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三心通信 2019年2月、3月

 

この冬は、比較的暖かな冬でした。2度ほどかなりの寒波が来て、マイナス20℃ほどになりましたが、それ以外の時は雪もなく、むしろ雨が降ることが多い冬でした。今年も早お彼岸になってしまいました。三心寺の庭ではクロッカスの花が咲き始め、日々水仙の茎が成長しております。肌寒い日でも陽光の明るさはすでに春のものです。

 

2月10日にアイオワ州の龍門寺で首座法戦式があり、8日(金曜日)に出発し11日(月曜日)に三心寺に帰りました。丁度、厳しい寒波がアメリカ東北部を襲った時で、多くのフライトが遅れたり、キャンセルされたりしました。インデアナポリスからミネアポリスまでの飛行機はさいわい定刻に飛びましたが、ミネアポリスから龍門寺に一番近いミネソタ州南境のラクロスという空港までのフライトが大幅に遅れ、空港で6時間ほど待たなければなりませんでした。ラクロスの空港はミシシッピー川がまるで湖のように幅広くなっている部分にある島の中にあります。空港から龍門寺に行くときに橋を渡るのですが、あの大きな川が完全に凍結していました。

 

今回の龍門寺の冬安居の首座は鏡空というドイツ人の女性でした。もともとドイツ人の指導者のもとで得度し、名古屋の尼僧堂や岡山の洞松寺に安居した経験もある人です。昨年11月に遷化した私の弟子の海鏡Robynに尼僧堂で出会ったことが機縁となり、転師して海鏡の弟子になる手続きを始めたときに海鏡が遷化したのでした。それで、海鏡の依頼により、三心寺の副住職の法光が師僧になることになりました。ですから、私の孫弟子ということになります。孫弟子とは言ってもすでに還暦は超えている人です。海外では坐禅修行を始めるのが30代とか40代ですので、法戦式をしたり嗣法したりするのは60歳を過ぎてからという例が多くあります。

 

龍門寺では、法戦式の本則は「碧巌録」から選んだものを使います。片桐老師が「碧巌録」の提唱をされたそうです。その録音があるもので、片桐老師の提唱を聴いて本則の勉強をするそうです。助化師として行くときには、毎回、私が本則行茶の提唱をするのですが、「碧巌録」を使って、道元禅師の宗乗の話をするのが難しいことがあります。今回の本則は「百丈野鴨子」だったのですが、圜悟の評唱の中に、「而今有る者は道う、本と悟處無し、箇の悟門を作って此の事を建立すと。若し恁麼の見解ならば、獅子身中の蟲の自ら獅子の肉を食うが如し。」という部分があります。これはあきらかに臨済の看話禅から曹洞の黙照禅に対する批判なのですが、このようなところ、どう説明すればいいのか困ってしまいます。800年に及ぶ見性禅と黙照禅の間の論争にはあまり興味がありませんので。幸に「垂示」の最初に「遍界藏れず、全機獨露す。」という言葉がありましたので、道元禅師が「徧界不曽蔵」「全機」についてどのように言われたかということを中心にして話しました。本則の馬祖と百丈の野鴨についての問答の経緯や百丈の悟り経験とは焦点が違う話になったと思います。

 

私が龍門寺にいたあいだ、三心寺では8日と9日、2日間の涅槃会接心と10日には日曜参禅会と涅槃会の法要があったのですが、法光が中心となって無事に修行してくれました。接心の指導は法光がしてくれますので、これから2023年の私の引退までこういうことが多くなると思います。他出しても三心寺の行事のことを心配しなくても良いのはありがたいことです。

 

三心寺に帰ってからは2月の間毎日の坐禅も休ませてもらって、3月1日から6日までのノースカロライナ州、チャペルヒル禅センターでの5日間の眼蔵会の準備に専念させていただきました。先方から嗣法についての巻をという希望がありましたので、今回は「正法眼蔵面授」の巻の拙訳を講本にしました。参考として75巻本では次の巻になる「正法眼蔵仏祖」の巻も翻訳しました。「面授」については本文の読解だけではなく、江戸時代の宗学者たちの間の論争についても触れないわけにいかないので、準備に時間がかかりました。宗学のそういう面にはわたしはこれまでほとんど興味を持たず、勉強もしていなかったからです。

 

チャペルヒルに出発する2日前から風邪をひき、扁桃腺が腫れて唾を飲み込むたびに喉に痛みがありました。そのほかに、熱や頭痛などの症状はなかったので、とにかく出発しました。眼蔵会の間は、喉の薬やのど飴をもらったり、生姜湯を作ってもらったり、参加者の中におられたお医者さんに診察をしてもらったり、大変お世話をかけました。幸い喉の腫れは3日目に治りましたが、その代わりに咳が出るようになりました。大変に聴きづらい講義になったとおもいますが、皆さん熱心に聞いていただきました。

 

チャペルヒルから帰るとその日から三心寺の3月接心が始まったのですが、私は休養させていただき、3日間ベッドの中におりました。

 

そのあとは、5月の眼蔵会の講本として「正法眼蔵三界唯心」の翻訳をしてそれが出来上がるとお彼岸ということになっておりました。これから、その講義の準備をしなければなりません。次の11月の眼蔵会に参究する予定の「正法眼蔵説心説性」とともに道元禅師の「心」についての教説を「即心是仏」その他の巻とも関連させて参究したいと願っております。

 

 

3月22日

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2019年1月

 

これまで比較的暖かい冬でしたが、今月10日から13日までの接心中に少し雪が降りました。そのあともそれほど寒くはなかったのですが、昨日夕方から雪が降り始め、初めて10センチほど積もりました。気温もマイナス16℃まで下がりました。積雪のため今日の日曜参禅会は数名しか参加者がありませんでした。ようやく本当の冬が来たという感じです。

 

正月の三ヶ日は例年休みにしています。元旦に日本の方々とアメリカやヨーロッパ在住の日本人の方々に念頭のご挨拶の手紙を書き、この3日で発送できるようにしております。それ以外には仕事はせず、なるべくゆっくりとするように努力しております。今年も娘の葉子とボーイフレンドのベネットが年末から来てくれて家族揃って新年を迎えることができました。

 

今回の接心は州外から来た二人をいれて合計8人ほどで坐りました。いつも通り、少人数で静かな接心で新しい年を始めることができました。毎年のように言っていることですが、1969年1月の接心が私の安泰寺での最初の接心でした。今年で50年になりました。20歳の大学生だったのが70歳の老人になったというだけで、坐禅しても何にもならないという澤木老師のお言葉の見本のようなものだと思います。それでも、この50年の間、一人だけで坐った接心は一度もありません。京都曹洞禅センターの頃、5日間の接心の3日目まで誰も来なくて一人で坐ったことがありましたが、いつもどなたかが一緒に坐ってくれました。自分の人生の20代からその時その時の年齢に応じ、自分や家族の生活状況や、身の回り、また社会の状況、日本とアメリカの違いなど、様々な風景がありましたが、それらの全てを坐禅を中心にし、坐禅に見守られて、また自分の人生や社会の移り変わりを坐禅から見ながら、ここまで歩んで来ることができたことに感謝せずにはおれません。

 

三心寺の接心は昨年夏から2023年の私の引退まで、何か事情があれば私が代わりますが、原則として副住職の法光が責任を持ってくれるようになりました。ですので接心を坐るのは私の住職としての職務ではなくなりました。他の仕事との兼ね合いや体調によって、坐れるだけ、あるいは坐りたいだけ坐ることが許されるようになりました。今までも責任上仕方なく坐っていたというわけではありませんけれども、これはやはり気分的には大きな変化です。

 

これからは、年に3回の眼蔵会と、現在進行中の本の企画を仕上げることが中心になります。新しく訳した「長円寺本随聞記」、「道元禅師和歌集」の出版、眼蔵会の講義をもとにした、「坐禅箴」、「袈裟功徳」、国際センターのニュースレター「法眼」に連載した「全機」「四摂法」、「摩訶般若波羅蜜」、「一顆明珠」をまとめて本にすること、毎年7月の禅戒会でしてきた「教授戒文」の講義をもとに本を作ること、ミネアポリスで行なった「普勧坐禅儀」のトランスクプションをもとに新しく書くこと、などなどです。今三心寺の勉強会で少しづつ訳しながら読んでいる「道元禅師語録」もなんとか形にしたいと願っております。衰えゆく体力、脳力、思考力、持続力、集中力などとの兼ね合いで全部できるかどうか分かりませんが、これまで通りぼちぼちと行けるところまでは行こうと思っています。人生の店じまいの準備を始めなければなりません。

 

1月21日

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2018年12月

 

もうすでに12月も後半に入ってしまいました。11月30日の夜から12月8日の朝まで臘八接心でした。そして9日に成道会の法要を行いました。それからしばらく体力、脳力を回復させるために休んでいると年末が目の前に迫っていると言う感じです。

 

今回の臘八接心は10人ほどの人たちが最初から終わりまで一緒に坐りました。西海岸のベイ・エアリアからの人たち、東海岸のニューヨークからの人たち、シカゴから来た人など遠隔地からこの1日14炷、坐禅だけの接心を坐るために仕事を休み飛行機に乗って、あるいは半日自動車を運転して来てくれる人たちには頭が下がります。地元ブルーミントンの人たちも日に何炷か坐っていく人が数人ありました。7日は、午後9時に経行の代わりに簡単な行茶をし、深夜12時まで坐ったのですが、15人以上がいました。開静の後、成道会のお経を読んで終わりました。

 

8日の朝は8時に起きて坐禅堂その他の掃除をし、9時から朝食をとって解散しました。臘八接心の後には毎年話すことですが、私は1970年の12月8日に安泰寺で内山老師から市田高之さんと一緒に出家得度を受けましたので、毎年臘八接心が終わるとその記念日になります。釈尊の成道に感謝するだけではなく、私個人にとっては本師内山老師に感謝し、老師から受け継いだ誓願を新たにする機会でもあります。今年は48回目の記念日でした。50年近くが経って70歳になっても、まだ接心を椅子坐禅ではありますが坐ることができること、またアメリカにいても一緒に坐ってくれる人があることに感謝せずにはおられません。 

 

9日が日曜日だったので、成道会の法要をいたしました。この日には毎年、釈尊の成道にちなんだ法話をしております。今回は、「句中玄」の解説をする詩が丁度釈尊の成道と関連がありますので、その詩の話をしました。門鶴本を使っております。

五葉華開重六葉、(五葉華開いて六葉を重ぬ、)

青天白日似無明、(青天白日明無きに似たり、)

若人問我看何色、(若し人我に何なる色をか看ると問わば、)

此是瞿曇老眼睛。(此れは是れ瞿曇の老眼睛。)

 

五葉華と言うのは梅の花。六葉というのは雪の結晶の六角形から来た表現で、雪のことです。これで、永平寺の冬景色が表現されています。白一色の雪の中に梅の花が咲いています。そのうえにまた雪が降っているという風景です。雪裏の梅華というのは天童如浄禅師の臘八の成道に使われた表現です。道元禅師の臘八上堂は「永平広録」の中に8つ記録されていますが、そのうちの6つに雪の中に咲く梅の花のイメージが使われていますので、この詩もその頃の永平寺の冬景色と釈尊の成道とを重ねて読まれているのだと思います。 

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 *成道会の時の祭壇です。普段は文殊菩薩が坐っておられるのですが、三佛忌の時にはお釈迦様と場所を交代しています。

 

接心が終わって少し休んだ後、良寛さんの詩を10首ほど訳しました。以前他の人が訳したものを使って、それらの詩について話したものを誰かがトランスクリプト(以前日本語では「テープ起こし」と言っていましたが、テープを使わなくなった今では何と言う表現を使えばいいのか知りません)してくれました。それをエディット(添削)して公表できるものにしてくれている人がいます。その人から、私は話の中で、講本として使った英語訳のいくつもの箇所を批判したり、難癖をつけたりしているので、その翻訳を作った人に失礼だろうから、自分の訳を作るようにと申し渡されたのです。私の好きな馴染みのある詩ばかりですので、喜んで自分の英語訳を作りました。現在、Dogen Instituteのウエブサイトのために月に一首、「句中玄」に収められている道元禅師の漢詩の私なりの理解に基づいた解説を書いております。その後には良寛さんの和歌や漢詩について書きたいと考えております。ただし、「句中玄」には道元禅師の漢詩が150首ほど収録されていますので、月に一つのペースで書き続けるとすれば10年以上かかることになりますので、なんとか考えなければななりません。

 

その後は、来年の眼蔵会の講本にする3巻の翻訳を始めています。3月のノースカロライナ州チャペル・ヒル禅センターでの眼蔵会には「正法眼蔵面授」、5月の三心寺の眼蔵会には「三界唯心」、11月には「説心説性」の講読をする予定でおります。2002年から年に3回か4回の眼蔵会をしておりますので、40回以上になります。1巻読むのに2回か3回かかることもあり、同じ巻を2、3回読んだものもありますので、何巻読んだのか正確に計算したことはありませんが、三心寺での眼蔵会においては、だいたい75巻本の順番に読んでおります。最近、75巻本の後半の巻に入ってきました。これまで、細かく勉強したことのない巻が多く、翻訳や準備に以前よりもたくさんの時間がかかります。また、年齢のせいで体力、脳力の衰えが顕著になってきて、集中して仕事ができる時間が少なくなっています。能率を考えるとぼちぼち限界なのかなと思うこともあります。しかし、多くの人たちが遠方からきてくれるので、できるところまでは続けなければと思いを新たにしております。

 

今年もあと半月をきり、年末が目の前に迫っております。日本でも、世界の各地でも天変地異の災害や人災で、多くの人々が困難な日々を送っておられるのをニュースで見ます。来年は過ごしやすい年でありますようにと願わずにはおれません。

 

 

2018年12月17日

 

 

奥村正博 九拝

 

三心通信 2018年11月

 

10月5日にヨーロッパから三心寺に帰り着いて数日休養し、11月の眼蔵会の準備にかかりました。講本の「正法眼蔵春秋」は夏までに翻訳してあったのですが、準備には膨大な時間がかかりました。「春秋」の巻は洞山禅師の「寒暑・無寒暑」の話について書かれてあるのですが、大半が中国の禅師がたの洞山禅師の問答についての上堂や偈頌の引用です。道元禅師ご自身のこの問答についてのコメントも簡潔なもので、強烈に響くのは五位についての否定的な評価です。それ以外は短いコメントが書かれているだけです。五位についても、五位とは何かという説明もなく、なぜ五位がダメなのかも、明確な説明がありません。

 

私は学生時代にこの巻を読んで、道元禅師が五位は勉強する必要がないといわれた箇所だけが頭にのこり、五位については保坂玉泉著「参同契・宝鏡三昧・洞上五位現代講話」という小冊子を読んだ以外に勉強をしたことはありませんでした。内山老師が五位について話されたり、書かれたりされた記憶もありません。それで、今に至るまで私自身五位については何の知識もありませんでした。それで今回、「五位顕訣」や、五位頌を一応勉強し、中国および日本の曹洞禅の歴史の中で五位がどのように創唱され、継承され、学ばれてきたのかの歴史も勉強する必要を感じました。片桐老師の蔵書の中に保坂玉泉氏の同じ著書がありましたので、50年ぶりくらいに読みました。手元にある参考書だけでは十分ではありませんが、それらの基礎知識を得た上で、道元禅師の「寒暑・無寒暑」についてのコメントについて勉強しました。それだけで眼蔵会の始まる直前までかかりました。いつもは道元禅師の独特な表現や論理に引きずり回されているのですが、この巻に関しては、道元禅師が書かれていないことを捕捉しなければならないという感じがしました。

 

今回の眼蔵会には、アメリカの西海岸のサンフランシスコやオレゴン方面、東海岸のニューヨーク、北のミネソタ州、南のフロリダ州、など各地から参加者がありました。のみならず、ヨーロッパから3人の参禅者、日本からは曹洞宗のお坊さんが4人来られました。三心寺の受け入れ可能な人数を超え、近くのベッド&ブレックファーストに宿泊して三心寺に通ってこられる人たちもありました。眼蔵会では以前から受け入れ可能な人数を超える申込者があって、いつもウエイティング・リストに何人かが入ってもらうことになっています。

 

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眼蔵会だけではなく、接心の時にもこれくらいの参加者があれば、本気でお寺の施設拡充を考えなければならないのですが、京都の安泰寺で内山老師が始められた坐禅だけの接心にはせいぜい10人ほどの参加者しかありません。満員になるのは年2回の眼蔵会の時だけですので、私としては建物を増やすのに時間と労力を使うよりも、不便でも今のままで、坐禅と「正法眼蔵」の参究だけを続けていくように努力してまいりました。しかし、私が引退して次の人にバトンタッチするまえに、もう少し三心寺の施設のことも整備したいと考え始めております。

 

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 私の弟子、Roby海鏡が11月8日に遷化いたしました。恩師がたや先輩、同年代の友人だけでなく、自分の弟子がなくなっていくのを経験する年齢になったのだと思い知らされました。1953年生まれの65歳でした。20年ほど前にガンにかかり、その折の放射線治療の後遺症で臓器の一部に故障が生じ、以来ずっと健康の問題を抱えておりました。2013年に、ホスピスのチャプレンの仕事を辞めて、名古屋の尼僧堂への安居を希望した時にはもう長くは生きられないことを覚悟していたのだと思います。健康状態が僧堂での修行に耐えられるかどうか私にも確信が持てませんでしたが、そのために引き留めることができませんでした。

 

海鏡は南米ベネズエラ坐禅修行を始めたのですが、最初の師は弟子丸泰仙師の得度をうけた人で、僧籍登録もなされていませんでした。宗門の枠内での資格なしで何人かに出家得度もしていた人でした。海鏡もその中の一人だったのですが、そのためにベネズエラのサンガは曹洞禅の伝統と繋がることができず今でも孤立しております。そのサンガを曹洞禅の伝統と繋げるために自分が教師資格を得、その中の何人かを自分の弟子として曹洞宗の僧籍を得させたいと言うのが本人の願いでありました。数年の努力の末に、ヨーロッパ人2名とともにその中の一人に出家得度を授ける目処がたったところでの遷化でした。また私の著書のスペイン語訳も続けておりました。やり残したことが多く、無念なところもあったと存じますが、生命の火を仏法のために燃焼し尽くしたのだと理解しております。本人のやり残したことを成就するために私にできることがあれば努力する所存でおります。

 

11月5日に一宮の恵林寺において、私の兄弟子の関口道潤さんの法嗣の興顕師の晋山式のおりに私の弟子の高橋慈正が首座法戦式をさせていただきました。慈正は4月から愛知専門尼僧堂に安居させていただいております。

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眼蔵会が12日に終わったあと、15日にペンシルベニア州ピッツバーグに行きました。16日から18日までの週末接心を指導するためでした。例年、ピッツバーグには10月に行っているのですが、今年はヨーロッパへの訪問があったため、11月の眼蔵会の後に延期したのでした。出発したのが北東部を寒波が襲い、大雪になって死者も出た日でしたので、インディアナポリスからアトランタ行きの飛行機が遅れましたが、アトランタからピッツバーグのフライトにはなんとか間に合って、予定時間に到着ました。その代わり、アトランタで昼食を食べる時間もありませんでした。

 

この接心では「道元禅師和歌集」から3首を選んで教材としました。数年間、毎月1首づつ、三心寺の電子ニュースレターに翻訳と短い解説を書いたものが昨年完了し、現在出版社に送る原稿を準備してもらっているところです。その連載が終わってから、公開の講演や、短い接心の場合には禅師の和歌を取り上げて道元禅師の教えの一点に絞って話すようにしています。ピンポイントで一つに焦点を当てて話すのはいい方法だと思うようになりました。ヨーロッパでの公開講演のおりにも道元禅師や良寛さんの和歌について話しました。

 

ピッツバーグから帰るとすでに11月も下旬、三心寺の境内の木々もほとんど落葉し、いつ雪が降ってもおかしくない冬景色になっていました。22日と23日はサンクスギビングで、皆が家族や友人のところに行きますので、お寺では坐禅を休みにしています。これが過ぎると臘八接心が目の前です。今年ももうすでに終わりに近づいているのだと感じるこの頃です。

 

 

2018年11月23日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

 

三心通信 2018年9月、10月

 

今年の7月から、オフィスの事務仕事をしてくれる人を雇用することができました。それで副住職の法光さんは繁多な仕事から解放されて、副住職として修行、教化面により多くの時間を使うことができるようになりました。この9月から接心の指導は法光さんに任せることになりました。もちろん私もできるだけ坐り続けますが、毎回接心の責任者として坐る義務からは免除されました。安泰寺やバレー禅堂では安居者の一人として坐っておりました。私が中心となって、接心中誰も来なくても坐るように決めたのは清泰庵に留守居としておらせてもらうことになって以来だと思います。それ以来、ずっと、誰から言われたわけでもありませんが、自分としては、誰も来なくても、病気やどうしても坐れない事情がない限り接心を坐り続けるという姿勢で今年の6月まで続けて参りました。今回初めて、自分がお寺にいるのに、かつ病気でもないのに接心を坐らないという経験をしました。9月の接心が終わった次の日、10日にヨーロッパ訪問の旅に出発しなければならなかったからです。今回は家内の優子も同行しました。

 

最初の訪問地はスエーデンでした。11日(月)に1666年創立の古い大学がある町、ルンドに到着。1日休養した後、13日にルンドから1時間ほど離れた森の中にあるキリスト教系のリトリートセンターに行きました。妙鏡さんという笹川浩仙老師から嗣法を受けられた尼僧さんが主宰するルンドの禅道場と、エーテボリ、およびストックホルムの禅センターの人たちが合同で企画された週末の接心でした。フィンランドエストニアなどからの人々も加えて30名ほどの参加者があり、私は1時間半の講義を4回しました。拙著Living By Vow (誓願に生きる)から、誓願と懺悔について、および「参同契」について話しました。接心が終わった16日にルンドに戻り、翌17日(月)にベルギーに向かいました。

 

ベルギーのモンスは首都ブリュッセルから50キロほど南に行ったところです。モンス(Mons)という町の名前はラテン語に由来し、英語のMountとも関係があり、山という意味だそうです。それほど大きな山ではありませんが、市街は丘陵の上にありました。頂上にはかなり高い塔が立っていました。その頂上から見ると小高い山のようなものがいくつか見えましたが、それらは以前盛んだった石炭採掘でつくられたボタ山だそうです。塔の近くにある、昔の城郭の門であったと思える建物は1050年に作られたものだそうです。私たちが宿泊したB&Bは200年前に作られた建物を内部だけ現代風に改造したものでした。私の弟子になった黙祥さんはこの町の出身で、両親から遺産として受け継いだ建物をお寺にしました。今回は大心寺と名付けられたお寺の開単式に出席するための訪問でした。到着の翌日18日(火)と20日(木)にはメンバーの人たちのために法話をしました。黙祥さんからのリクエストで「現成公案」の「仏道をならうというは自己をならうなり」ということについて、「仏道」と「自己」とについて2回話しました。21日(金)には自動車でブリュッセルまで行き、ブルッセル大学の教室で「道元禅の基礎」について話しました。道元禅師の戒(十六条戒)、定(只管打坐)、慧(正法眼蔵の教説)について簡潔に話すつもりでしたが、道元禅師の生涯のあらましと、十六条戒、只管打坐について話すだけで1時間半の予定時間がつきてしまい、肝心の教説については話すことができませんでした。22日(土)に主な目的であった、大心寺の開単式があり、パリの曹洞宗国際布教総監部から佐々木悠嶂総監と書記の方、また黙祥さんが安居させていただいた岡山の洞松寺での同安居の方がこられ、式のやり方の指導をされました。お二人とも、私が以前に一緒に修行したことがあった方々のお弟子さんで、思わぬご縁に驚きました。

 

開単式が終わった午後4時ころにモンスを出発し、参加者のかたの自動車でフランスのリール(Lille)まで行き、鉄道に乗り換えて、パリのシャルル・ド・ゴール空港まで行き、ホテルに一泊しました。翌23日(日)に飛行機でイタリアのミラノに飛び、私の弟子の行悦さん、道龍さんと合流しました。午後五時にミラノにある禅センターを訪問し、道元禅師の「法華経」についての和歌5首について話しました。

 

翌24日(月)には鉄道でヴェニスに行き2泊しました。26日(水)にはフロレンスまで鉄道で行き、しばらく観光した後、金沢大乗寺の東隆真老師の法嗣であるかたが主宰する真如寺を訪問しました。その後また鉄道でローマに移動しました。ローマでは27日(木)、電気自動車で市内を観光させていただきました。28日(金)には、ローマの禅堂の近くの会場で良寛さんの托鉢についての和歌数首について常不軽菩薩の話を交えて菩薩の同事行として話しました。50名ほどの聴衆がありました。29日(土)には午前中坐禅会があり、2炷の坐禅の後、シシリー島のパレルモなどから来られたサンガの人たちも交えて様々な質問に答えました。午後には、イタリア仏教連合(Italian Buddhist Union)で家内が曹洞宗のお袈裟、特に如法衣についての話をしました。

 

30日(日)には、ローマからパリのオルレー空港をへてクレアモント空港に着きました。空港から1時間半ほどの距離にあるレノア・禅センターで10月1日から3日まで3日間のワークショップがありました。テーマは私の著書のタイトルであるLiving By Vow (誓願に生きる)。3日間、午前中は私が、初日は内山老師と私自身の生き方を例として個人としての誓願(別願)について話し、二日目は四弘誓願文に沿って、菩薩誰もが持たなければいけない総願について話しました。3日目には道元禅師の「発願文」を紹介し、誓願と同時に懺悔が重要であることについて話しました。午後には、毎日二時半から五時まで2時間半テーマを決めて質疑応答がありました。

 

全ての予定が終わって、4日(木)にパリのドゴール空港で、3日間をパリで過ごした家内と合流し、コペンハーゲンに移動。翌5日(金)、コペンハーゲンからシカゴを経てインディアナポリスについたのは6日(土)午前1寺半ごろでした。

 

2018年10月8日

 

 

奥村正博 九拝

 

 

 

 

三心通信 2018年8月

 

夏季安居が円成して間もなく、7月16日にブルーミントンを出発して日本に行きました。私の日本語の本「今を生きるための 般若心経の話」が港の人という出版社から6月に出版されましたので、その機会に日本でいくらか話をさせていただくためでした。

 

7月20日から22日までは名古屋にある愛知専門尼僧堂の緑陰禅の集いに講師として参加させていただきました。3日間で4回の講義がありました。内山老師が遷化なさってから今年で20年になりますので、私が老師から教えていただいたことの中核である「一坐二行三心」の話をしました。二行とは誓願行と懺悔行です。三心は喜心、老心、大心です。これは内山老師が引退される時、安泰寺での最後の提唱としてはなされた、「安泰寺に遺す言葉」の中で語られたものですが、老師の著作の多くには坐禅はそのまま誓願の行であり、また懺悔の行でもあること、また三心は坐禅が我々の日常生活の中で働く時の態度であるということが述べられておりました。私にとっては、老師が引退されてアメリカに行き、師匠なしで修行して行くようになってからも忘れてはならない核心でありました。今に至るまで老師の遺言だと考えております。公開の場で日本語でまとまった話をするのはほとんど25年ぶりぐらいでしたので、錆びついた日本語が通用するかどうか心配しておりましたが、なんとかなったのではないかと思います。

 

26日には宗務庁がある東京グランドホテルで行われた禅と今の夏季大学の講座で話をする機会を与えていただきました。「菩薩の誓願」について話しました。峯岸正典さん、福島伸悦さん、石井清純さんをはじめ昔からの知り合いの方々にお会いできて楽しい時をすごさせていただきました。

 

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 27日には新宿の朝日カルチャー・センターで藤田一照さんと一緒に坐禅の実習と「現成公案」の講義、対談をさせていただきました。両講座とも40名ほどの人々が参加されました。みなさん熱心なのに驚きました。

 

28日に鎌倉に移動し、29日には藤田一照さんの本拠である葉山の茅山荘をたずねて一照さんと2時間の対談をしました。テーマは「只管打坐の醍醐味と落とし穴」ということでしたが、テーマどおりの内容になったかどうか自信がありません。焼津の林叟院の鈴木包一老師がきておられたので驚きました。

 

30日には鎌倉の由比ヶ浜の公民館のようなところで山下良道さんとの対談がありました。これは私の本を出版していただいた港の人の主催の会でした。良道さんは、安泰寺で得度し、私が1993年にアメリカに来るために園部の昌林寺を出ることになった時、その後に入っていただいた人です。その後、ミャンマーに行って上座部の比丘として修行し、現在では鎌倉に一法庵を創立して布教されています。対談のテーマは「只管打坐とマインドフルネス」ということでしたが、私にはマインドフルネスについての知識がほとんどありませんので、話が噛み合わなかったのでないかと思います。

 

以上のどの会場でも「般若心経のはなし」を販売させていただきました。日本ではほとんど知られていない私の、日本の書店では何十冊もあるであろうありふれた「般若心経」の話の本をせっかくいい本にしていただいたのに、出版社の方に赤字が出たのでは申し訳ないと思い、私のできるだけの努力はさせていただきました。多くの旧知の方々とお会いすることができ、また新しくお目にかかった人々との出会いもありがたいものでした。

 

それにしても7月の日本の暑さにたまげました。今年の暑さは異常だったそうですが、日中はなるべく外を歩くのを避けておりました。早朝や日が落ちてから散歩するようにしましたが、それでも10分ほども歩くだけで汗で衣服が雨の中を歩いたようにビショ濡れになりました。

 

それでも、鎌倉で、大学生の頃以来50年ぶりくらいに、鎌倉駅から鶴岡八幡宮に行き、建長寺円覚寺を経て、北鎌倉の駅まで歩いたときには、あの頃どんなことを考え、何を追求しようとしていたのか、様々なことが思い出されました。70歳になってまた同じ道を歩けるとは思っていませんでした。

全ての行事が終わり8月2日にブルーミントンに帰り着きました。それから3週間近くもたちますが、まだ夜の眠りが浅く、夜中に何度も目を覚まし、そのせいで一日中眠いという状態が続いています。それでも、三心寺のニュース・レターに連載した「道元禅師和歌集」の翻訳と短い解説の原稿を弟子の浄瑩さんがエディットしてくれたものを見直し、序文を書き、参考文献のリストを作りました。原稿で100ページほど、今までの本に比べると短いのですが、出版社から刊行できるように願っております。

 

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現在、三心寺の地下の禅堂に地下のコンクリートの壁を切り抜いて避難出口を作る工事が行われています。壁のコンクリートを切る仕事以外は、ワークリーダー(直歳)の発心さんが引き受けてくれています。その工事のためにお寺の坐禅堂が8月いっぱい使えないので、ダウンタウンオフィスビルの一部屋を一ヶ月間だけ借りて臨時の坐禅堂として使っています。時差ボケでよく眠れないため毎日朝5時から坐りにダウンタウンまで行くのは辛いのですが、目が覚めた日には行くようにしています。

 

日本ではまだまだ残暑厳しい日々が続くことでしょう。どうぞご自愛ください。ブルーミントンでは早朝は15℃程度、最高気温も25℃くらいまで涼しくなりました。

 

 

2018年8月23日

 

 

 

奥村正博 九拝

 

 

三心通信 2018年7月

 

西日本の広域に記録的な豪雨がふり、多数の死傷者、甚大な被害が出たとのこと、お見舞い申し上げます。当地では、異常というほどではありませんが、このところ連日摂氏30度を越す日が続いております。カナダから来た人によると、カナダでもここと同じような暑さで、モントリオールでは観測史上最高の気温を記録したとのことです。毎年のように日本だけではなく世界各地に異常気象、天変地異がおこり、地球全体として何か大きなものが変わりつつあるようです。人間の活動がそのことにマイナスの要因になっている可能性があるとすれば、私たちの生き方を変える必要があると思います。多くの人によってすでに指摘されていることですが、現在のアメリカの政権が、そのことを認めない人々によって運営されていることに不安を感じます。

 

昨日、5日間の禅戒会の最後に在家得度式がありました。これにて4月9日から3ヶ月間続いた夏季安居が円成いたしました。首座は発心・ショーフが勤めました。発心さんは、インディアナ州の出身でブルーミントンにあるインディアナ大学で美術を専攻した人です。その頃から禅や日本文化、芸術に関心があり、三心寺ができる前から坐禅修行をしております。自営の建設業で生活を支えており、三心寺でも長年直歳として務めてくれています。例年、安居の間は首座が日曜参禅会の法話をするのですが、今年は発心さんが、禅と詩、美術、建築、庭園などの様々な芸術について話をしてくれました。私は坐禅を始めるときに仏教の勉強と坐禅以外のことはすべてやめてしまいましたので、禅と芸術について話すようなことはできません。三心寺に来る人達の中にも芸術や音楽をする人が多いので、興味を持って聞いていたようです。

 

例年の通り夏季安居中、5月は眼蔵会、6月は坐禅に専注する接心、7月は禅戒会と、戒、定、慧の三学を主とした5日間の行持を行いました。5月の眼蔵会は三心寺創立15周年記念行事として、特別に2人の講師を招き、私と3人が分担して「正法眼蔵行仏威儀」の参究をしました。もう一人は、ミネアポリスのすぐ隣のセント・ポールにあるClouds in Water Zen Centerの前主任教師である白蓮・レギィア師です。もともとミネアポリスの禅センターで片桐大忍老師について参禅していた人で、私がミネアポリスにいた頃からの知り合いです。アメリカ人指導者の「眼蔵」の理解や、そのことをどのように受け止め自分の修行の中で実践しているかを聞くことができて、大変意味のある記念行事になりました。これからも機会を見つけて、アメリカ人の講師に来ていただいて「眼蔵」の参究をしたいと願っております。

 

昨年は眼蔵会の折にはTMBCC(Tibetan Mongolian Buddhist Culture Center)の大きな施設をお借りしたのですが、今年はあちらの都合でそれが不可能になり、会場が三心寺に戻りました。禅堂や台所、宿泊施設が十分になく参加者の数を22名に制限する必要がありました。これから、お寺全体の施設の改善を考えなければなりません。理事会でも、現在地で必要な施設を建てるかあるいは郊外の静かな場所にリトリートをする場所を作るか、なるべく多くの可能性を検討していくことになりました。

 

7月の禅戒会では毎年、「教授戒文」を講本にして、十六条戒の様々な面に焦点をあてて参究しています。今年は「序文」にある「諸仏大戒」という表現を取り上げ、道元禅師の戒は仏祖正伝の「正法眼蔵」あるいは「諸法実相」そのものだということを、具足戒と大乗戒(菩薩戒)の性格の違いについて、また道元禅師の「懺悔」は、間違いを犯したときにごめんなさいというだけのものではないということをについて話しました。今年は3人の人たちが受戒して仏弟子になりました。

 

長円寺本「正法眼蔵随聞記」の英語訳は、Wisdom社と出版についての契約を結ぶことができました。現在、出版社に提出できる原稿を作成する作業をしています。「道元禅師和歌集」の英訳と解説もこれから加筆訂正をするところです。

 

法光さんはこれまで副住職とオフィス・マネージャーを兼任して多方面の仕事をしてくれていましたが、このほどお寺の事務の仕事をしてくれる人を雇用することがきまりました。これからは専任の副住職としてもっと禅の指導者としての活動に重心がおけるようになります。おかげさまで私は坐禅や講義、翻訳や著作により多くの時間を使うことができるようになりました。

 

私の日本語の本「今を生きるための 般若心経の話」はもうすぐに出版されます。先月書きましたようにこれを機会に来週日本に行き名古屋の尼僧堂を始め数カ所でお話をさせていただきます。この25年ほど、公開の場で日本語でのまとまった話をしたことはほとんどありませんので、どういうことになるか、心配しております。

 

 

2018年7月10日

 

 

 

奥村正博 九拝