターの頃、5日間の接心の3日目まで誰も来なくて一人で坐ったことがありましたが、いつもどなたかが一緒に坐ってくれました。自分の人生の20代からその時その時の年齢に応じ、自分や家族の生活状況や、身の回り、また社会の状況、日本とアメリカの違いなど、様々な風景がありましたが、それらの全てを坐禅を中心にし、坐禅に見守られて、また自分の人生や社会の移り変わりを坐禅から見ながら、ここまで歩んで来ることができたことに感謝せずにはおれません。

 

三心寺の接心は昨年夏から2023年の私の引退まで、何か事情があれば私が代わりますが、原則として副住職の法光が責任を持ってくれるようになりました。ですので接心を坐るのは私の住職としての職務ではなくなりました。他の仕事との兼ね合いや体調によって、坐れるだけ、あるいは坐りたいだけ坐ることが許されるようになりました。今までも責任上仕方なく坐っていたというわけではありませんけれども、これはやはり気分的には大きな変化です。

 

これからは、年に3回の眼蔵会と、現在進行中の本の企画を仕上げることが中心になります。新しく訳した「長円寺本随聞記」、「道元禅師和歌集」の出版、眼蔵会の講義をもとにした、「坐禅箴」、「袈裟功徳」、国際センターのニュースレター「法眼」に連載した「全機」「四摂法」、「摩訶般若波羅蜜」、「一顆明珠」をまとめて本にすること、毎年7月の禅戒会でしてきた「教授戒文」の講義をもとに本を作ること、ミネアポリスで行なった「普勧坐禅儀」のトランスクプションをもとに新しく書くこと、などなどです。今三心寺の勉強会で少しづつ訳しながら読んでいる「道元禅師語録」もなんとか形にしたいと願っております。衰えゆく体力、脳力、思考力、持続力、集中力などとの兼ね合いで全部できるかどうか分かりませんが、これまで通りぼちぼちと行けるところまでは行こうと思っています。人生の店じまいの準備を始めなければなりません。

 

1月21日

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2018年12月

 

もうすでに12月も後半に入ってしまいました。11月30日の夜から12月8日の朝まで臘八接心でした。そして9日に成道会の法要を行いました。それからしばらく体力、脳力を回復させるために休んでいると年末が目の前に迫っていると言う感じです。

 

今回の臘八接心は10人ほどの人たちが最初から終わりまで一緒に坐りました。西海岸のベイ・エアリアからの人たち、東海岸のニューヨークからの人たち、シカゴから来た人など遠隔地からこの1日14炷、坐禅だけの接心を坐るために仕事を休み飛行機に乗って、あるいは半日自動車を運転して来てくれる人たちには頭が下がります。地元ブルーミントンの人たちも日に何炷か坐っていく人が数人ありました。7日は、午後9時に経行の代わりに簡単な行茶をし、深夜12時まで坐ったのですが、15人以上がいました。開静の後、成道会のお経を読んで終わりました。

 

8日の朝は8時に起きて坐禅堂その他の掃除をし、9時から朝食をとって解散しました。臘八接心の後には毎年話すことですが、私は1970年の12月8日に安泰寺で内山老師から市田高之さんと一緒に出家得度を受けましたので、毎年臘八接心が終わるとその記念日になります。釈尊の成道に感謝するだけではなく、私個人にとっては本師内山老師に感謝し、老師から受け継いだ誓願を新たにする機会でもあります。今年は48回目の記念日でした。50年近くが経って70歳になっても、まだ接心を椅子坐禅ではありますが坐ることができること、またアメリカにいても一緒に坐ってくれる人があることに感謝せずにはおられません。 

 

9日が日曜日だったので、成道会の法要をいたしました。この日には毎年、釈尊の成道にちなんだ法話をしております。今回は、「句中玄」の解説をする詩が丁度釈尊の成道と関連がありますので、その詩の話をしました。門鶴本を使っております。

五葉華開重六葉、(五葉華開いて六葉を重ぬ、)

青天白日似無明、(青天白日明無きに似たり、)

若人問我看何色、(若し人我に何なる色をか看ると問わば、)

此是瞿曇老眼睛。(此れは是れ瞿曇の老眼睛。)

 

五葉華と言うのは梅の花。六葉というのは雪の結晶の六角形から来た表現で、雪のことです。これで、永平寺の冬景色が表現されています。白一色の雪の中に梅の花が咲いています。そのうえにまた雪が降っているという風景です。雪裏の梅華というのは天童如浄禅師の臘八の成道に使われた表現です。道元禅師の臘八上堂は「永平広録」の中に8つ記録されていますが、そのうちの6つに雪の中に咲く梅の花のイメージが使われていますので、この詩もその頃の永平寺の冬景色と釈尊の成道とを重ねて読まれているのだと思います。 

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 *成道会の時の祭壇です。普段は文殊菩薩が坐っておられるのですが、三佛忌の時にはお釈迦様と場所を交代しています。

 

接心が終わって少し休んだ後、良寛さんの詩を10首ほど訳しました。以前他の人が訳したものを使って、それらの詩について話したものを誰かがトランスクリプト(以前日本語では「テープ起こし」と言っていましたが、テープを使わなくなった今では何と言う表現を使えばいいのか知りません)してくれました。それをエディット(添削)して公表できるものにしてくれている人がいます。その人から、私は話の中で、講本として使った英語訳のいくつもの箇所を批判したり、難癖をつけたりしているので、その翻訳を作った人に失礼だろうから、自分の訳を作るようにと申し渡されたのです。私の好きな馴染みのある詩ばかりですので、喜んで自分の英語訳を作りました。現在、Dogen Instituteのウエブサイトのために月に一首、「句中玄」に収められている道元禅師の漢詩の私なりの理解に基づいた解説を書いております。その後には良寛さんの和歌や漢詩について書きたいと考えております。ただし、「句中玄」には道元禅師の漢詩が150首ほど収録されていますので、月に一つのペースで書き続けるとすれば10年以上かかることになりますので、なんとか考えなければななりません。

 

その後は、来年の眼蔵会の講本にする3巻の翻訳を始めています。3月のノースカロライナ州チャペル・ヒル禅センターでの眼蔵会には「正法眼蔵面授」、5月の三心寺の眼蔵会には「三界唯心」、11月には「説心説性」の講読をする予定でおります。2002年から年に3回か4回の眼蔵会をしておりますので、40回以上になります。1巻読むのに2回か3回かかることもあり、同じ巻を2、3回読んだものもありますので、何巻読んだのか正確に計算したことはありませんが、三心寺での眼蔵会においては、だいたい75巻本の順番に読んでおります。最近、75巻本の後半の巻に入ってきました。これまで、細かく勉強したことのない巻が多く、翻訳や準備に以前よりもたくさんの時間がかかります。また、年齢のせいで体力、脳力の衰えが顕著になってきて、集中して仕事ができる時間が少なくなっています。能率を考えるとぼちぼち限界なのかなと思うこともあります。しかし、多くの人たちが遠方からきてくれるので、できるところまでは続けなければと思いを新たにしております。

 

今年もあと半月をきり、年末が目の前に迫っております。日本でも、世界の各地でも天変地異の災害や人災で、多くの人々が困難な日々を送っておられるのをニュースで見ます。来年は過ごしやすい年でありますようにと願わずにはおれません。

 

 

2018年12月17日

 

 

奥村正博 九拝

 

三心通信 2018年11月

 

10月5日にヨーロッパから三心寺に帰り着いて数日休養し、11月の眼蔵会の準備にかかりました。講本の「正法眼蔵春秋」は夏までに翻訳してあったのですが、準備には膨大な時間がかかりました。「春秋」の巻は洞山禅師の「寒暑・無寒暑」の話について書かれてあるのですが、大半が中国の禅師がたの洞山禅師の問答についての上堂や偈頌の引用です。道元禅師ご自身のこの問答についてのコメントも簡潔なもので、強烈に響くのは五位についての否定的な評価です。それ以外は短いコメントが書かれているだけです。五位についても、五位とは何かという説明もなく、なぜ五位がダメなのかも、明確な説明がありません。

 

私は学生時代にこの巻を読んで、道元禅師が五位は勉強する必要がないといわれた箇所だけが頭にのこり、五位については保坂玉泉著「参同契・宝鏡三昧・洞上五位現代講話」という小冊子を読んだ以外に勉強をしたことはありませんでした。内山老師が五位について話されたり、書かれたりされた記憶もありません。それで、今に至るまで私自身五位については何の知識もありませんでした。それで今回、「五位顕訣」や、五位頌を一応勉強し、中国および日本の曹洞禅の歴史の中で五位がどのように創唱され、継承され、学ばれてきたのかの歴史も勉強する必要を感じました。片桐老師の蔵書の中に保坂玉泉氏の同じ著書がありましたので、50年ぶりくらいに読みました。手元にある参考書だけでは十分ではありませんが、それらの基礎知識を得た上で、道元禅師の「寒暑・無寒暑」についてのコメントについて勉強しました。それだけで眼蔵会の始まる直前までかかりました。いつもは道元禅師の独特な表現や論理に引きずり回されているのですが、この巻に関しては、道元禅師が書かれていないことを捕捉しなければならないという感じがしました。

 

今回の眼蔵会には、アメリカの西海岸のサンフランシスコやオレゴン方面、東海岸のニューヨーク、北のミネソタ州、南のフロリダ州、など各地から参加者がありました。のみならず、ヨーロッパから3人の参禅者、日本からは曹洞宗のお坊さんが4人来られました。三心寺の受け入れ可能な人数を超え、近くのベッド&ブレックファーストに宿泊して三心寺に通ってこられる人たちもありました。眼蔵会では以前から受け入れ可能な人数を超える申込者があって、いつもウエイティング・リストに何人かが入ってもらうことになっています。

 

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眼蔵会だけではなく、接心の時にもこれくらいの参加者があれば、本気でお寺の施設拡充を考えなければならないのですが、京都の安泰寺で内山老師が始められた坐禅だけの接心にはせいぜい10人ほどの参加者しかありません。満員になるのは年2回の眼蔵会の時だけですので、私としては建物を増やすのに時間と労力を使うよりも、不便でも今のままで、坐禅と「正法眼蔵」の参究だけを続けていくように努力してまいりました。しかし、私が引退して次の人にバトンタッチするまえに、もう少し三心寺の施設のことも整備したいと考え始めております。

 

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 私の弟子、Roby海鏡が11月8日に遷化いたしました。恩師がたや先輩、同年代の友人だけでなく、自分の弟子がなくなっていくのを経験する年齢になったのだと思い知らされました。1953年生まれの65歳でした。20年ほど前にガンにかかり、その折の放射線治療の後遺症で臓器の一部に故障が生じ、以来ずっと健康の問題を抱えておりました。2013年に、ホスピスのチャプレンの仕事を辞めて、名古屋の尼僧堂への安居を希望した時にはもう長くは生きられないことを覚悟していたのだと思います。健康状態が僧堂での修行に耐えられるかどうか私にも確信が持てませんでしたが、そのために引き留めることができませんでした。

 

海鏡は南米ベネズエラ坐禅修行を始めたのですが、最初の師は弟子丸泰仙師の得度をうけた人で、僧籍登録もなされていませんでした。宗門の枠内での資格なしで何人かに出家得度もしていた人でした。海鏡もその中の一人だったのですが、そのためにベネズエラのサンガは曹洞禅の伝統と繋がることができず今でも孤立しております。そのサンガを曹洞禅の伝統と繋げるために自分が教師資格を得、その中の何人かを自分の弟子として曹洞宗の僧籍を得させたいと言うのが本人の願いでありました。数年の努力の末に、ヨーロッパ人2名とともにその中の一人に出家得度を授ける目処がたったところでの遷化でした。また私の著書のスペイン語訳も続けておりました。やり残したことが多く、無念なところもあったと存じますが、生命の火を仏法のために燃焼し尽くしたのだと理解しております。本人のやり残したことを成就するために私にできることがあれば努力する所存でおります。

 

11月5日に一宮の恵林寺において、私の兄弟子の関口道潤さんの法嗣の興顕師の晋山式のおりに私の弟子の高橋慈正が首座法戦式をさせていただきました。慈正は4月から愛知専門尼僧堂に安居させていただいております。

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眼蔵会が12日に終わったあと、15日にペンシルベニア州ピッツバーグに行きました。16日から18日までの週末接心を指導するためでした。例年、ピッツバーグには10月に行っているのですが、今年はヨーロッパへの訪問があったため、11月の眼蔵会の後に延期したのでした。出発したのが北東部を寒波が襲い、大雪になって死者も出た日でしたので、インディアナポリスからアトランタ行きの飛行機が遅れましたが、アトランタからピッツバーグのフライトにはなんとか間に合って、予定時間に到着ました。その代わり、アトランタで昼食を食べる時間もありませんでした。

 

この接心では「道元禅師和歌集」から3首を選んで教材としました。数年間、毎月1首づつ、三心寺の電子ニュースレターに翻訳と短い解説を書いたものが昨年完了し、現在出版社に送る原稿を準備してもらっているところです。その連載が終わってから、公開の講演や、短い接心の場合には禅師の和歌を取り上げて道元禅師の教えの一点に絞って話すようにしています。ピンポイントで一つに焦点を当てて話すのはいい方法だと思うようになりました。ヨーロッパでの公開講演のおりにも道元禅師や良寛さんの和歌について話しました。

 

ピッツバーグから帰るとすでに11月も下旬、三心寺の境内の木々もほとんど落葉し、いつ雪が降ってもおかしくない冬景色になっていました。22日と23日はサンクスギビングで、皆が家族や友人のところに行きますので、お寺では坐禅を休みにしています。これが過ぎると臘八接心が目の前です。今年ももうすでに終わりに近づいているのだと感じるこの頃です。

 

 

2018年11月23日

 

 

奥村正博 九拝